第8話 : ほのかのモヤモヤ・初めての嫉妬
昼休み。
教室のざわめきは、いつも通り賑やかなはずなのに、不思議と耳に入ってこなかった。
購買で買ったパンを半分かじったところで、俺はまた胸に手を当ててしまう。
(……やっぱ、昨日の五センチは反則すぎだろ)
あやの震えた吐息、固まった瞳、赤く染まった耳。
思い出しただけで、胸の奥がじわっと熱くなる。
「あの距離……思い出すなよ俺……」
と小さく呟いたときだった。
「何の距離?」
「うわっ!?」
真横から突然声がして、パンの袋を落としそうになる。
振り向くと、ポニーテールを揺らした日向ほのかが立っていた。
いつもの明るい笑顔──
だけど今日は、ほんの少しだけ目の揺れが大きい。
「ねぇ、ゆう」
「ど、どうした?」
「“どうした”じゃないよ。
さっきからずっと空見てるし、パンも止まってるし」
「あー……まぁ、ちょっと、な」
「“ちょっと”であんな顔する?」
「どんな顔だよ」
「なんか、むずむずしてる顔」
「その分析やめろ」
ほのかは俺の机の横に椅子を寄せて座った。
周りの女子たちがこっちを見ているのを、気にしないふりをしながら。
指先で机を“とん、とん”と叩きながら、言葉を続ける。
「ねぇゆう。今日さ──放課後、寄り道しない?」
「え?」
「最近全然一緒に帰ってないし。
コンビニとか、アイスとか……さ。たまにはさ」
声はいつもみたいに明るいのに。
その瞳は、“期待”と“ためらい”の間で揺れていた。
(……やばい)
胸が重くなる。
「ごめん、ほのか。
今日も……準備室、行かなきゃなんだ」
その瞬間、ほのかの表情が一秒だけ固まった。
「……また?」
さっきまで明るかった声が、わずかに沈む。
「うん、文化祭の研究で……今日もデータ取らなきゃって」
「“あの子”?」
「……え?」
「理科準備室の、黒羽さん……でしょ?」
名前を言ったとき、
ほのかの声はちくっと刺さるように硬くなった。
「いや、べつにそういう――」
「そういうんじゃなかったら、どうして毎日行くの?」
ほのかの目がまっすぐ俺を見ていた。
その目は、嘘をごまかせない目だった。
(やっぱ……気づくよな……)
「ごめん。ほのかと帰れないのは、本気で悪いと思ってる」
「ううん。責めたいわけじゃないよ」
そう言いながら、ほのかは胸の少し上をそっと押さえた。
ほんの一瞬。
でも俺には、はっきり見えた。
(……痛いのか?)
「ほのか……?」
「ねぇゆう」
ほのかは机の端をぎゅっと掴む。
「あの子の名前出すときのゆうって……
声の感じ、ちょっと違うよ」
「気のせいだろ」
「気のせいじゃないよ」
ほのかは、ためらわず言った。
胸の奥が浮つくような、沈むような、複雑な感情が渦巻く。
「ゆう……
あの子のこと、気になるの?」
「いや、違う。ただ……実験で……」
そこまで言って、自分の中でも説明できない“余韻”を思い出してしまう。
あの距離5cm。あの揺れ。
言い切れなかった。
その沈黙が、ほのかにとって答えに見えたのだろう。
彼女の目が、分かりやすく揺れた。
「……そっか」
「いや違うって――」
「違わなくていいの。
ゆうの気持ちはゆうのものだし」
ほのかは笑った。
でも、その笑顔は薄くて、弱かった。
「でもね……」
机の下で、ほのかの手が震えていた。
「なんかね……胸が、ちょっと痛いの」
俺の心臓がどくんと跳ねた。
「ゆうを誰かに取られそうって思ったとき……
このへんが、ぎゅって……苦しくなるの」
ほのかは胸に手を当てる。
「これってさ……」
震えているのに、声は澄んでいた。
「これって……“恋”なのかな……って」
教室のざわめきが遠のく。
ほのかの言葉だけが、真っ直ぐに胸に刺さった。
「ゆう……
私、こんなの……初めてなんだよ」
胸が強く揺れた。
あやの心拍実験で見た波形とは違う、もっと痛くて、もっと重い揺れ。
幼なじみの日向ほのかは、
気づかないうちに──
ちゃんと“恋”をしていた。
その痛みは、たぶん俺が思っているよりずっと深い。
(……どうしたらいいんだ、俺)
答えは出ない。
でも確かに、この瞬間──
俺は二つの“揺れ”の真ん中に立っていた。




