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朝焼け

作者: 向日町ひなの

君のコトバはリビドーの塊だ、と云われて突き返された朝。

焼けるノドとソラ。謳う。

君のコトバはリビドーの塊だ、と云われて突き返された朝。

焼けるノドとソラ。謳う。


日常的目覚め


「愛はお金では買えない」と豪語出来る御幸せな人達に対抗するかの如く、「愛は金で買える」と言い張る類の男達。金さえあれば風俗にだって行けるし、デリヘル嬢だって何時でも呼べるが、それで愛を買った気になっているのはお門違いというやつで、ただの一度も私は行為に愛を付随した事は無い。そして今朝の目覚めも私の横で、この勘違い野郎と同じ類の男が汚らしい鼾をかいている中で迎えられた。慣れた手つきでブラウスのボタンを留めた私は、黒革で出来た財布から札を数枚抜き取った。

「もう行っちゃうのかい。」

まだ半分寝たままのそいつが言った。面倒臭い、わざわざ起きなくて良い。寧ろ起こさないように静かにこの手順を踏んでいるのに、そいつは「愛はお金では買えない」と豪語出来る御幸せな人達に対抗するかの如く、「愛は金で買える」と言い張る類の男達。金さえあれば風俗にだって行けるし、デリヘル嬢だって何時でも呼べるが、それで愛を買った気になっているのはお門違いというやつで、ただの一度も私は行為に愛を付随した事は無い。そして今朝の目覚めも私の横で、この勘違い野郎と同じ類の男が汚らしい鼾をかいている中で迎えられた。慣れた手つきでブラウスのボタンを留めた私は、黒革で出来た財布から札を数枚抜き取った。

「もう行っちゃうのかい。」

まだ半分寝たままのそいつが言った。面倒臭い、わざわざ起きなくて良い。寧ろ起こさないように静かにこの手順を踏んでいるのに、そいつは何故か決まって私がベッドを立つ瞬間に目を覚ますのだった。きっとそいつが執着して止まない金の匂いが、この瞬間に空虚な朝の寝室に広がるのを嗅ぎ付けての事だろう。

「うん、仕事があるから。」

毎度の如く適当な嘘を吐く。就職活動も勉強もせず、とりあえず高校を卒業しただけの私に昼間の仕事なんてある筈が無い。今この瞬間に行なっている事が私の唯一の仕事だった。

「もう一万持っていきな。昨日は何時もより長くしてくれたから。」

「分かった。」

仕舞いかけた自分の財布を開いて、黒革財布からもう一枚移した。助かる、とは思うが有難うは絶対に言わない。これは唯の生活費であって、こんな金に感謝なんて出来る筈が無かった。例え何十万貰ったとしても、有難うだけは絶対に言わない。自分の価値をその額で納得してしまうような気がして、そしたら今在る自分の意識も欲望も全部捨てて、汚い男達の性欲に全てを捧げてしまうだろうから。

寝室のドアを開けて帰ろうとした私の背中に、そいつが言った。

「お前、幾つだっけ。」

「20、前も言ったでしょ。」

「……ハタチの壁って知ってるか。まだまだ若い気がしても、ハタチになった瞬間に急に体力が衰え始めるんだ。その壁にぶつかったお前を感じた夜はまだ一度も無いんだがね。」

私が上手いだけでしょ、とでも言い返してやろうと思ったが、ため息だけ吐いて何も言わなかった。これだから経験豊富なオヤジは面倒臭い。

「自分の事、大事にしろよ。」

私は振り向かずに寝室を出ていった。


「お前が言えることかよ。」

まだ薄ら寒い空に向かって、ぼそりと呟いた。自分でも聞き取れないぐらい低くて弱い声だった。大事にしろって本気で思っているなら、来て早々来週の予約を取ったりなんてしないだろ、普通。

でもまあ、今の生活で普通を求める私の方が可笑しいのかもしれない。私は鞄から煤けた水色のスケジュール帳を取り出した。今日は一日オフで、明日の晩にまた違う男の家に行くことになっていた。明日の相手は今日の奴とは違って、私が居なければ生涯童貞で人生を終えていたであろうような人間だから、さっきみたいに朝から冷や汗をかくことは無いだろう。

