表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

5/35

第5話 : 距離0cmの調整実験(接触寸前、5cmの悲鳴)

 放課後のチャイムが鳴ってから、俺はしばらく席を立てなかった。


 窓の外は、夕暮れの色。

 机の上には、ほのかに借りたノートが置きっぱなしになっている。


 昨日の帰り道──


『なんか、遠くなった?』

『そのときは、少しだけ引っ張ってもいい……かな?』


 あの言葉が、胸の奥でまだくすぶり続けていた。


(……ほのか、あんな顔するんだ)


 声も、表情も。

 十年以上の付き合いでも見たことがない、“揺れ”だった。


 その違和感と戸惑いを抱えたまま、俺はようやく立ち上がる。


「……行くか」


 行かなければあやに迷惑がかかる。

 行けば俺の心臓が死ぬ。


 選択肢なんて最初からなかった。


 昇降口を抜け、校舎の奥に向かって歩きながら、

 俺はふと胸に手を当てる。


(……なんでほのかの言葉が、こんなに残ってんだ?)


 答えはわからないまま、理科準備室の前に着いた。

 昨日のほのかの不安げな横顔が脳裏をよぎり、ほんの一瞬だけ足が止まる。


(いや……今は考えても仕方ない)


 軽くノックし、扉を開ける。


 薬品の匂い、蛍光灯の白、金属の冷たい感触。

 その真ん中で、白衣の背中が固まっていた。


「……安藤」


 ゆっくり振り返った黒羽あやは、眉を寄せていた。

 普段の無機質さとは違う、わずかな緊張が滲んでいる。


「今日の実験は、“調整”が必要になった」


「……嫌な予感しかしないな」


 あやは袖をぎゅっと握りしめ、モニターの波形を指でなぞる。


「“至近距離データ”にノイズが入った。

 センサーの再調整……つまり、取り直し」


「つまり……もっと近づくわけね?」


「仕方ない。科学だから」


 何でも科学のせいにするな。


 そう思いつつも、俺はもう観念して椅子に座った。

 固定具がカチ、カチ、と閉まっていく。


(はい今日も拘束からスタート……)


 胸元のセンサー。

 こめかみの視線センサー。

 貼る指先が、かすかに震えている。


(……今日のあや、なんかいつもよりソワソワしてないか?)


 あやは床のテープを確認し、小さく息を吸う。


「……今日の目標距離は、五センチ」


「え、まっ──近ッ!?」


「静かに。……揺れる」


「揺れてるのはお前の声だよ!」


 あやは返事もせず、五十センチ地点に立った。

 白衣の裾が、落ち着きなく揺れている。


 その肩が、ほんの少しだけ上下しているのも見えた。


(絶対緊張してるって……)


「では……行く」


 一歩。


 五十センチ。

 四十センチ。

 いつもの“安全圏”。


 三十センチ。

 息が少し届く。


 二十センチ。

 目が合うだけであやの視線が泳いだ。


(昨日までと明らかに違う……)


 十五センチ。

 吐息が混ざる。


 そして──


 十センチ。

 前ならここで終了の距離。


 心拍計が、ピピッ、ピピピッ、と騒がしくなる。


「被験者A、心拍──」


 あやの声が止まった。


 自分の呼吸が乱れていることに気づいたのか、

 胸元の白衣をそっと押さえる。


 そのまま──最後の一歩。


 白衣の裾が、俺の膝にふわりと触れた。


 距離、五センチ。


 あやの顔が視界いっぱいに侵入してくる。

 睫毛の長さ、瞳の揺れ、唇の輪郭。

 触れたら終わる距離。


「……っ」


 あやの体がピタッと固まった。


 呼吸は浅く、瞳は震え、頬がみるみる赤く染まっていく。


 完全にフリーズしていた。


「く、黒羽……?」


「…………」


「黒羽さん?」


「……っ……っ……」


 喉が詰まっているみたいに、声が出ない。


 その瞬間──


 ピ――――ッ!!!


 準備室にけたたましい警告音が響いた。


「うわっ!? なに爆発した!?」


「こ、これは……センサー……!」

「距離が……近すぎて……!」


 あやはモニターを見るなり、

 耳から首筋まで一気に真っ赤になった。


「ち、近すぎた……っ」


 声は震え、ほとんど蚊の鳴く音みたいだった。


(な……なんだこれ……ずるいだろ……)


 俺の心拍も急上昇して、

 ピッ、ピピッ、ピピピッ、と跳ねる。


「お、おい黒羽。これ装置壊れてないよな!?」


「壊れてない……。

 今のピークは……私の……心拍……」


「お前のかよ!!」


 あやの視線は揺れ、白衣の裾がまた震える。


「し、失敗……今日は……無理……。

 実験、終了……!」


 あやはよろめくように一歩下がり、胸元をぎゅっと握った。


「大丈──」


「触るな!! ……じゃなくて……触らないで……。

 ……ちょっと、落ち着かない……から……」


 その“言い直し”が妙に可愛くて、余計に心臓に悪かった。


 固定具が外れ、俺はゆっくり立ち上がる。


「今日はもう……帰って。

 データ……整理……無理……」


「う……うん……」


 準備室を出た瞬間、胸に手がいく。


(心臓……さっきからずっと変だ……)


 ドクン、ドクンと強すぎる鼓動。

 五センチの距離で見たあやの顔が、脳内で何度もリピートする。


(あいつ……あんな顔するんだ……)


 昨日ほのかに感じたものと、

 今日のあやで感じたもの。


 似てるようで違う気もするし、

 違うようで同じ気もする。


(これ……実験のせい……だよな?

 ……なのに、なんでこんなに……)


 スマホがふるえた。


「……ん?」


 画面には、

『日向ほのか』

 の名前。


『今日、もう帰っちゃった?

 昇降口、一瞬だけ行ったけどいなかったから。

 また今度、一緒に帰ろ?』


 たった三行なのに、

 胸の奥でさっきとは違う“ドクン”が跳ねた。


(あやのこと考えてたのに……

 なんでほのかでもドキッとするんだよ、俺……)


 どちらの“ドキドキ”がなんなのか、

 自分でもわからない。


(……俺、今どこに立ってんだ?)


 答えは出ないまま、スマホを握りしめる。


 その頃──理科準備室。


 あやは一人、震える手でノートを開いていた。


『距離五センチで、被験者Aおよび観測者(私)の心拍が閾値突破。

 センサー誤作動の可能性 → 否定。

 原因:“至近距離接触寸前”による特異反応と推測。

 再現性は……保留。』


 ペン先が迷い、

 あやは隅に小さく書き足す。


『視線データは嘘をつかない。

 心拍データも嘘をつかない。

 ……自分の分も含めて。』


「……安藤の心拍、変だった。

 ……いや……私の方が……変……?」


 あやは白衣の胸元にそっと手を置く。


 息を吸い、ためらってから、

 もう一行だけ書き加えた。


『五センチは危険。

 ……次は、どうすれば測れる?』


 蛍光灯の下、白衣の科学者が

 ほんの少しだけ“女子の顔”になる瞬間だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