第4章 パートナー 1
転校三日目の朝、恭平は少々寝不足気味な頭で高等部の校舎へ向かった。
昨夜、亜美のことを色々と考えてしまった。中学生のときにあった出来事。亜美を慕う後輩を、自殺未遂に追い込んでしまったこと。五月雨先生は、その後輩はプレッシャーに負けたのだと言っていた。亜美の期待に応えられなかった、と。それほどまでに三島亜美といった存在は大きかったということだ。
恭平を悶々とさせたのは、自分をその後輩と重ね合わせたからだ。恭平にとっても、亜美は光り輝く眩しい存在だ。いつの日か、隣に並べる己になりたいと願っている。だが、それが叶わぬと思い知らされたとき、自分はどうなるのだろうと考えてしまう。尤も、今の恭平では間違っても足下にも及ばぬ相手だったが。
それでもいつかは、と思ってしまう。
全く及ばぬ存在である亜美に近づこうと――騎士としての実力を付けていって、それでも絶対に彼女と並べぬ矮小な己であると真に気付いてしまったとき、恭平はどうするのか分からなかった。それだけ、亜美は恭平の中でその存在を大きくしていた。
だから、何となくその後輩の心情が分からなくはない。きっと絶望したに違いないだろうと思える。昨日見せられた白き乙女の戦闘映像。それだけでも、恭平は戦慄を覚えたものだ。一個の人間が、ああも強くなれるのだろうか、と。
恭平自身、この学園では確実に最下位に位置するど底辺の実力――というか恭平ほど低レベルな者は存在しない。そんな恭平から見ても、亜美がここで平均的な者たちのレベルを遙かに超えていると分かる。一層、亜美が遠のいたように感じた。このまま亜美に魅せられていき、冷静な判断力も失えば一体自分はどうなるのだろうか、と一人悶々とした。
ここに恭平がやって来たのは亜美がいるから、彼女が待ってると言ってくれたから。だが、恭平と亜美では隔絶しすぎている。いくら憧れても手が届きっこないと思えてしまう。それと同時に、亜美のことも心配だった。
亜美は、中学時代のことで孤立している。自分を慕う後輩を、自殺未遂に追い込んでしまった。そのせいもあってか、誰も亜美に近づかない。
そのようなことを考えながら、校舎の入り口をくぐる。この学園は、世界政府直属ということもあり、日本的な風習と少し異なる。一般的な日本の高校にある昇降口がなく、当然下駄箱もない。そのまま上履きに履き替えることなく中へ入っていける。
少々、憂鬱な気分で階段を上がっていく。
朝であるので、爽やかな喧噪がかまびすしい。
それらのコーラスを聞きながら、恭平は気分を持ち直させていく。一ーBの表札のかかった教室の扉は、開け放たれていた。今日も、一日乗り切らねばならない。落ち込んだままでは、周囲に負けてしまう。亜美のことは心配だが、それ以上に恭平はここでは問題児なのだ。戦闘訓練の授業では、未だに一人で自習をさせられている。まだ、皆の訓練に加わるのは早いと、五月雨先生が判断してのことだ。
「お早うございます、君塚君」
丁寧な朝の挨拶が、恭平の耳に心地よく入ってくる。清流のような声音に、心が洗われそうになる。が、次の瞬間、凍り付かされた。
「よく、顔を出せますわね」
突然、その声は尖ったものに豹変する。上品さのある――悪く言えば鼻に掛かった口調に、見なくても誰だか分かる。八幡涼子だ。涼子は、普段から一緒にいる女子二人と、恭平の方へと歩み寄ってきた。臈長けた美貌と楚々としたスレンダーな全身からは純和風の雰囲気が醸し出されいかにも魅力的だが、恭平にとって避けたい相手だ。
「…………」
恭平は、クラスの皆に視線を向けられ、ピキリと固まる。一昨日の戦闘訓練の授業が思い出される。あのときも、涼子は、皆を扇動して恭平を晒し者にしようとした。亜美が助け船を出してくれたが、まだ彼女は教室にいなかった。
「わたくし、あなたを少し見直しました。普通の方なら、ご自分の実力を思い知れば、ここから去って行くものですわ。尤も、君塚君のような問題外の方など転入してきませんので、そのようなことは見たことがありませんが。五月雨先生にも見放されて、この二日間一人で自習。恥ずかしくありませんの?」
涼子の目は、獲物を追い詰めるような鋭さを帯びている。美しい桜色の唇から発せられる言葉は、鋭利な刃そのものに恭平の心を抉る。
教室の入り口で、恭平は動けなくなってしまった。
自分が自覚していることを、皆の前で言われる。それは、かなりきついことだ。敵と見定めた相手に対すると、涼子はかなり意地が悪く厳しそうだ。何かが、恭平の中でぷつりと音を立てて切れた。
