第4話 : 幼なじみ・ほのかの胸騒ぎ
ここ最近、放課後の俺のルーティンは完全に狂っていた。
──理科準備室に行くかどうかで、一度ため息をつく。
行けば、白衣の理系女子に距離二十センチまで詰められて心拍を弄ばれ、
行かなければ、文化祭の「恋愛行動研究」が進まず、たぶんあとで倍返しされる。
(こんな高校生活、誰が予想できただろ……)
そんなことを考えながら昇降口に向かった俺は、そこで足を止めた。
下駄箱の前。
夕方の光が差し込むガラス窓のそばに──
「……やっと来た」
腕を組んで立っている女の子がいた。
茶色の髪をゆるく結んだポニーテール。
明るい表情が似合う、典型的な“クラスの中心寄り女子”。
日向ほのか。俺の幼なじみだ。
「……なんだよ。ホラーゲームのNPCみたいな待ち構え方すんなよ」
「ひどくない? 幼なじみ相手に開口一番それ?」
ほのかはむっと頬をふくらませたが、その目はどこか落ち着きなく揺れていた。
「最近さ──」
言いかけて、彼女は少し言葉を飲み込む。
「最近、放課後どこ行ってるの?」
「……え?」
心臓が、嫌な方向に一拍跳ねた。
(……バレてる? いや、そりゃバレるか。ここ数日まともに一緒に帰ってないし)
小学校の頃からずっと、俺とほのかは「なんとなく一緒に帰る」仲だった。
約束しているわけでもないのに、昇降口に行けば大体どちらかが待っている、そんな関係。
でもここ数日は──
「チャイム鳴ってから、ゆう出てくるの遅いんだもん」
ほのかは足元の床をつま先でつつきながら続ける。
「部活入ってないのにさ。教室見に行ってもいないし。
まさか……裏山で一人で筋トレとかしてた?」
「どんなキャラだと思われてんだよ俺」
「じゃあなに? 秘密のバイト? それとも……」
言い淀んだところで、ほのかの目がふと細くなる。
「……女?」
「ぶっ!」
変な咳が出た。
一番図星に近いワードを、いちばんストレートに投げてくるんじゃない。
「な、なんでそこで“女”になるんだよ」
「だって、そうとしか思えないんだもん」
ほのかは、わざと明るい声を出した。
「ゆう、最近ちょっと顔変わったし。なんか……ぼーっとしてるし」
「ディスりながら心配するなよ」
「心配してるから言ってるの!」
いつもなら笑い飛ばせる言い合いなのに、今日はどこか違う。
ほのかの声の奥に、小さく引っかかるものが混ざっていた。
「で? ほんとは何してるの、放課後」
正面から、まっすぐ見られる。
茶色がかった瞳。
小さい頃から何度も見てきた“幼なじみの目”。
嘘は、つきたくない。
でも──
(黒羽との距離ゼロ実験とか、口が裂けても言えねぇ……!)
あの二十センチとか唇事件とか、そんなことを幼なじみに報告したら、確実に終わる。
俺の高校生活が、いろんな意味で。
「えーっと……その……」
口の中で言葉が空回りする。
「……ちょっと、文化祭の手伝い?」
「ふーん。どこの?」
「え?」
「文化祭のどの企画?」
ほのかの追撃が鋭い。
そうだ、コイツ、見た目ゆるいくせにこういうところだけ無駄に勘がいいんだった。
「えー……その……
理科系?」
「理科系?」
「理科準備室で、その……ちょっと、機械いじったり……」
「へぇ。理科準備室」
ほのかの声色が、ほんの少しだけ低くなった気がした。
「何だよ、そのじわっと鳥肌立つ話し方。
やっぱりホラーゲームのNPCじゃん」
「ゆう、理科得意だったっけ?」
「……全然」
「じゃあ、なんで?」
(黒羽に腕掴まれて連行されて……心拍計に縛られて……距離二十センチで人権を失い……)
説明できるか。そんなの。
「ま、まぁその……人手不足? っていうか……流れで?」
自分でもひどいと思うほど曖昧な言葉しか出てこない。
ほのかは「ふーん」と短く言って、視線を少し床に落とした。
「そっか。
流れで、ね」
その言い方が妙に胸に刺さる。
「ごめん。最近あんまり一緒に帰れなくて」
せめてそれだけはちゃんと言おうとすると、ほのかは小さく笑った。
「……謝ることじゃないよ。ゆうにも、ゆうの時間あるし」
笑っている。
けれど、その笑顔はいつもより少しだけぎこちなかった。
「じゃ、帰ろっか」
ほのかはいつもの調子を装うみたいにくるりと背を向け、昇降口のドアを押し開けた。
夕方のオレンジ色の光が、彼女の輪郭を柔らかく縁取る。
俺は何も言えず、その後ろを黙ってついていった。
学校の坂道を下る帰り道。
住宅街へ続くいつものルート。
カラスの鳴き声と、遠くから聞こえる部活の掛け声だけがBGMみたいに響いている。
沈黙。
いつもなら、ほのかがどうでもいい話を延々と喋って、俺が適当に相槌を打つのが日常だった。
でも今日は、なぜかその「どうでもいい話」が出てこない。
「……静かだな」
思わず口をついて出た。
「いつもそんなうるさかった?」
「いや、いい意味で。賑やかというか」
「ふーん。
じゃあ、今日は“静かなモード”なんだ、私」
ほのかはそう言って笑ったが、その声はどこか遠かった。
歩幅を合わせるように、俺は彼女の少し後ろを歩く。
ふと気づくと、ほのかの歩幅がいつもより少しだけ、小さい。
(……あれ?)
