第1章 覚醒 2
見知らぬ天井だった。
格子状に筋がきっちり入った白い天井だ。それは、規則や規律といった堅苦しいものを、恭平に連想させてくる。飾り気のない真っ白なものであったため、そう感じたのかも知れない。それを、上下を瞼の幕で遮られた薄目で、恭平はぼんやりと見ていた。
白い霧がかかったような恭平の頭には、ここが自宅ではないということだけがかろうじて分かる。どうして、今ここに自分がいるのかは分からない。と言うより、そこまで思考が至っていない。ただ、ボーッと染み一つない白を眺めていた。何かが、恭平の頭の中に引っかかっていた。今見ているものと同様白いイメージ。
そのイメージは、なかなか結実しない。
漠然と、白が恭平の頭の中を支配している。
ピッピッピッピッ――。
電子音が近くで鳴った。上から視線を外し、恭平は辺りを見回す。ご大層な機材が、周囲に置かれていた。恭平は、ベッドで横になっていた。身体から、何本かのチューブが伸び出ている。電子音の正体は、脳波計からのようだった。意識が戻ったことを知らせるためのものだ。
「……病院? ……どうして?」
かろうじて、ここがどこなのか恭平は理解する。だが、どうしてここに自分がいるのか分からない。
光と轟音のイメージが、恭平の中で湧き上がる。チカチカチカした瞬く光とシュッシュッシュッという微かな音、爆音。それから、白に変わって青が、恭平の頭の中を染め上げていく。白と青が、ぐるぐる恭平の頭の中を駆け巡ったが、決してそれらが明確な意味を持つことはなかった。
恭平は混乱した。めまぐるしく思考だけ沸騰していくが、何なのか分からない。ただただ、恭平を不安にさせるだけだった。白と青が、激しく己の存在を主張し相克しあっていた。
軽く、恭平は頭を振った。せめぎ合う白と青を、追い出そうとする。
自分の身体を、恭平は改めて見た。怪我を負っているらしかった。その原因が何なのか、思い出す。思い出してしまった。
純白の近代さを有した華奢な鎧姿をした凜々しい少女を思い出す。普段はない厳しさを宿した顔には、これから敵に挑む決意が浮かんでいた。その姿は美しくとても勇壮だった。
「――――あっ――――」
恭平は、ハッとした。
「三島亜美……彼女だ……」
その白き戦乙女の名を、恭平は口にした。亜美のことは、嫌というほど知っていた。知っていたといっても、それは、メディアが作り出した亜美ではあったが。恭平が密かに憧れを抱いていた存在。それが、三島亜美だ。
「あれからどうなったんだろう?」
自分に何かが起こり、亜美が――ヴァルキューレアーマーの一つブリュンヒルデアーマーを装着した白き乙女が、自分の盾になってくれたことまでは覚えている。だが、その先は、ぷっつりと記憶が途絶えていた。
「三島さんは、無事なのか?」
それが心配になった。相手は、全部で七人いた。中には、ナイトアーマーを有する騎士も。数から言えば、圧倒的に不利だ。
亜美が追い込まれてしまう原因を、恭平が作ってしまった。休日の空中庭園に突如響き渡った轟音。皆はそれに恐怖し逃げ惑った。恭平もそうすべきだった。そうしていれば、人質のようにされ亜美の不利を招くことはなかった。
後悔の念が、恭平の中に湧く。
「彼女の身に何かあったら……もしかしたら、ここの病院で治療を受けているかも」
恭平は、亜美が戦闘に負けたことを前提に、考えている。
あの芸術的とも言える屈託のない精緻な美貌と魅力的な全身が、壊されてしまったのではと心配になった。今すぐ、ここを抜け出し、病院の中を捜し回りたい衝動に襲われた。下手をすれば、亜美は命を落としているかも知れないのだ。
「俺の、俺のせいだ……」
激しく、恭平は己を責めた。
ちょっとした好奇心が、とんでもない事態を招いてしまった可能性が高い。
身体に繋がれているチューブを見た。以前、ニュースで見たことがある最先端医療の一つ、ナノマシンによる治療と酷似していた。一部の研究機関か病院でしかこの治療は行えず、かなりの高額だということを覚えている。
いくら機動装甲による犯罪に巻き込まれた被害者である自分に対してだろうと、まさかそんな法外な治療をするはずはあるまいと思う。一応は……。
そのチューブに、恭平は手を伸ばした。引き抜き、亜美の安否を尋ね回りたい。
以前は、メディアを通してしか見たことがなかった三島亜美。そんな亜美を、実際に目にしたのだ。実物の亜美は、夢想していた以上に魅力的だった。完全に、恭平は魅了されてしまっていた。美しくも気高い亜美に。最後に目にしたブリュンヒルデアーマーを纏った亜美は、まるで天界の戦女神のように神々しかった。