「……だから?」
押し殺したような恭平の声。涼子を見詰める瞳は挑戦的だった。亜美が孤立している原因の一つに、目の前で立ちはだかる涼子の存在もあったのだと思い出す。
「何ですの? その目と物言いは」
「無礼ですわ」
「涼子お嬢様になんて口の利き方をするのかしら」
涼子の瞳にも、確実な敵意が宿る。屈服しない恭平が、いかにも気に入らないと言いたげだった。二人の取り巻きも、恭平の態度に腹を立て色々文句を口にしていた。
「今更そんなことを言ったって、無意味だな。俺がここに転入してきたとき、使えない奴だってことは誰だって知っていた。改めて教えてくれなくてもいいよ」
かなり、恭平の口調はぞんざいだった。目の前の涼子は、恭平が憧憬を抱く亜美の敵であることは間違いない。
「なっ――」
驚いた顔をし、涼子は絶句している。家柄もあり、恭平のような無礼な態度を取られたことなどなかったのだろう。だが、恭平は少し前までただの庶民だった。それが、偶然覚醒し騎士となり、謂わば義務としてここにいる。八名家の子女である涼子を怖く感じていたが、よく考えれば必要以上に恐れることはないのだ。涼子に、恭平の居場所をとやかく言われる筋合いはない。涼子はまだ恭平も騎士であることは知らないのだ。
本来、ここに恭平がいることがおかしいのは確かだが、いなければならない恭平の事情もある。今、ここで涼子に対し唯々諾々と怯えれば、それこそ恭平は居場所を失う。そして、何よりも亜美を敵視していることが、気に入らない。
暫し、恭平と涼子は睨み合った。目には見えない火花が散っている。
「まぁまぁ、君塚君」
いつの間にか、伸行が近くに来ていた。
「一般校からここに来てまだたったの三日目。自分を使えないとか言うのは、まだ早いと僕は思うよ」
眉目秀麗な白皙の美少年である伸行が、爽やかな笑みを浮かべ恭平と涼子の会話に割って入ってきた。
「君塚。おまえ、そんなこと気にしてたのか? だからってそうムキになるなよ」
恭平の背中をバシッと叩きながら、将人が笑い飛ばす。
「別に、ムキになってなんて――む、ぐ――」
「しょうがない奴だなー」
将人は、恭平の首に腕を回し、ぐいっと自分の方へ引っ張りヘッドロックを決める。恭平の言葉は強引に掻き消された。簡単に振り解けないほど、将人の力は強かった。
恭平は、がっちり首から頭を固められ動けないので、目だけを将人に向け抗議の色を浮かべる。先に仕掛けてきたのは涼子だ。なのに、恭平が涼子に喧嘩を売ったように言われるのは、心外だった。
「何ですの、あなた方は? わたくし、彼と話しておりましたのよ。彼がご自分の立場をよくわきまえていないようでしたので、教えて差し上げておりましたの。邪魔しないでいただけませんかしら」
不愉快げに、涼子は伸行と将人を見た。
「わざわざ、朝っぱらから言うことじゃないだろう」
恭平を黙らせた将人が、幾分挑戦的に涼子へ対した。じたばた、恭平は藻掻く。恭平には喋らせないつもりらしい。
「そんなこと、片桐君には関係ないことでしょう。わたくしは、彼の思い違いを正していたのです。それを、君塚君が、過剰に反応して……まさか、あそこまで思い上がっているとは思いませんでしたわ」
長い黒髪を、涼子は右手で梳きあげる。表情の端々に不愉快さが滲み出ている。
「今日の君塚君は、虫の居所が少し悪かっただけだよ。気にしないで、八幡さん」
やんわりと伸行は、涼子に微笑みかける。それは、とても素敵だった。
クラスの実力者二人に言われてか、希有な美男子である伸行に遠慮してか、涼子は無言で立ち去っていった。二人の取り巻きは、恭平を睨み付けて。
「何するんだよ」
将人の腕から解放された恭平は、抗議を口にする。
「仕方がなかったんだよ。君塚君が、本格的に八幡さんと対立するのはまずいから」
伸行が、隅に恭平を引っ張りながら、声を落として言った。
「まぁ、あれは八幡が悪いんだけどな。朝っぱらから八幡のやつ、素人の君塚に絡んで。何つーか、君塚、おまえ、厄介な奴に目を付けられたな」
頭をボリボリかきながら、将人は柄にもなく困った顔をした。涼子は八名家の子女だ。面と向かって将人も批判できないのだろう。
「そうだね。何だか、君塚君の転校初日から、彼女の態度は変だった。一体、君塚君の何が気に入らなかったのかな? 彼女、体裁とか大事にするから、クラス委員長って立場だし、度量の広いところをみんなに見せると思うんだけど」
