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辺境調整官、只今着任 〜左遷に見えた赴任は、辺境を変える第一手だった〜  作者: 瀬川 理久
第八章:計算通り、だった

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第七十七話「手紙の向こう側」

 着任三百五日目、朝。


 空は、よく晴れていた。


 執務所の前で、ライル、ロイド、ダグラス、ミラ、ヴェクが並んで待っていた。


 特別な垂れ幕も、整列も用意していない。


 いつもの、来客を迎える形のままだった。


 昼前、街道の向こうに、小さな馬車が見えた。


 護衛らしき者もなく、随行はわずか二名。


 馬車も、飾り気のない、旅慣れた作りのものだった。


「思ったより、地味ですね」


 ヴェクが、小さな声で言った。


「はい」


 ロイドが答えた。


「手紙の通りの人かもしれません」


 馬車が止まり、扉が開いた。


 降りてきたのは、初老に差しかかった男だった。


 背は高くない。痩せているが、猫背ではなかった。


 旅装は上質だが、目立つ装飾は何もない。


 髪には白いものが混じり、顔には深い皺があるが、目だけが、年齢より若く見えた。


 その目が、まず執務所の建物を見た。


 次に、水路の方向を見た。


 それから、並んで立つ五人を、順に見た。


「アルノ・フォン・ケステルです」


 静かな声だった。


 手紙の文面と、同じ抑揚をしているように、ライルには感じられた。


「お待ちしておりました」


 ライルは、深く頭を下げた。


「ライル・フォン・ヴァルディスです」


「知っています」


 アルノは、短くそう言った。


「あなたの書いたものは、ずいぶん読みました」


 その一言に、少しだけ、場の空気が緩んだ。


 随行の二人は、荷物を静かに馬車から下ろしていた。


 一人は記録箱を持ち、もう一人は御者と行程表を確認している。


 大仰な護衛には見えない。


 だが、旅程と安全管理を任されていることは、動きを見ればわかった。


「遠いところを、ありがとうございます」


 ライルが言った。


「遠いとは、思いませんでした」


 アルノは、静かに答えた。


「手紙で、何度も通った道です。実際に歩くのは、初めてでしたが」


「随分と、静かな到着ですね」


 ライルが言った。


「大きな行列で来れば、それだけで、噂が先に走ります」


 アルノは、水路の方角へ目をやった。


「見るべきものを、噂に邪魔されたくなかった」


 ロイドが、随行の二人へ案内を申し出た。


「まず、水路をご覧になりますか。それとも、執務所を」


「水路から」


 アルノは、迷わず言った。


「手紙で、何度も名前だけは読みました」


 一同で、水路沿いを歩いた。


 アルノは、多くを語らなかった。


 ただ、継ぎ目の一つ一つに目をやり、水の流れを、しばらく見つめていた。


「三年、止まっていたと聞きました」


 アルノが言った。


「はい」


「今は、止まる気配がない」


「はい」


「それだけで、多くのことがわかります」


「何が、わかりますか」


 ライルが尋ねた。


「直した人間がいる、ということです」


 アルノは言った。


「直せと命じることは、誰にでもできます。直るまで、見届ける人間は、そう多くありません」


 その言葉に、ロイドが、わずかに視線を上げた。


 水路の縁で、アルノはしばらく足を止め、流れる水を見つめていた。


「ここで、何があったかは、報告で読みました」


 アルノが言った。


「読むのと、見るのとでは、違いますか」


 ライルが尋ねた。


「違います」


 アルノは、短く答えた。


「読んだ時は、数字でした。今は、音です」


 執務所に戻り、帳簿総目録、受付分類表、これまでの記録の一部を見せた。


 アルノは、一枚ずつ丁寧に目を通した。


 感嘆の言葉は、口にしなかった。


 ただ、時折、小さく頷いた。


「訂正の跡を、消していませんね」


 アルノが言った。


「はい」


 ライルは答えた。


「消すと、前に何を書いたか、わからなくなります」


「その言葉」


 アルノが、目を上げた。


「どこかで、聞いたことがある気がします」


 ライルは、何も答えなかった。


 アルノも、それ以上は追わなかった。


 ミラ、ヴェクとも、短い言葉を交わした。


「新人、と伺いました」


 アルノが、ミラに言った。


「はい」


 ミラは、少し緊張した声で答えた。


「見直せば、わかる。そう言って、採用された者です」


 ロイドが、代わりに答えた。


「良い基準です」


 アルノは、それだけ言った。


 ヴェクには、官倉の運用について尋ねた。


「屋根は、もう直りましたか」


「直りました」


 ヴェクは、短く答えた。


「よく、覚えていらっしゃいますね」


「覚えているのではなく、書いてあったものを、読み返しただけです」


 アルノは、そう言うと、それ以上は続けなかった。


 だが、ヴェクの顔に、かすかな驚きが浮かんでいた。


 地方の官倉の屋根一枚のことまで、帝都の人間が読み返しているとは、思っていなかったのだろう。


 最後に、ダグラスの前で、アルノは足を止めた。