とりあえず今日は帰って寝よう。買い物は目覚めてからで良い。小さなアパートに向けて私の足は歩き出した。

ブラウスのボタンは完璧に留まっていても、左足のスニーカーの靴紐は緩いままだった。

何時まで経っても、この朝焼けの中で迎える虚無感だけは心地の良いものにはなってくれなかった。



再会


目を覚ますと時計の針は正午を回ろうとしていた。静かな本日二度目の目覚め。アラームが鳴り響く朝など、もう半年近く日常生活から姿を消したままだった。

お腹が空いた、買い物に行かなくては。固い床に敷かれた布団から、鉛の様な身体を無理矢理追い出した。ふと、目の前にある鏡に写った自分を見る。染め過ぎて傷んだ長い髪、まともに化粧も落としていない疲れた顔。

「お早う、本当の私。」

そう小さく呟いた。


買い物と言っても、アパートから徒歩四、五分程度のスーパーに行くだけである。とりあえずその日の昼ご飯になるお惣菜を買って、体力的にも時間的にも余裕がある日は夕飯の材料も買って帰った。今日は一日暇だから、夕飯は何か身体に良いものでも作ろう。身体に良いと言えば、肉じゃなくて魚。そう思ってお惣菜のコーナーを後にしようとした時、背後から誰かに名前を呼ばれた。振り返ると、スーツ姿で清涼な面持ちの若い男性が立っていた。

「ほら、やっぱり。久しぶりだね。」

それは高校で所属していたテニス部の、二つ上の先輩だった。そして同時に私が高校時代、思いを寄せていた相手でもあった。

「先輩、御久し振りですね。何なさってたんですか?」

「いやあ、ちょっと昼飯を買いに。いつもは仕事先で出前を取っているんだけど、今日はその出前先が急に休みになっちゃって、それで。」

「そうなんですね。お勤め先はここから近いんですか?」

「ああ、すぐそこの区役所だよ。」

「そうだったんですね、知らなかった。」

高校では垢抜けている方で、いつも友達と騒いでいた先輩が、今は御堅い役所勤めをしているなんて思いもしなかった。

「君は?大学進学したんだっけ?」

「いえ、大学には行ってません。」

「そうか、じゃあ俺と一緒だな。仕事は?」

「……ぼちぼちって感じですかね。」

「まあ、始まって半年かそこらだもんな。」

「そう、ですね。」

話に一区切りついた所で、彼は左腕に着けた銀色の時計を見た。自分の給料で買ったのだろう、割と良い物ではあったが、私が普段相手している男達

が着けている物と比べると安物に過ぎなかった。

「あー、ごめん。そろそろ仕事戻るわ。」

「分かりました、御仕事頑張ってください。」

レジに向かおうと歩き出した彼が急に足を止めて振り向いた。

「今日の夜ってさ、何か予定ある?」

「……いや、何もないです!」

少しだけ離れた所に立つ彼に向って、必要以上に大きな声を出してしまった私は、咄嗟に周囲を気にした。

「良かった。じゃあ今日夜八時に、ここの前で待ってて。この辺に良い店見つけたから。」

彼は少し笑ってそう言うと、またレジの方へすたすたと歩いて行った。

高校の頃は本当に憧れでしかなくて一言声を掛けるのも躊躇われてしまい、結局一度も思いを伝える事が出来なかった先輩に誘われたという事が不思議でならなかった。毎日会っていた頃は二人でどこかへ行く事なんて全く無かったのに、久しぶりに今日会うと呆気なく食事に誘われてしまった。これが、この感覚が要するに大人に成るという事なのかもしれない。そう思うと、こうして気軽に女性を食事に誘える先輩は自分よりも随分先を歩く存在に見えてきた。


