第5話 : 距離0cmの調整実験(接触寸前、5cmの悲鳴)
放課後のチャイムが鳴ってから、俺はしばらく席を立てなかった。
窓の外は、夕暮れの色。
机の上には、ほのかに借りたノートが置きっぱなしになっている。
昨日の帰り道──
『なんか、遠くなった?』
『そのときは、少しだけ引っ張ってもいい……かな?』
あの言葉が、胸の奥でまだくすぶり続けていた。
(……ほのか、あんな顔するんだ)
声も、表情も。
十年以上の付き合いでも見たことがない、“揺れ”だった。
その違和感と戸惑いを抱えたまま、俺はようやく立ち上がる。
「……行くか」
行かなければあやに迷惑がかかる。
行けば俺の心臓が死ぬ。
選択肢なんて最初からなかった。
昇降口を抜け、校舎の奥に向かって歩きながら、
俺はふと胸に手を当てる。
(……なんでほのかの言葉が、こんなに残ってんだ?)
答えはわからないまま、理科準備室の前に着いた。
昨日のほのかの不安げな横顔が脳裏をよぎり、ほんの一瞬だけ足が止まる。
(いや……今は考えても仕方ない)
軽くノックし、扉を開ける。
薬品の匂い、蛍光灯の白、金属の冷たい感触。
その真ん中で、白衣の背中が固まっていた。
「……安藤」
ゆっくり振り返った黒羽あやは、眉を寄せていた。
普段の無機質さとは違う、わずかな緊張が滲んでいる。
「今日の実験は、“調整”が必要になった」
「……嫌な予感しかしないな」
あやは袖をぎゅっと握りしめ、モニターの波形を指でなぞる。
「“至近距離データ”にノイズが入った。
センサーの再調整……つまり、取り直し」
「つまり……もっと近づくわけね?」
「仕方ない。科学だから」
何でも科学のせいにするな。
そう思いつつも、俺はもう観念して椅子に座った。
固定具がカチ、カチ、と閉まっていく。
(はい今日も拘束からスタート……)
胸元のセンサー。
こめかみの視線センサー。
貼る指先が、かすかに震えている。
(……今日のあや、なんかいつもよりソワソワしてないか?)
あやは床のテープを確認し、小さく息を吸う。
「……今日の目標距離は、五センチ」
「え、まっ──近ッ!?」
「静かに。……揺れる」
「揺れてるのはお前の声だよ!」
あやは返事もせず、五十センチ地点に立った。
白衣の裾が、落ち着きなく揺れている。
その肩が、ほんの少しだけ上下しているのも見えた。
(絶対緊張してるって……)
「では……行く」
一歩。
五十センチ。
四十センチ。
いつもの“安全圏”。
三十センチ。
息が少し届く。
二十センチ。
目が合うだけであやの視線が泳いだ。
(昨日までと明らかに違う……)
十五センチ。
吐息が混ざる。
そして──
十センチ。
前ならここで終了の距離。
心拍計が、ピピッ、ピピピッ、と騒がしくなる。
「被験者A、心拍──」
あやの声が止まった。
自分の呼吸が乱れていることに気づいたのか、
胸元の白衣をそっと押さえる。
そのまま──最後の一歩。
白衣の裾が、俺の膝にふわりと触れた。
距離、五センチ。
あやの顔が視界いっぱいに侵入してくる。
睫毛の長さ、瞳の揺れ、唇の輪郭。
触れたら終わる距離。
「……っ」
あやの体がピタッと固まった。
呼吸は浅く、瞳は震え、頬がみるみる赤く染まっていく。
完全にフリーズしていた。
「く、黒羽……?」
「…………」
「黒羽さん?」
「……っ……っ……」
喉が詰まっているみたいに、声が出ない。
その瞬間──
ピ――――ッ!!!
準備室にけたたましい警告音が響いた。
「うわっ!? なに爆発した!?」
「こ、これは……センサー……!」
「距離が……近すぎて……!」
あやはモニターを見るなり、
耳から首筋まで一気に真っ赤になった。
「ち、近すぎた……っ」
声は震え、ほとんど蚊の鳴く音みたいだった。
(な……なんだこれ……ずるいだろ……)
俺の心拍も急上昇して、
ピッ、ピピッ、ピピピッ、と跳ねる。
「お、おい黒羽。これ装置壊れてないよな!?」
「壊れてない……。
今のピークは……私の……心拍……」
「お前のかよ!!」
あやの視線は揺れ、白衣の裾がまた震える。
「し、失敗……今日は……無理……。
実験、終了……!」
あやはよろめくように一歩下がり、胸元をぎゅっと握った。
「大丈──」
「触るな!! ……じゃなくて……触らないで……。
……ちょっと、落ち着かない……から……」
その“言い直し”が妙に可愛くて、余計に心臓に悪かった。
固定具が外れ、俺はゆっくり立ち上がる。
「今日はもう……帰って。
データ……整理……無理……」
「う……うん……」
準備室を出た瞬間、胸に手がいく。
(心臓……さっきからずっと変だ……)
ドクン、ドクンと強すぎる鼓動。
五センチの距離で見たあやの顔が、脳内で何度もリピートする。
(あいつ……あんな顔するんだ……)
昨日ほのかに感じたものと、
今日のあやで感じたもの。
似てるようで違う気もするし、
違うようで同じ気もする。
(これ……実験のせい……だよな?
……なのに、なんでこんなに……)
スマホがふるえた。
「……ん?」
画面には、
『日向ほのか』
の名前。
『今日、もう帰っちゃった?
昇降口、一瞬だけ行ったけどいなかったから。
また今度、一緒に帰ろ?』
たった三行なのに、
胸の奥でさっきとは違う“ドクン”が跳ねた。
(あやのこと考えてたのに……
なんでほのかでもドキッとするんだよ、俺……)
どちらの“ドキドキ”がなんなのか、
自分でもわからない。
(……俺、今どこに立ってんだ?)
答えは出ないまま、スマホを握りしめる。
その頃──理科準備室。
あやは一人、震える手でノートを開いていた。
『距離五センチで、被験者Aおよび観測者(私)の心拍が閾値突破。
センサー誤作動の可能性 → 否定。
原因:“至近距離接触寸前”による特異反応と推測。
再現性は……保留。』
ペン先が迷い、
あやは隅に小さく書き足す。
『視線データは嘘をつかない。
心拍データも嘘をつかない。
……自分の分も含めて。』
「……安藤の心拍、変だった。
……いや……私の方が……変……?」
あやは白衣の胸元にそっと手を置く。
息を吸い、ためらってから、
もう一行だけ書き加えた。
『五センチは危険。
……次は、どうすれば測れる?』
蛍光灯の下、白衣の科学者が
ほんの少しだけ“女子の顔”になる瞬間だった。