チューブに手をかけ、ゴクリと恭平は生唾を飲み込む。もしこれが最先端のナノマシンによる治療であるならば、数億円を無駄にすることになる。だが、その必要はなかった。
シュッと音を立て、病室の扉が開いた。
「気がついた?」
そう問いかける抑揚の少ない女の子の声が聞こえた。
恭平は、そちらを見る。そこには、三島亜美が、無表情に立っていた。
「え? あ、あ、あのー……」
咄嗟に恭平は言葉が出てこない。勝手に、亜美は戦闘に負けたのだと思い込んでいたのだ。それが、傷一つ負った様子もなく、気遣わしげな視線を恭平に向けてくる。チューブを握ったまま、恭平は固まった。
以前から憧れを抱き日付が変わっていないなら今日初めて実物を目にした、美の化身とも言える亜美が目の前にいるのだ。亜美は、恭平がチューブを握っていることを見咎め、小首を傾げる。
「それは、とっちゃ駄目だよ。今、君の怪我をナノマシンが治している最中だから」
そう言いつつ近づき、恭平の手を握った。
カーッと、恭平の顔が熟したトマトのように赤らむ。憧憬を抱いた女の子に、手を握られてしまった。力が抜け、チューブから手が緩む。それを確認し、亜美は恭平の手をゆっくりと離れさせていく。それから、握っていた恭平の手を放した。
――て、手を握られちゃった……すっごく繊細な感触だった……。
半ば、恭平は恍惚となってしまった。
戦闘に巻き込まれたときは、こうしてじっくり見ていられなかった。近づかれて、嫌でも亜美の自然な雰囲気を有した美しさに心奪われてしまう。全身は、細すぎでも肉付きがよすぎるわけでもなく、すんなりとしている。戦闘中は、青丹色と白色の戦闘服をアンダーウェアとしていたが、今は恐らく学園の制服だろうと思われる服を着用していた。休日であるのに制服姿であることに恭平は少々疑問を感じたが、今はどうでもいいことだ。
制服を着ていても身体の均整の良さは、よく分かる。細くくびれた腰。それに目が行っただけで、何とも言いようのない劣情が恭平をちくちく刺激する。そこから下に続くラインは、とてもしなやかだった。青丹色の戦闘服を着ていたときに見えたほどよい肉付きをした太股を、嫌でも思い出してしまう。そのアンダーとバランスがよいトップは、小さすぎず大きすぎぬ膨らみを制服に作っていた。そして、無表情で淡々としていながら屈託のない精緻な美貌は、神々しさすら感じる。
亜美は、類い希な容姿を持ちながらも、とてもナチュラルだった。そこが、天才騎士としてメディアに引っ張り出される亜美に、人気を与えていた。作り物ではない本物のアイドル。本人は、メディアに晒されることをあまりよく思っていないようだが、そこには立場というものがあった。今の日本を主導する名家の子女として、広告塔の役割がある。亜美の家は、世界政府といった維持機構にとって重要な役割を担っているのだ。中学生で、白き乙女の二つ名を与えられ、一躍有名になった。若く美しい。宣伝役としては、打って付けなのだ。
「ご、ご、ごめん……」
狼狽え気味に、恭平は謝った。まだ、亜美の手の感触が残っている。
顔が赤らんでいることが自分でも分かり、恥ずかしさで更に恭平の顔が赤くなる。そんな恭平を、亜美は少々不思議そうな表情で見ている。
「構わない。目が覚めて、いきなり訳の分からない物が、身体に刺さっていたら驚く」
あまり感情らしきものが、口調に出ない。それは、以前から恭平が知っていた亜美だ。このすれていない感じが、余計亜美の人気に拍車をかけていた。
――あの後、どうなったんだろう。
チューブを引き抜こうとしていた理由を、恭平は思い出した。恭平は、亜美が自分の意識が途切れた後どうなったのか案じていたのだ。いても立ってもおられず、亜美の安否を確かめようとした。そのとき、当の本人が現れたのだ。
「俺、途中で気を失っちゃって、あの後どうなったのか分からないんだ。三島さんは、怪我とかしてないの?」
恭平は、それが気がかりだった。見たところ怪我などを負っている様子はないが、相手の数が多かった。どうして亜美が無事なのか、分からない。
「わたしは、平気。平気じゃないのは、君の方」
「そうかも知れないけど、敵はあんなに大勢だったじゃないか。よく無事だったね」
「――?」
亜美は、恭平の言葉に首を傾げる。言っている意味が分からないというように。
「誰か、仲間が助けに来てくれたの?」
「来る前に終わった」
そう答える亜美の口調に、変化はない。
「終わったって、あんなに敵がいたのに……どうやって逃げたの?」
「逃げていない。逃げたのは相手の方」
「え?」
亜美の答えは、恭平が想像もしていないものだった。相手は、騎士も含め七名。とても、勝てるとは思えなかった。