何でも無い、平日の昼下がり。

辺りを見回すと、携帯を片手に足早に過ぎ去って行くサラリーマンや、おばさんの世間話に付き合わされる八百屋さん、止まりますご注意くださいとアナウンスをしてバスを停車させる運転手など、働く人達ばかりが目に入る。何時も自分一人だけがこの風景に溶け込めずにいるような気がして、この騒がしい昼間に対して逆恨みにも似た様な感情を抱いていたが、今日は違った。只々純粋に、働く人々が輝いて見えた。

外食なんて久しぶりだ。何を着て行こうかな、そんな事を考えながら私の足は少し弾んで家路を辿った。

左手にぶら提げたビニール袋の中には、昼食のお惣菜が一つ入っているだけだった。




午後七時三十分。昼間も来たスーパーの前に着いた。普段は時間ぎりぎりに家を出るのに、何か特別な事がある日は何故か決まって三十分前に家を出る癖が私にはあった。それは心積もりの為の三十分というよりも、ただ楽しみで早く用意をしてしまうだけだという感じがする。現に今日も、普段は十分足らずで終わる化粧に一時間近くかけた。時間をかけすぎて反ってアイラインが変に曲がってしまった。何色も重ねたチークは街灯に照らされると熱っぽさが演出されて、逆に不健康に見えた。それでもやはり一番時間がかかったのは服選びであった。良い店って……イタリアン?フレンチ?それとも和食の料亭?どんなお店でも馴染めて、かつ自分を一番大人に見せてくれる服。勝手に条件をつけてしまうから、女の子の服選びは難しくなるのだ。昨晩あの男の家の玄関に揃えたスニーカーは靴箱に仕舞って、まだ二、三回しか足を入れていない真っ白なヒールを履いた。そして何時もの倍近い時間をかけて、この近場でしかないスーパーにやって来たのだった。時間がかかったのは、ヒールのせいだけでは無かった。部活帰りの女子高生や、今から何処か安い居酒屋にでも飲みに行くであろう大学生の集団を六センチ上から見下ろした。私はあなた達とは違って、今から大人の男性と食事に行く。この平凡なゴールデンタイムの街とは少し切り離したテーブルに腰かけて、もっとゆっくりと流れる時間に浸るのだ。そんな思いを抱えて歩くと、自然と足並みは遅くなった。私だけこの街の景色から浮いている、そうはっきりと実感した。でもそれは、今までとは比べものにならない程の心地よさと優越感を兼ね揃えた疎外だった。今夜の月だけは、私の呆れた日常を拭い去ってくれる気がした。


八時を六分程過ぎた頃、昼間と同じスーツ姿の先輩が特に慌てる様子もなくこちらへ向かって来た。

「お待たせ。じゃあ行こっか。」

本当に待たせたなんて思っていないことは明らかだった。でもその態度が、忙しい社会人にとって五分や十分の遅刻などあってないような物だと語っているような気がして、更に大人に近付いたような、特別な気分になれた。


特に会話も無く、ただ先輩の三歩後ろを歩き続けて十分程した頃、

「ここ、俺のお気に入りの店。」

開店してからそれほど経っていない為小綺麗ではあるが、よくありそうな居酒屋の前で先輩は足を止めた。

「ここ、ですか。」

「そう。ここの焼き鳥が旨いんだよなあ。」

そう言って先輩は暖簾をくぐって先に店に入って行った。「良い店」という言葉に期待しすぎた私の格好は、この居酒屋でも浮いてしまいそうだ。しかしよく考えてみれば、社会人とは言っても私のたった二つ上なだけで、つい最近合法でお酒が飲めるようになった年齢だ。一人で勝手に期待しすぎた自分が急に子どもじみて思えて、首元のピンクパールのネックレスを引き千切りたくなった。

