人事異動
からからから・・・
今時珍しい、ガラスの引き戸を開けると、既に課長が生ビールを飲んでいました。EPPSで指示のあった例の店とは、昨晩もお世話になった割烹スナック『とくとく』です。
「お帰りなさい。」優しいママの声が迎えてくれました。癒されます。
「よ! エロ! 」
がくん。膝の力が抜けます。単語だけで呼ばないでいただけますか? まだ、エロ惣亮の方が人間味があっていいです。
「課長! 課長も不二さんから何か聞いたんすか。」
「ああ。それはそれは嫌らしぃ~目で見られた、セクハラだって言ってたぞ。」
「あの人、『課長と同じ目』って言ったんですよ。」
「馬鹿こくでねぇ。俺と同じ目の境地になるには、30年早いわ。」
「この人の目は、エロじゃなくて、す・け・べ。しかも、頭にドがつく程のね。」
ママさんのちゃちゃが入りました。ママさん、課長のスケベの被害者なんだろうか。
「ママ~。ナミぴょんにも『おかえり』言ってよ~。なんでほっとくのー。」
「ごめんごめん。お帰りなさい、那美。」
ん? 那美? 呼び捨て?
「お兄ちゃん、変な顔してる。ママは、ナミぴょんのママだよ? 」
「え? ・・・てことは?」
「あら、そのままの意味よ。那美は私の養子。」
「ちょっと待って下さい。那美さんは、課長の養子だってうかがいましたけど? ・・・まさか。」
「そんなに意外かしら? この人と私は、夫婦。」
・・・ ガーン・・・ ガーン・・・ ガーン
昨晩は気がつきませんでした。ママさん、美人で色っぽくて、いいなあって思ってたのに。なんで、こんなおっさんと・・・
「こら、エロ! お前なんでそんなに露骨にがっかりしてんだよ。」
「い、いえ、そんなことは。・・・ ただちょっと、憧れが裏切られたというか。」
「ひどい言い方ね。やっぱりがっかりしてるんじゃない。そんな人には、今日のお通しあげないぞ。」
「まま、待って下さい。謝ります! 三返回って謝ります! 食べたいです! 」
ふふふと笑って、ビールのジョッキとともに、お通しの小さな器を置いて下さいました。合鴨に、ししとう。鷹の爪の輪切りがちょっと入った餡がかかってます。
「これがホントの鴨南蛮。なんてね。」
「おいしいですぅ。ホント課長にはもったいない・・・ いえ、なんでもありません!」
課長のジト目がつきささる。
「お前、熟女好きなのか?」
「お兄ちゃん! お兄ちゃんはロリじゃなきゃだめでしょ! 」
この家族、いろいろとおかしいです。返事するのも億劫になってきました。
「課長、そんなことより、ここに呼び出したってことは、何か用事があるのではないですか?」
「うん、えーと。なんだっけ?」
大丈夫かなあ、この人。
「あ、そうそう、実はだな・・・ 」
そのとき、ガラスの引き戸がからからと開きました。
「今晩は。」
あ! お師匠! さきほど僕を20回以上ぶちのめした、スーツ姿でベリーショートの正統派美人が立っていました。
「お帰りなさい。」とママさん。誰にでも、言うんですね、お帰りって。
「百襲主任ね、今日付けで特務課に異動。」
「よろしくね、エ・・・ えっと諫凪さん。」今、あの単語を言おうとしたでしょ?
「師匠、どこから異動ですか? 」
「あれ? 百襲主任、エロに説明してないの? 」
「聞かれもしないのに、私から説明するはずもありませんわ。」
「もういい加減、エロから離れていただけませんか? ・・・ ただの人じゃないとは思ってましたけど、不二さんや那美さんのことよくご存じのようでしたし。やたらに空手強いし。」
「百襲主任は、特暴からだ。」
特務部特殊暴力課。泣く子も黙る『特暴』。暴力団の中でも特に武闘が過激な集団や、巧妙に社会に溶け込んでいる企業舎弟などを扱う部署です。
「うわ、特務部の中では主流じゃないですか。それがなぜ、特務課なんかに?」
「聞き捨てならんな。特務課が窓際みたいな口振りじゃないか。」
「すみません、つい。課長にもプライドあるんですね。」
「ますます聞き捨てならんな。わたしは常に誇りをもって仕事をしている。」
「この人のは、プライドじゃなくて、意地っぱりの意地っていうのよ。」
課長のボケにママのつっこみ。案外、ベストマッチな夫婦なのかも知れないです。
「話を戻しまして・・・ 特務課へは、通常の人事異動ですか?」
「特務部に、『通常』なんてあるのかしら? もちろん、ミッションのためよ。喉乾いちゃった、まずはビールを頂こうかしら?」
ママさん、はーい、と言ってグラスビールとお通しを出しました。
思念体が異世界からこの世に浸潤してくるのは、邂逅ポイントを通じてしかないのですが、昨日のように邂逅ポイントの出現を的確に預言できるようになったのはごく最近のことです。過去に浸潤して人間に憑依してしまった思念体がどのくらいの数あるのか、不明です。
ただし、思念体に憑依された人間には、その行動に特徴があることがわかっています。
それは、『強烈な権力志向』。
昨日のイノシシちゃんも、某宗教団体の東京支部長に憑依しましたが、憑依体が導く団体は急成長する傾向があります。
「関東極心連合松山一家 至誠組。この半年くらいで、急激に勢力を伸ばしてきたの。組長は的屋を長くやってきたおじいちゃんなんだけど、若頭が・・・」
「・・・ 憑依体の疑いがあるんですね?」
「イケメンなの! 」