伸行は首を傾げ、取り巻きの女子二人を連れて自分の席に戻る涼子を見遣った。涼やかな顔には、やや困惑した表情が浮かんでいる。
「ああ、それなら心当たりがあるよ」
恭平は、一昨日――転校初日の昼休みを思い出す。最初、涼子は優しげな態度を、恭平に取っていた。伸行の言うとおり、一般校から来た恭平に度量の広いところを見せた。
「転校してきた日――マリーナにぼろ負けした後、カフェテリアの場所が分からなくてマップを表示させていた俺に、声をかけてきたんだ。場所が分からなくてお困りですかって、ね。それで、一緒に昼食を食べた」
常に涼子は、笑みを絶やさなかった。臈長けた美貌と清楚な全身と相俟って、素敵な笑みだった。
「優しい人だなーって、思ったよ」
「それが、どうしてああなった?」
恭平の話に、将人は首を捻る。
「態度が一変したのは、三島さんの話をした後」
劇的だったと、恭平は思う。素敵な笑みが一変し、親しみなど感じさせない冷たい怒りがその臈長けた美貌を支配した。
「ああ、それで……」
何となく、伸行は察したようだった。一つ、頷く。
「八幡さん、三島さんには関わるなって言ったんだ。俺と三島さんが話してるところを見たから。ここでうまくやっていきたいなら、彼女には近づくなって。それを断ったら、態度が一変してさ」
涼子が、恭平にここでうまくやっていけるよう取りはからってやると言ったことは、さすがに黙っていた。故意に涼子を貶めるようで、嫌だったのだ。涼子も、中学時代、亜美と彼女を慕う後輩に何があったのかは、恭平に言わなかった。そこは、素直に恭平も、涼子の良識を感じる。
「そんなことがあったのか?」
将人も納得顔をした。
「ところで、転校してきた日、三島さんから君塚君に話しかけてたみたいだけど、もしかして知り合いだったとか?」
「うん。俺がここに来るきっかけになることがあったとき、彼女もいたから」
既に友人と言っていい将人と伸行に、恭平は、自分が覚醒し騎士となったことは、言わなかった。恭平の実力でナイトアーマーを有していると知られるのは、無用な嫉妬を招くと思ったからだ。尤も、この二人は、そのようなことはないと思いはしたが、進んで波風を立てる必要はなかった。
「へー、そうだったのか? どうりであの三島が、転校してきたばかりの君塚に話しかけたわけだ。ここに来るきっかけ、ね」
少しだけ将人の顔がにやついた。ちらりと伸行と視線を交わす。伸行は、観察するような目を、恭平に向けた。
「それより、どうして八幡さんは三島さんを目の敵にするかな?」
話題を変えようと、恭平はそう口にする。それは気になることだった。あまり他人に積極的に関わらない亜美を快く思っていない者がいるというのは、よくないことだった。亜美が孤立してしまう。恭平は自分のことよりも、亜美のことが心配だった。
「中学時代、何があったのかは五月雨先生から聞いたよ」
将人や伸行から聞きたくなかったので、恭平は先回りした。
「そうか。もう君塚は知ってるのか。まぁ、なんだ。あれは、不幸な事故みたいなもんだからな。あの頃、三島は中学生で二つ名を与えられて、みんなの憧れだったから」
ポリポリ、将人は頬を掻いた。あまり、触れたくない話題らしい。
「八幡さん、三島さんの祖父をよく思っていないみたいだった」
将人の様子から、疑問に思っていることを、恭平は口にした。
「それは、両家の祖父同士の意見対立が原因なんだ。穏健派の三島家と急進派の八幡家の構図がはっきりしてきてね。三島家は現状維持すべきって考えだけど、八幡家の意見は過激で、日本が世界に範を示し国を世界政府に完全委譲すべきって考えでね」
伸行が、二家の対立原因を教えてくれた。
「随分、八幡家は過激だね」
国を完全に世界政府の一部にするとは、いささか行き過ぎに恭平は感じる。
「まぁ、理想主義であると、僕も思うけどね。国自体をなくすことで、今の世界にあるリスクをなくす。元々、八幡さんの祖父琢磨は、情熱的な人物だから」
苦笑を伸行は顔に浮かべる。理想ではあるが、現実的ではないとその顔は語っている。
「祖父同士の争いで、三島家と八幡家は、まぁ、ぶっちゃけ喧嘩してるんだよ。他の、八名家は静観。どちらの意見にも賛成とも反対とも言わない。昔は、三島と八幡は仲がよかったんだけどな。家の事情ってやつだな」
伸行は正確に、将人は大味に、亜美と涼子の関係を恭平に教えてくれた。