「二人で。奥の座敷空いてます?」

先輩が店員に言うのを聞いて、私も慌てて暖簾をくぐった。


先輩の希望通り、私たちは奥にある二人用の座敷に通された。真っ白なヒールは脱いだ瞬間、店員の手によって下駄箱に仕舞われた。

「何飲む?ってまだ十八だっけ?」

メニューに目を通しながら先輩が言った。

「あ、はい…。でも、大丈夫なら私もちょっと飲みたいかも。」

メニューを見ていたはずの先輩の目は、何時の間にか私に向けられていた。

「大丈夫でしょ、大学生には見えるよ。」

また少し笑いながらそう言って、先輩は店員を呼んだ。

「とりあえず生一つで…君は?」

「あっ、じゃあ私も同じので。」

「じゃあそれで。」

かしこまりました、と言って離れて行った店員が、生二丁入りまーす、と厨房に向かって言う後姿を私は見続けていた。

「乾杯。」

不意にグラスをぶつけられて、慌てて私も控えめに乾杯を返した。ビールの炭酸がひりひりと、私の疲れた唇を刺激した。

「で、最近どうなの。元気でやってる?」

「はい、まあ一応。」

「どこで働いてんの?」

「えっと、ちっちゃい会社なんですけど……。」

もうこの程度の嘘は、身を守る為の必需品に過ぎなかった。

「へえ。一人暮らし?」

「はい。先輩はどうなんですか?」

「俺も高校出てから一人暮らし。」

「そうなんですか、一緒ですね。」

その後話した事は本当に何でもないような世間話や昔話ばかりで、私は飲み慣れないビールを飲むのに必死であまり覚えていなかった。


「今、彼氏はいるの?」

急に話題を変えられて、私は何とも露骨に慌ててしまった。

「えっ、いや、いないですよ。」

慌てているが嘘では無いことはすぐに分かったのだろう、先輩はにやりと笑って言った。

「そっか、勿体無いな。お前、高校の時結構男子に人気あったのに。」

自分が男子に人気があるとは思ってもみなかったが、それよりも急にさっきまでの「君」とは違って、「お前」と呼ばれた驚きが、アルコールと共に全身をぐるぐると廻った。私の事を「お前」と呼んだのは酔いが回ってきた事が原因で、特別な理由は無いことぐらい、先輩の少し赤くなった顔と口調から分かっていたが、それでも自分の顔が火照って行くのが恥ずかしい位に感じられた。

「先輩はどうなんですか?」

その一言が言えなかった。さっき一人暮らしの話をした時に何でも無いように言った言葉と全く同じで、寧ろこの会話の流れなら一番自然な発言であるのに、先程の先輩の一言で得た幸福感を壊さずに握り占めていたくて、余計な事はもう聞きたくなかった。先輩が自分から言ってくることもなく、彼女がいるのかは不明のまま、その日の夜は終わった。


「家まで送るよ。」

店を出てすぐに先輩が言った。

「いや、ここからすぐなんで大丈夫です。」

「でも遅いし、女子一人じゃ危ないって。」

「本当に大丈夫です。先輩も明日お仕事なんだから、早く帰ってゆっくり休んでください。」

本当の事を言うと、家まで送って欲しかった。でもそれよりも、自分が住んでいるアパートが古くて小さい事を知られたくなかった。精一杯着飾って、ヒールで背伸びしたままの私で別れたかった。

「そっか。じゃあ、くれぐれも気をつけて。」

「ありがとうございます、先輩もお気をつけて。」

「そうだ、連絡先。高校の時から変わってない?」

「はい、ずっとそのまんまです。」

「良かった、じゃあまた連絡する。」

そう言って来た道とは反対方向に帰って行く先輩の後姿を眺めながら、この言葉は単なる大人の社交辞令か、それとも本当にまた連絡をくれるのか、緩んだ瞼を必死であげて考えた。

