第七十七話「手紙の向こう側」
着任三百五日目、朝。
空は、よく晴れていた。
執務所の前で、ライル、ロイド、ダグラス、ミラ、ヴェクが並んで待っていた。
特別な垂れ幕も、整列も用意していない。
いつもの、来客を迎える形のままだった。
昼前、街道の向こうに、小さな馬車が見えた。
護衛らしき者もなく、随行はわずか二名。
馬車も、飾り気のない、旅慣れた作りのものだった。
「思ったより、地味ですね」
ヴェクが、小さな声で言った。
「はい」
ロイドが答えた。
「手紙の通りの人かもしれません」
馬車が止まり、扉が開いた。
降りてきたのは、初老に差しかかった男だった。
背は高くない。痩せているが、猫背ではなかった。
旅装は上質だが、目立つ装飾は何もない。
髪には白いものが混じり、顔には深い皺があるが、目だけが、年齢より若く見えた。
その目が、まず執務所の建物を見た。
次に、水路の方向を見た。
それから、並んで立つ五人を、順に見た。
「アルノ・フォン・ケステルです」
静かな声だった。
手紙の文面と、同じ抑揚をしているように、ライルには感じられた。
「お待ちしておりました」
ライルは、深く頭を下げた。
「ライル・フォン・ヴァルディスです」
「知っています」
アルノは、短くそう言った。
「あなたの書いたものは、ずいぶん読みました」
その一言に、少しだけ、場の空気が緩んだ。
随行の二人は、荷物を静かに馬車から下ろしていた。
一人は記録箱を持ち、もう一人は御者と行程表を確認している。
大仰な護衛には見えない。
だが、旅程と安全管理を任されていることは、動きを見ればわかった。
「遠いところを、ありがとうございます」
ライルが言った。
「遠いとは、思いませんでした」
アルノは、静かに答えた。
「手紙で、何度も通った道です。実際に歩くのは、初めてでしたが」
「随分と、静かな到着ですね」
ライルが言った。
「大きな行列で来れば、それだけで、噂が先に走ります」
アルノは、水路の方角へ目をやった。
「見るべきものを、噂に邪魔されたくなかった」
ロイドが、随行の二人へ案内を申し出た。
「まず、水路をご覧になりますか。それとも、執務所を」
「水路から」
アルノは、迷わず言った。
「手紙で、何度も名前だけは読みました」
一同で、水路沿いを歩いた。
アルノは、多くを語らなかった。
ただ、継ぎ目の一つ一つに目をやり、水の流れを、しばらく見つめていた。
「三年、止まっていたと聞きました」
アルノが言った。
「はい」
「今は、止まる気配がない」
「はい」
「それだけで、多くのことがわかります」
「何が、わかりますか」
ライルが尋ねた。
「直した人間がいる、ということです」
アルノは言った。
「直せと命じることは、誰にでもできます。直るまで、見届ける人間は、そう多くありません」
その言葉に、ロイドが、わずかに視線を上げた。
水路の縁で、アルノはしばらく足を止め、流れる水を見つめていた。
「ここで、何があったかは、報告で読みました」
アルノが言った。
「読むのと、見るのとでは、違いますか」
ライルが尋ねた。
「違います」
アルノは、短く答えた。
「読んだ時は、数字でした。今は、音です」
執務所に戻り、帳簿総目録、受付分類表、これまでの記録の一部を見せた。
アルノは、一枚ずつ丁寧に目を通した。
感嘆の言葉は、口にしなかった。
ただ、時折、小さく頷いた。
「訂正の跡を、消していませんね」
アルノが言った。
「はい」
ライルは答えた。
「消すと、前に何を書いたか、わからなくなります」
「その言葉」
アルノが、目を上げた。
「どこかで、聞いたことがある気がします」
ライルは、何も答えなかった。
アルノも、それ以上は追わなかった。
ミラ、ヴェクとも、短い言葉を交わした。
「新人、と伺いました」
アルノが、ミラに言った。
「はい」
ミラは、少し緊張した声で答えた。
「見直せば、わかる。そう言って、採用された者です」
ロイドが、代わりに答えた。
「良い基準です」
アルノは、それだけ言った。
ヴェクには、官倉の運用について尋ねた。
「屋根は、もう直りましたか」
「直りました」
ヴェクは、短く答えた。
「よく、覚えていらっしゃいますね」
「覚えているのではなく、書いてあったものを、読み返しただけです」
アルノは、そう言うと、それ以上は続けなかった。
だが、ヴェクの顔に、かすかな驚きが浮かんでいた。
地方の官倉の屋根一枚のことまで、帝都の人間が読み返しているとは、思っていなかったのだろう。
最後に、ダグラスの前で、アルノは足を止めた。
しばらく、何も言わなかった。
ダグラスも、視線を逸らさず、まっすぐ立っていた。
「ダグラスです」
ダグラスが、自ら名乗った。
「筆頭役人を、務めています」
「知っています」