 しばらく、何も言わなかった。


 ダグラスも、視線を逸らさず、まっすぐ立っていた。


「ダグラスです」


 ダグラスが、自ら名乗った。


「筆頭役人を、務めています」


「知っています」


 アルノは静かに言った。


「追加証言があったことは、報告で知っています。原文は読んでいません」


 ダグラスの肩に、わずかに力が入った。


「今日、あなた自身が話したい範囲だけを聞きます」


「裁くために、ここへ来たわけではありません」


 アルノは、続けた。


「ただ、確かめたいことがあります。あなたにしか、話せないことが」


「はい」


「怖いですか」


 その問いに、ダグラスは、しばらく黙っていた。


「怖いです」


 やがて、正直に答えた。


「ですが、逃げないと、決めました」


 アルノは、その言葉を、しばらく見つめるように聞いていた。


「それで、十分です」


 短く、そう言った。


「多くを、一度に話す必要はありません」


 その一言に、ダグラスの肩から、少しだけ力が抜けた。


「一つだけ、伺ってもいいですか」


 ダグラスが、思い切ったように口を開いた。


「どうぞ」


「あなたは、私を、どちら側の人間だと思いますか」


 その問いに、アルノは、少しの間を置いた。


「どちら側か、という分け方を、私はあまり信じていません」


 やがて、そう答えた。


「していたことと、していることは、別です。今、あなたがここで何をしているかを、私は見ています」


「それだけ、ですか」


「それだけです」


 アルノは、静かに言った。


「過去を裁くのは、監査室の仕事です。私の仕事ではありません」


 ダグラスは、しばらく、その言葉を噛みしめるように黙っていた。


「思っていたより」


 やがて、小さく言った。


「話しやすい方でした」


「そうですか」


 アルノは、初めて、わずかに口元を緩めた。


「手紙では、そう伝わらなかったようですね」


 夕刻、宿へ案内する前、ライルとアルノは、二人だけで少し話す時間を持った。


「求めることは、何もない、か」


 アルノが、ふと口にした。


「最初の頃に送った返書ですね」


 ライルが言うと、アルノは小さく笑った。


「あの一文を、何度も読み返しました」


「今も、同じお気持ちですか」


「今日、答えが変わりました」


 アルノは、窓の外を見た。


「求めることが、できました」


「何でしょうか」


「明日、時間をください。手元にあるものを、あなたと並べたい」


 ライルは、少し間を置いてから、頷いた。


「辞令書の余白印について、伺ってもよろしいですか」


 ライルが尋ねた。


 アルノは、少しの間、窓の外を見ていた。


「少しだけ、お話しします」


 やがて静かに答えた。


「あの印に似た意匠を、古い内部資料で見たことがあります」


「同じ印ですか」


「明日、実物の写しを並べてから答えます」


 アルノは言った。


「今ここで『同じだ』と先に言えば、明日の比較までその答えに引っ張られる」


 ライルは、小さく頷いた。


「それ以上は、明日ですね」


「はい」


「わかりました」


 ライルは、それ以上、重ねて聞かなかった。


「一つだけ、言っておきます」


 アルノが続けた。


「あなたの辞令書に、通常の人事文書では説明できない余白印がある。それは事実です」


「はい」


「その印が、誰の意思で、何の目的で付されたのか。私も全部を知っているわけではありません」


 アルノはライルを見た。


「ですが、ただの汚れや偶然ではないことまでは、明日お見せする資料で話せます」


「以前から、そう思っていました」


 ライルは静かに答えた。


「聞くのが、怖くはありませんか」


「怖くない、とは言えません」


 ライルは、正直に答えた。


「ですが、知らないままでいる方が、今は、もっと怖い気がします」


 アルノは、その答えに、小さく頷いた。


 それだけだった。


 輪郭も定かではない、ごくわずかな一言。


 だが、これまでの手紙の、どの言葉よりも、具体的だった。


 宿へ向かう馬車を見送りながら、ライルは、今日一日を振り返った。


 手紙の中のアルノは、慎重で、距離のある人物だった。


 実際に会ったアルノも、慎重で、距離を保っていた。


 だが、その距離の取り方の中に、これまで文字だけでは見えなかった、何か静かな重さがあった。


 値踏みなのか。


 観察なのか。


 それとも、書面で知っていたものを実際に確かめているのか。


 そこまでは、まだわからなかった。


 ロイドが、宿までの道を確かめに行った随行の二人を見送りながら、隣に立った。


「明日は、朝からですか」


「そう伝えました」


 ライルは言った。


「今日、見えたものと、明日、聞くこと。分けて考えます」


「アルノ様、思っていたのと、違いましたか」


 ロイドが尋ねた。


「違わなかった、と思います」


 ライルは、少し考えてから答えた。


「ただ、文字だけでは伝わらない重さが、確かにありました」


 窓の外、ガルダの夕暮れが、いつもより長く感じられた。

お読みいただきありがとうございます。


次回は明日19:10更新予定です。

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