「帰って寝よ。」

そしてまた何時もの様に小さく呟く。先輩には明日もまた忙しい朝が来るのに、私には来ない。それが寂しく思えた。

誰もいない路地で街灯に照らされて、真っ白なヒールを少し引きずりながら歩く今の私が、一番景色から弾き出されているように感じた。

物音一つしない静かな夜。まだ少しひりひりするような気がして、外気で冷えた携帯電話を唇に当てた。



逃避


目覚めたらまた、何時もの如く昼過ぎだった。昨日の余韻に浸りながらも、今日の空気を胸一杯に吸って、大きく吐き出した。今夜もまた予約が入っている。手取りでお金が手に入るのは嬉しいが、やはり何処か遣る瀬無さを感じずにはいられなかった。夜までの時間は自分の為に使おう。そう思ってリモコンに手を伸ばし、撮り溜めていたテレビ番組をひたすら何時間も見続けた。ふと携帯に目をやる。先輩からの連絡はまだ無かった。今頃彼は目の前の仕事に奮闘し、綺麗な汗を流しているのだろう。それに比べて自分の目の前にあるのは、固体で有りながらも流動的な液晶の光。この流れと共に私の時間も無駄に流れて消えて征く。無機物を相手にする時間に、生きている実感は湧かない。だからと言って、今晩も仕事で相手をする男達が有機物だとも思っていない。物理学上は有機物だが、奴らをいちいち生き物として見ているとどうにも精神が持たない気がしていた。奴らにとって無機質な道具であるのは私の方かもしれない。しかし私は奴らを実体を得た性欲という無機物として扱う事で、自分の心を壊さずに保っていた。無機物に愛を与える必要は無い。だから私の仕事には一切心労は伴わないのだ。


気付けば、家を出る時間が一時間後に迫っていた。軽くシャワーを浴びた私は、女でいるための最低限レベルの化粧を施した。どうせ奴らは私の顔なんて見ていない。そんな奴らに会う為に化粧品を消耗するのがもったいなかった。服もどうせぐちゃぐちゃに丸めて床に投げ散らかされる。だから、本当にどうでも良い服を着た。他の人達と同じ様にデリヘル嬢にも仕事着がある。しかし、その仕事着の定義は嬢によってそれぞれで、精一杯めかし込む人もいれば、私の様な人もいる。サービス精神の無い奴だ、と思われるかもしれない。でもこれは、どんな食べ物も胃の中に入ってしまえば一緒理論と同じ類の考え方で、どんな女でも脱いでしまえば一緒なのだ。


「待ってたよ、さあ、入って。」

今日の相手は家の玄関先で私が来るのを待っていたらしい。私との行為をこんなにも心待ちにしてくれると言うのは、有難い事なのかもしれないが、野蛮な欲の強さが垣間見えるようで、私は一層彼に嫌悪感を抱いた。

それから十分もせずに、むさ苦しくて五月蝿い夜が幕を開けた。昨日の帰り道、夜に包まれて感じた静けさは夢だったのではないかと思う程、落ち着きの無い夜の空間。


ピロリン


その五月蝿さを断ち切る様に通知音が鳴り響いた。私は横目で、枕元に投げ出された自分の携帯の画面を確認した。そこにはメールのマークと共に、先輩の名前が表示されていた。

「何なに、もしかして彼氏からの連絡?」

男は手を止めて不服そうに言った。

「違うよ。」

私は視線を画面から男の顎へと移しながら言った。

「だよね。デリヘル嬢をわざわざ彼女にする男なんていないもんね。」

そいつは満足気に言って、私の頭を抱き上げた。その私の頭の中では、今男が言った言葉が響いて、拡がって、感情と共鳴していた。


デリヘル嬢を彼女にする男なんていない


客観的に考えれば当たり前の事に過ぎなかった。しかし当の私はそのデリヘル嬢であるから、客観的に考える事なんて出来なかった。そしてやっと、自分が今行なっている事のリスクを理解した。この仕事をする限り、私には彼氏が出来ない。恋が許されないのだ。真っ先に脳内に先輩の顔が過る。食事に誘ってもらっただけで舞い上がっていた私。その先には、先輩の恋人になるという結果を期待していたのかもしれない。しかしその私の淡いパステル調の夢が、今この小汚い男によって打ち砕かれた。瞬時に私は男に対して憎悪の念を抱いた。この男だけじゃない、今まで夜を共にした全員の男達が憎かった。私を恋の許されない女にしたのは、デリヘル嬢にしたのは、あの男達だ。そんな理屈が通用しないのは分かっていた。この仕事をすると決めたのは紛れもなく私自身だ。それでも、先輩という存在が私の中で再び膨らみ始めた分、男達を撥ね返す力が強くなっていた。

