第32話 : 避けるつもりなんてないのに──心と体がちぐはぐな午前中
教室に入り、自分の席についた瞬間、あやは胸の奥をそっと押さえた。
まだ呼吸が整わない。肩がゆっくり上下しているのが、自分でもわかる。
(恋人なのに……恋人だから……こんなに緊張するなんて……)
机の上の教科書を開くが、視線は文字を捉えてくれない。
ページの白さがやけに眩しく、目が泳ぐ。
手のひらにじんわり汗がにじんでいて、それを隠すように指をぎこちなく組む。
ホームルームが始まる頃になっても、胸の鼓動は完全には落ち着かなかった。
しばらくして、教室の後ろの扉が静かに開く音がした。
あやの心臓はその一音だけで跳ねる。
(……安藤くん……?)
意識したくないのに、全身がその気配を探してしまう。
視線を向ける勇気はなくても、耳と心が彼の存在を嗅ぎ分ける。
彼が席につく気配。
鞄を静かに置く音。
友人に小さく挨拶する声。
全部が、あやの胸の中で勝手に増幅されていく。
(顔を……見られるわけ、ない……)
そう思うのに、ゆうとの動きを追ってしまう自分がいる。
ホームルームが終わり、休み時間に入ったときだった。
「黒羽さん、ちょっといい?」
柔らかい声。
ほのかだった。
あやはびくっと肩を揺らす。
「……ほ、ほのかさん?」
ほのかはあやの机の横に立ち、屈み込むようにして目線を合わせてきた。
優しい目をしているが、その奥には“心配”がはっきりと浮かんでいた。
「今日さ……黒羽さん、朝から緊張してるよね?」
「……っ」
図星だった。
朝から。
というより、恋人になってこの一週間、ずっと。
「なんか……安藤と話そうとしてるのに、距離が伸びてる感じがするんだけど……」
「~~~~~っ」
あやは顔を覆いたくなる衝動に駆られた。
ほのかが指摘するのは、まさにあやが一番悩んでいることだった。
「ち、ちが……避けてるわけじゃ……」
「うん、そうだと思う。黒羽さんが避けたい人じゃないってことくらい、私も分かってるよ」
そっと微笑むほのかに、あやは胸の奥がじんと温かくなる。
強くて優しい人だと、つくづく思う。
「……あの……近いと……無理、なんです……」
言葉にすると、胸がきゅっと痛んだ。
それは弱さを認める痛みだった。
「無理って……どんなふうに?」
「目が……合わせられなくて……
顔を見られると……胸が苦しくなって……
息が、ちょっと……止まりそうで……」
ほのかは“あ〜……”と小さく息を吐き、困ったように微笑んだ。
「黒羽さん、それ……完全に恋してる人の反応じゃん」
「ち、違……っ、恋は……はい……ですけど……!」
「認めた!」
「~~~っ!」
あやは机に突っ伏しそうになった。
しかし、ほのかは真剣な声色で続けた。
「でもさ。
好きすぎて緊張しちゃうの、別に悪いことじゃないよ?
むしろ……黒羽さんらしいと思う」
「……らしい……?」
「うん。
安藤のこと大切に思ってるからこそ、近づくだけで心臓が暴れるんでしょ?」
その言葉に、あやの胸の奥が静かに震えた。
(……大切……)
自分でも気づいていた。
でも、こうして言葉にされると、心の奥深くまで沈んでいた感情が水面にゆっくり浮かびあがってくるようだった。
「避けてるんじゃなくて、好きすぎて近づけない……って、安藤にちゃんと伝えたほうがいいと思うよ?」
「……伝える……なんて……」
あやは唇を震わせた。
伝えたい気持ちはある。
でも、その“伝える”という行為すら緊張してしまう。
恋人になって一週間目。
あやの心は、近づきたいのに近づけない、そんな矛盾を抱えたまま揺れていた。