自然と、俺との距離が縮まる。
肩と肩がぶつかりそうで、ギリギリぶつからないくらいの微妙な距離。
ほのかの手が、バッグの紐をぎゅっと握りしめているのが見えた。
(こういうときだけ、子どもの頃の“泣き虫ほのか”っぽくなるの、反則だろ)
「なぁ、ほのか──」
何か言おうとしたそのとき、彼女の方が先に口を開いた。
「ねぇ、ゆう」
歩くスピードをほんの少し落として、俺と横並びになる。
夕焼けの光が、彼女の横顔を照らした。
「……なんかさ」
言葉を選ぶように、彼女は唇を噛む。
「なんか、遠くなった?」
「え? 今、近くなったんだけど?」
「そういう意味じゃなくて。
ゆうが、どっか遠くに行っちゃったみたいな感じ。
……ちょっとだけ、する」
冗談みたいな語尾。
でも、その目は全然笑っていなかった。
(遠く……?)
そんなはずはない。
俺は毎日同じ制服着て、同じクラスにいて、同じ通学路を歩いている。
ただ放課後に、理科準備室で心拍計に繋がれているだけで。
(……それが、ほのかから見たら“遠く”なんだろうか)
あやとの距離が三十センチ、二十センチと縮まっていく一方で、
ほのかとの距離は、何センチかずつ、気づかないうちに離れていたのかもしれない。
「そんなこと──」
言いかけて、喉が詰まる。
「そんなことない」と簡単に否定するには、俺はあまりにもほのかの不安に無頓着だった。
ほのかは、視線を前に向けたまま続ける。
「小学校のときさ。ゆうが急に塾通い始めたとき、ちょっとだけ寂しかったの覚えてる?」
「え、覚えてない」
「だろうね。ゆうは気づいてなかったもん」
そう言って、少し笑う。
「あのときと、ちょっと似てる。
気づいたら、ゆうだけ別のとこにいてさ。
“なんか楽しそうな顔してるのに、そこに私いないんだな〜”みたいな」
胸のどこかを、冷たい針でちくりと刺された気がした。
ほのかは、俺の返事を待たないまま、ぽつりとこぼす。
「……ごめん。めんどくさいこと言ってるのわかってるんだけど」
笑いながら言うその声が、少し震えていた。
「でも、なんかさ。
最近のゆう、知らない顔してるのが、ちょっとだけずるい」
“ずるい”。
彼女の口から出るには、少し大人びた言葉。
俺は、何も言えなかった。
理科準備室で、距離二十センチで見たあやの顔。
心拍計の電子音、ノートに走るペンの音。
それとは違う種類の“胸の音”が、今この帰り道で鳴っている気がした。
「ほのか」
ようやく名前を呼ぶと、彼女は少しだけこちらを見る。
「俺、別にどっか行くわけじゃ──」
「わかってるよ」
ほのかは言葉を遮った。
「ゆうが真面目なのも、優しいのも、知ってるから。
だから、ちゃんと聞いたんだよ。“最近どこ行ってるの?”って」
そのくせに答えが曖昧だったから──と、言葉にはしないまま。
彼女は、少しだけ歩幅を広げた。
さっきまで近づいていた距離が、またじわりと離れていく。
(……何やってんだ、俺)
心の中で、誰に向けるでもないツッコミをする。
あやとの「距離ゼロ実験」を、面白がって受け入れ始めている自分。
ほのかの「いつもの距離」に、ちゃんと向き合えていない自分。
そのギャップが、じわじわと胸を締め付ける。
ほのかは前を向いたまま、小さく息を吐いた。
「……ねぇゆう」
「ん」
「もしさ。
ゆうがほんとにどっか遠く行きそうになったらさ」
そこで言葉を切って、ほんの少しだけ振り返る。
夕焼けの中で、その目は今にも泣きそうで──でも、ぎりぎりで踏ん張っていた。
「そのときは、少しだけ引っ張ってもいい……かな?」
「引っぱる?」
「うん。腕とか、袖とか。強くじゃなくて……
“行かないで”って、ほんの少し……」
幼なじみらしくない、正面からの問い。
胸の奥が、きゅっと痛んだ。
「うん、いいよ」
俺は、ようやくそれだけ絞り出す。
「言わないと、鈍い俺にはたぶん伝わらないから」
「知ってる」
ほのかは、少しだけ笑った。
でも、その笑顔の奥で──。
彼女の胸には、本人でもまだ上手く言葉にできない、小さな痛みが走っていた。
それが“何か”の名前を持つのは、もう少し先の話だ。
あやの心拍実験で生まれた“揺れ”とは別のかたちで──
幼なじみの胸の中にも、静かに、確かに“恋の芽”が動き始めていた。
俺がそれに気づくのは、たぶんまた少し遅れてからだろう。