私は男を力一杯突き飛ばし、慌てて服を着た。

「えっ、どうしたの急に。何で?帰るの?」

私は無言のままボタンを留める手を速めた。

「まだ終わってないじゃん!」

そう言って男は私の左手首を掴んだ。

「離して!!」

その毛むくじゃらな手を払い除けて、私は足早に家を出た。


まだ空は真っ黒だ。夜の冷たい空気が当たり、私の濡れた頬は一段と冷たくなった。

お金何てもうどうでもいい。無機物が私を暖めてくれる事なんて絶対に無いんだ。何故なら私が無機物を愛さないように、無機物も私を愛さないから。今の私は余りにも惨めで、今夜は余りにも寒過ぎる。有機物に暖められたい。人に暖められたい。先輩に、暖めて貰いたい。先輩の体温を今すぐに感じたい。

私は携帯を取り出し、メールを開いた。

「昨日はありがとうね。久しぶりに話せて楽しかった。また近々飲みに行こう。」

その文章の内容に沿って返事をする余裕なんて無かった。寧ろ内容なんて読んでいないに等しかった。

「今から会えますか。」

その一言だけ送信して、私は街頭の下で泣き崩れた。

この街までもが、哀れな私を照らし出す。今直ぐ私と一緒にこの夜を消し去って下さい。携帯電話を握り締めながら、私は見えない神様に懇願した。



朝焼け


ここに座り込んでからどれだけ経ったのだろう。

ふと、暖かい手が私の右肩に触れた。

「先輩……。」

見上げた私の顔は、どれ程崩れていたのだろうか。先輩は私の目だけをじっと見据えていた。

「とりあえず、僕の部屋に行こう。夜は冷えるから。」

先輩に手を引かれながら、私はただただ地面ばかりを見つめて歩いた。


顔を上げた時には、先輩の部屋の玄関に立っていた。照明が明るくて落ち着いた部屋。同じ一人暮らしと言えども、私のぼろアパートとは比べ物にならなかった。生活空間の綺麗さが人生の綺麗さを反映しているようで、、私は更に自分と先輩の間にある分厚い壁を感じた。

「入って、散らかってるけど。」

縦に大きく頷いて、私は部屋に上がった。

「ごめんなさい、こんな夜中に呼び出してしまって。もう、すぐに帰りますから。」

淡いオレンジ色の照明の下に立った瞬間、罪悪感が込み上げた。恋人でもないのに今から会いたいだなんて、言って良い訳がない。私にあんなことを言わせたのは、夜の街の、あの月の光だ。一人で舞い上がった上に迷惑まで掛けてしまっている自分に腹が立つ。

「大丈夫だから。座って。」

それでも先輩は私の肩に優しく手を回して、柔らかいベッドの上に座らせてくれた。

「何があったかなんて、聞いたりしないから。……落ち着くまでここにいたらいい。」

その言葉の暖かさが私の冷え切った心に沁み込んでいく。冷えたグラスに熱いお茶を注ぐと割れるように、私の心は今にも割れて飛び散りそうで、ズキズキと痛んだ。

「ごめんなさい、私本当に、だめで……。」

涙が零れ落ちそうになった時、私の唇は暖かさと柔らかさで覆われた。

「お前は、だめなんかじゃないから。」

そう言って先輩はもう一度、私の冷え切った唇にキスをした。


私も、愛されて良いんだ。


悦びとも驚きとも言えない感情が全身を駆け巡った。そして今この全身を巡るエネルギーを愛に変えられるような気がして、私は先輩を強く抱きしめた。それに応える様に、先輩も私の身体を強く抱きしめた。有機物と有機物の抱擁は、こんなにも暖かい。初めての感覚だった。


