第9話 : あやの緊急招集と手の震え
放課後のチャイムが鳴ってから、俺は机の上に伏せた手をしばらく見つめていた。
(……ほのか、やっぱ本気だったよな)
昼休みに見た“痛みの混じった顔”が、どうしても頭から離れない。
幼なじみのあんな声。
胸を押さえる仕草。
(返事……うやむやだったな)
考えが重く沈んだとき──
スマホが震えた。
【至急です。今すぐ来てください 黒羽】
(……黒羽が“至急”?)
あの完璧理系女子が、焦ったみたいな言葉を使うなんて珍しい。
胸の奥でいろんな感情がぶつかり合うのを感じながら、
俺は理科準備室へ向かった。
扉を開けると──
白衣の背中が、机の前で小さく揺れていた。
「……来た、のね」
振り返ったあやの顔はいつもの無表情。
でも、目元だけが妙に落ち着かない。
「急にどうしたんだよ。事故った装置でもあったのか?」
「追加実験が……必要になったの。今日中に……」
言い淀む声。
語尾が“迷子”になっている。
その手を装置のスイッチへ伸ばした瞬間──
細い指が、ふるっと震えた。
(……やっぱ震えてる)
昨日の“5センチ事件”が脳裏をよぎる。
あの距離、あの顔、あの固まり方。
「なぁ黒羽、お前……無理してないか?」
「問題ないわ。私は観測者。情動の介入は非合理的」
言葉は理屈的なのに、
声だけほんの少し上ずっていた。
たぶん本人が気づいていない。
「……座って」
言われ、俺は拘束具の椅子に固定される。
カチ、カチ。
その音がやけに響く。
「今日は距離の再確認だけ。すぐ終わるわ」
「ほんとに?」
「……ほんと」
弱い。
あやは五十センチ地点から距離を詰めはじめた。
50cm。
40cm。
(……あれ?)
距離を測るなら、視線は床かメジャーに向くはずだが──
あやの視線は、なぜか俺に向いていた。
ちら。
またちら。
距離の数字を確認するより、
俺の表情を確認するみたいな動き。
(いやいや、見すぎ! 俺の顔にメモリでも刻んでるのか!?)
耳の先が、ほのかに赤い。
髪を揺らすたびに、その赤みがちらちらと見える。
30cm。
20cm。
「……黒羽。なんか今日お前、」
「変じゃない!」
食い気味の即答。
しかも声が裏返った。
あやは慌てて咳払いし、冷静なふりを装う。
「これは……ただの……確認。視線じゃなくて……距離計……計測、で」
語彙さえまとまらない。
(黒羽が噛んだ……!? いや、なんだこれ……)
あやは距離20cmでぴたりと止まり、
メジャーを持つ手が小刻みに震えた。
昨日、固まった距離のひとつ手前。
「黒羽、本気で大丈夫か? なんか昨日から、」
「だいじょうぶ!」
今度ははっきり裏返った。
白衣の袖をぎゅっと握り、顔を逸らす。
その肩が、ほんのわずかに震えていた。
「……も、もう十分。測れたから……今日はこれでいいわ」
「はや!? お前、今日は距離詰めてこないの?」
「こ、これ以上は……その……測定がノイズだらけになるから……」
いつものあやなら、
心拍機を起動して距離5センチを再現しようとするところだ。
なのに今日は──
あや自身が距離に耐えられていない。
(昨日の5センチ……効きすぎだろ……)
あやは胸元に手を当てた。
白衣越しにも動いている心拍が伝わるくらい、強い動き。
「黒羽、本当に無理すんなよ?」
「無理なんか……してない……」
でもその声は、
“科学者の声”じゃなくて──
「震えてるんだけど……」
「これは……低血糖…… とにかく…… 帰って。今日は……本当に無理なの」
あやは机の上に広げてあったノートを、
そっと手で覆い隠すように閉じた。
昨日、名前を何度も書いてしまったページ。
自分自身にびっくりして震えていたページ。
それを隠すように。
その仕草が、やけに繊細だった。
「黒羽……」
「帰って、安藤……。
これ以上は……観測できない……から」
(観測って……どっちのだよ)
問い返そうとしたけれど、
あやの耳が赤く染まったまま震えているのを見て、言葉が止まった。
その視線は、俺を追うのに──
距離だけは絶対に詰めてこない。
その矛盾が胸に刺さる。
「……わかった。また明日来る」
俺は扉に手をかける。
その瞬間、背中に細い声が落ちた。
「……昨日の……あの距離は……まだ……無理だから」
振り返ると、
あやは胸元に手を押し当てて、伏し目のまま固まっていた。
(……黒羽。やっぱり変だ)
その“変”の正体を、
俺はまだ知らない。
けれど、
昨日よりも今日のほうが──
確実に、あやの“心拍の揺れ”は大きかった。




