第35話 : 遠ざかる心、触れたい想い──それでも一歩だけ
ゆうとは昇降口で靴を履き替えながら、今日一日のことを思い返していた。
教室でも、廊下でも、昼休みでも──
あやはゆうとを“避けているつもりはないのに避けている”態度だった。
昨日より、今日のほうが距離が遠い。
(……恋人って、こんなに難しかったっけ)
付き合った瞬間から距離が縮まるどころか、
まるで逆方向に走り出したような感覚。
靴ひもを結ぶ手が止まる。
胸の奥に、ずっと刺さっている疑問がまた顔を出した。
(黒羽は……俺のことが本当に好きなのか?)
あやが「好きすぎてこわい」と言ったのは本心だとわかる。
だが、その本心に触れられないまま、すれ違いだけが積み重なっていく。
下校しようと校門へ向かったとき、背後から小さな足音が追ってきた。
「ゆうと……!」
あやだった。
息を切らし、髪を揺らし、走ってきたらしい。
普段なら絶対しない行動。
「どうしたんだよ。こんなところまで……」
「き、今日……ちゃんと言えてなかったことが……あるから……!」
あやは胸の前で手を握り、視線を下げたまま震えている。
心拍が速いのが、距離を隔ててもわかる。
「……ゆうとに、誤解されたままなのは……いや、だから」
「誤解って……俺、お前に嫌われてるのかなって……」
その言葉に、あやは顔を上げた。
驚愕で目を見開き、次の瞬間、首を大きく横に振る。
「ち、違う!! 嫌いなんかじゃない!!」
声が校門前に響く。
自分でも驚いたのか、あやは両手で口を押さえた。
「ご、ごめん……その……嫌われてるって、思わせちゃうの……ほんとに、いやで……」
「でも実際逃げてるし……」
「逃げてるんじゃ……ないの。
近づきたいのに、好きすぎて……息が止まるくらい、苦しくなって……」
(やっぱり……そこなんだ)
ゆうとは少しだけ納得しつつも、痛みが消えるわけではなかった。
「黒羽……俺、どうしたらいいんだろ」
「……わかんない」
「俺もわかんない」
二人は夕方の校門前で、静かに向き合った。
校庭から吹いてくる風が、あやの髪を揺らす。
あやはぎゅっと拳を握りしめると、
一歩だけ、ゆうとに近づいた。
ほんの十センチ。
その十センチに、彼女の全力の勇気が詰まっていた。
「……これが、今の私の……限界。
でも、ゆうとと……ちゃんと恋人になりたい気持ちは……ほんとう、なの」
「黒羽……」
「だから……逃げるように見えても……ほんとは、近づこうとしてる……つもりで……」
あやの声は震えていたが、言葉は止まらなかった。
「昨日より、今日のほうが……たぶん……ちょっとだけ……近い、はず……」
ゆうとの胸の痛みが、少しだけほぐれた。
あやの“近づきたいけど近づけない”という苦しさは
ゆうとの“嫌われたのかもしれない”という不安と同じ場所を向いていた。
ただ、歩幅が違うだけ。
「……わかった。じゃあさ」
ゆうとはそっと、手を前に差し出す。
握るのではなく、触れもしない。
ただ“ここにいるよ”と示す距離。
あやは迷いながらも、同じ高さに自分の手を浮かせた。
触れるか触れないかのギリギリの間に、二人の影が重なる。
「今日のところは……これくらい、で……」
「うん。無理はしなくていい」
あやはそっと息を吐き、わずかに笑った。
それは今まででいちばん“恋人らしい表情”だった。
「明日……もう五センチ、がんばる……」
「お、おう……そんな細かく!?」
「大事なの……こういうの……!」
あやは恥ずかしさを抱えながらも、ちゃんとゆうとを見ていた。
距離はまだ遠い。
でも、ようやくその距離を縮める“方向だけ”は揃った。
すれ違いはまだ続く。
だけど、そのすれ違いはもう昨日までのものと違った。
むしろ──
恋が動き出すために必要な、最初の揺れだった。