幾つもの薄汚れた夜を通り過ぎて今やっと、愛する人の為にこの身体を捧げられる。お金じゃない、私が人として、一人の女として愛されるという幸せのために。この幸福感は幾ら出したって買えやしない。今まで相手をしてきた男達とさっきまでの自分が惨めに思えた。今まで大人が夜にこうして泳ぐ意味が解らなかった。何が楽しいのか、目的がお金ではないのなら何のためなのか。

でも今なら解る。心から愛したい人を独り占めにするこの幸せのために、この淫らな遊戯があるのだ。

この幸せを先輩に伝えたくて、先輩が流す汗に応えたくて必死だった。私のこの思いを歌声にして、叫び続けた。苦い思いを涙と共に飲み込んだ。このまま体力が奪われ続けて死んだって構わない、本気だった。


長くて、深い遊泳であった。さっきまでが嘘のように静かに眠る先輩の隣で、カーテンの隙間から見える夜の空気を眺めた。この暗闇は汚れを隠すためにあるのではない。今にも光出しそうな程熱い恋人達を優しく覆うためにあるのだ。私は視線を先輩の背中に移した。男は誰だってこうして急に夢から冷め、そして本当の夢の中で眠る。今まで何とも思ったことは無かったが、今日はその背中が愛おしくて故に寂しかった。

デリヘル嬢なんてやめて先輩だけの女になりたい。あの男はああ言ったが、先輩とは一夜を越すことが出来たのだ。きっともう大丈夫。現に私はこうして先輩の体温を感じている。この36℃こそが愛の温度なんだ。

「ねえ、先輩。」

私は先輩の背中を抱き締めた。先輩ならきっと解ってくれる。さっき泣いていた理由も、私が職に就かずにデリヘル嬢をしていることも、全部全部打ち明けよう。

「……何?」

「先輩、あのね私…」

「終わったんだから、早く帰ってくれる?」


えっ…。その冷たくて低い声が頭の中に広がって、何度も木霊した。

「お前さ、身体売ってるだろ。」

「え、なんで…」

「そうじゃなきゃタダの18歳にあんなことできねえよ。」

私はただ先輩に応えたいだけだった。どうしてばれたのかが全く解らない。

「俺さ、高校の時お前のこと好きだったんだ。」

「わ、私も…」

私の焼けてかすれた声を無視して先輩は続けた。

「だからスーパーで会った時、チャンスだって思って飯に誘った。今日だって急だったけど、お前に頼られて嬉しかった。でも…」

でも……?言葉の続きを待つ私の心臓は、今にも急停止しそうな程の勢いで稼働していた。

「やってる時に分かったんだよ、お前は素人じゃないって。」

「どうして…?」

「どうしてって、普通あんな声出すかよ。お前のあの声は、あの言葉は、性欲の塊でしかなかった。」

違う、仕事の時はあんなんじゃない。衝撃だった。私の愛情表現は伝わらないどころか誤解されてしまった。

「それ以外にも……。お前、俺を呼んだのも身体目当てだったんだろ?それを仕事にするぐらいだもんな、男の身体なら誰でも良いんだろ!」

違う、違う、違う。声に出して言いたいのに、涙だけが溢れる。あの男の言う通りだ。こうなったのは全部デリヘル嬢をしているせいだ。お金の為だけに自分の身体を差し出して、あの男達を散々見下してきたせいだ。だから悪いのは全部自分だ。そう思うともう何も否定できなかった。

愛する人にまで疑われる自分を創り上げたのは、紛れもなくこの私と幾つもの汚れた夜だった。


「ごめんなさい。」

それだけ言って私は部屋を後にした。

ずっと俯いていたせいで帰り道が解らない。いや、そもそも私に帰る場所なんてあるのだろうか。

「もう、戻れないんだな…。」

午前5時の空は、薄らと焼けていた。

私を包むのは夜なんかじゃない、この朝焼けだ。男達の家から帰る私が見上げる、この朝焼け空なんだ。

焼けた喉を擦りながら、朝の空気を肺一杯に吸い込んだ。



(完)




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