アルノは静かに言った。
「追加証言があったことは、報告で知っています。原文は読んでいません」
ダグラスの肩に、わずかに力が入った。
「今日、あなた自身が話したい範囲だけを聞きます」
「裁くために、ここへ来たわけではありません」
アルノは、続けた。
「ただ、確かめたいことがあります。あなたにしか、話せないことが」
「はい」
「怖いですか」
その問いに、ダグラスは、しばらく黙っていた。
「怖いです」
やがて、正直に答えた。
「ですが、逃げないと、決めました」
アルノは、その言葉を、しばらく見つめるように聞いていた。
「それで、十分です」
短く、そう言った。
「多くを、一度に話す必要はありません」
その一言に、ダグラスの肩から、少しだけ力が抜けた。
「一つだけ、伺ってもいいですか」
ダグラスが、思い切ったように口を開いた。
「どうぞ」
「あなたは、私を、どちら側の人間だと思いますか」
その問いに、アルノは、少しの間を置いた。
「どちら側か、という分け方を、私はあまり信じていません」
やがて、そう答えた。
「していたことと、していることは、別です。今、あなたがここで何をしているかを、私は見ています」
「それだけ、ですか」
「それだけです」
アルノは、静かに言った。
「過去を裁くのは、監査室の仕事です。私の仕事ではありません」
ダグラスは、しばらく、その言葉を噛みしめるように黙っていた。
「思っていたより」
やがて、小さく言った。
「話しやすい方でした」
「そうですか」
アルノは、初めて、わずかに口元を緩めた。
「手紙では、そう伝わらなかったようですね」
夕刻、宿へ案内する前、ライルとアルノは、二人だけで少し話す時間を持った。
「求めることは、何もない、か」
アルノが、ふと口にした。
「最初の頃に送った返書ですね」
ライルが言うと、アルノは小さく笑った。
「あの一文を、何度も読み返しました」
「今も、同じお気持ちですか」
「今日、答えが変わりました」
アルノは、窓の外を見た。
「求めることが、できました」
「何でしょうか」
「明日、時間をください。手元にあるものを、あなたと並べたい」
ライルは、少し間を置いてから、頷いた。
「辞令書の余白印について、伺ってもよろしいですか」
ライルが尋ねた。
アルノは、少しの間、窓の外を見ていた。
「少しだけ、お話しします」
やがて静かに答えた。
「あの印に似た意匠を、古い内部資料で見たことがあります」
「同じ印ですか」
「明日、実物の写しを並べてから答えます」
アルノは言った。
「今ここで『同じだ』と先に言えば、明日の比較までその答えに引っ張られる」
ライルは、小さく頷いた。
「それ以上は、明日ですね」
「はい」
「わかりました」
ライルは、それ以上、重ねて聞かなかった。
「一つだけ、言っておきます」
アルノが続けた。
「あなたの辞令書に、通常の人事文書では説明できない余白印がある。それは事実です」
「はい」
「その印が、誰の意思で、何の目的で付されたのか。私も全部を知っているわけではありません」
アルノはライルを見た。
「ですが、ただの汚れや偶然ではないことまでは、明日お見せする資料で話せます」
「以前から、そう思っていました」
ライルは静かに答えた。
「聞くのが、怖くはありませんか」
「怖くない、とは言えません」
ライルは、正直に答えた。
「ですが、知らないままでいる方が、今は、もっと怖い気がします」
アルノは、その答えに、小さく頷いた。
それだけだった。
輪郭も定かではない、ごくわずかな一言。
だが、これまでの手紙の、どの言葉よりも、具体的だった。
宿へ向かう馬車を見送りながら、ライルは、今日一日を振り返った。
手紙の中のアルノは、慎重で、距離のある人物だった。
実際に会ったアルノも、慎重で、距離を保っていた。
だが、その距離の取り方の中に、これまで文字だけでは見えなかった、何か静かな重さがあった。
値踏みなのか。
観察なのか。
それとも、書面で知っていたものを実際に確かめているのか。
そこまでは、まだわからなかった。
ロイドが、宿までの道を確かめに行った随行の二人を見送りながら、隣に立った。
「明日は、朝からですか」
「そう伝えました」
ライルは言った。
「今日、見えたものと、明日、聞くこと。分けて考えます」
「アルノ様、思っていたのと、違いましたか」
ロイドが尋ねた。
「違わなかった、と思います」
ライルは、少し考えてから答えた。
「ただ、文字だけでは伝わらない重さが、確かにありました」
窓の外、ガルダの夕暮れが、いつもより長く感じられた。
お読みいただきありがとうございます。
次回は明日19:10更新予定です。
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