「アマルガムを装着した方の仮面を付けた女が、本気を出していなかったから。多分、彼女が彼らの中で一番強い。三人の機動装甲を消失させたら、引いた」
当たり前のように、亜美は答えた。
「それって、三島さん一人で、あいつらを追い払ったっていうこと? 嘘……」
俄に、恭平は信じられなかった。いくら天才騎士と持て囃されても、あれだけ大勢に囲まれて一人で対処してしまう人間などいるはずがないと、恭平は思っていた。
「そう」
恭平の問いに、亜美は頷く。
ぞくりとしたものが、恭平の背に走った。七対一。そんな状況を打開できる者など、ドラマや映画などに存在する架空の存在だと思っていた。現実に、そんなことができる人間などいないと。だが、目の前の亜美はやったと言っている。正直、天才騎士と誉めそやされている亜美ではあったが、それは少しだけ他者より腕が立ち家柄と容姿で持ち上げられているだけと思っていたのだ。恭平は、亜美を見くびっていた。
「一人で、あんな大勢を……」
目の前にいるのは、容姿に優れた女の子である。特に屈強そうでもない。そんな亜美のどこにそれほどの力があるのか、恭平には理解できない。
「彼女の実力を、君は理解していないのね」
突然、そんな声が病室の入り口から、投げかけられた。
少々驚き、恭平はそちらを見る。そこには、スカートスーツを隙なく着こなした女性が立っていた。卵形の顔はよく整っていて、銀縁眼鏡が知的な印象を与えてくる。スーツの上からでも、いかにプロポーションがよいか分かる。誰だろうと、恭平は思う。
「意識はしっかりしているみたいね。よかったわ」
笑みを浮かべながら、その女性は恭平に近づいてきた。
「わたしは、世界政府直属のサモンポリス養成校、聖鈴学園の教師五月雨ゆかりよ。君のことを三島さんに聞いて、興味が湧いたの。よろしくね」
そう言いながら、五月雨先生は、恭平に手を差し出してくる。
恭平は一瞬迷ったが、その差し出された手を握った。とても、ひんやりとしていた。
「戦闘中覚醒するなんて、滅多にあることじゃないのよ」
五月雨先生は、恭平の手を握りながら、喜色の混じった声でそう言った。
「覚醒?」
何のことだろうと、恭平は首を傾げ顔に疑問の色を浮かべた。確か、あの黒ずくめの女戦士も、そんなことを言っていたような気がする。
「君は、騎士になったの」
幾分、握る手に五月雨先生は力を込めてきた。恭平は、もう手を放そうとしているのだが、五月雨先生が放してくれない。
「え? お、俺が、き、騎士に……」
告げられた言葉に、恭平は呆然となる。騎士とは、この世で最強の存在であるとの認識はある。そのため、様々な特権を与えられている。だからこそ、自分などには縁遠い存在だと思っていた。亜美は騎士だ。だから、憧れることはあっても、手など届くことはない相手だと認識していた。
ミーハーに、憧れることだけを許される相手。亜美の家柄を抜きにしても、一般庶民と騎士とでは、それだけの隔たりがあるのだ。
「そ。三時間前の戦闘で、君は装着していたホズミを上書き――覚醒した。それって、騎士になったっていうことなの。そのときのこと、覚えてる?」
「……ぼんやりと……頭に変な情報が流れ込んできて、身体が青く光って……」
そのときのことを、恭平は必死に記憶を探り出し思い出そうとする。だが、頭に靄がかかっているみたいにぼんやりとしていて、はっきりと思い出せない。
「大抵の騎士は、オーバーライドプロトコルを引き継ぎ世襲をするものだけど、それって初めて騎士となった者が、その家には存在したっていうことなの。君は、覚醒し騎士となった。今の時代、希少なことなんだけどね。機動装甲が登場して約七〇年。素質のある家系は、とっくに騎士となったものが現れていた」
そう言いながら、五月雨先生はゆっくりと恭平の手を放した。
「あのときのあれが、覚醒……」
「ねぇ、君塚君。サモンポリスになる気はない?」
五月雨先生は、じっと恭平に興味ありげな視線を注いだ。
「え? 俺が?」
いきなりな言葉に、恭平は戸惑う。全く考えもしなかった進路だ。
「君塚君はわたしのことを知っていたみたいだけど、自己紹介をしていなかったね」
亜美が、右耳に下がった白いイヤリングを弄りながら、話に入ってきた。
「わたしは、三島亜美。君は騎士になった。今の世界は騎士を放っておかない。君は、選択を迫られることになる。もう普通の生活は送れない。学園で待ってる」
淡々と、亜美はそう恭平に語りかけてきた。屈託のない美貌をまっすぐ恭平に向けて。ナチュラルな亜美の雰囲気が恭平の中に染み入ってくる。
これは、もしかしたら運命の出会いなのではと、恭平は身の程知らずにも思ってしまった。