第31話 : 揺れる心、踏み出せない距離──それでも“恋人でいたい”
準備室の空気がゆっくりと落ち着いていく中で、
あやは胸の前で握った手をそっと解いた。
震えは、まだ残っていた。
でもさっきまでのように“逃げ出したい震え”ではなく、
“どうすれば向き合えるか迷う震え”に変わっていた。
「……一緒に、考える……か……」
あやはぽつりと呟いた。
自分に言い聞かせるように、何度も。
(そんなの……できるの? 私に……
恋人としてちゃんと隣にいられるの……?)
心の中の不安はまだ大きかった。
だけど、ゆうとの「一緒に考える」という言葉が
その不安の輪郭をほんの少しだけ和らげていた。
「なぁ黒羽」
ゆうとが椅子を引いて、ほんの少し近づく。
距離は一歩分。
それだけであやの心臓は跳ねた。
「ひっ……! ちょ、ちょっと近い……!」
反射的に肩が跳ねる。
震えも再発する。
だがゆうとはそこで止まった。
「ここなら……大丈夫か?」
「……だ、だいじょうぶ……かも……ひょっとしたら……」
「ひょっとしたらってなんだよ」
「ふ、分析には誤差が……」
「黒羽の恋愛に誤差は多すぎるだろ」
「う、うるさい……!」
言い返す声はかすかに強く、
それが逆にゆうとには安心材料になった。
(あ、少し戻ってきた……)
ゆうとは内心ほっとしつつも表情には出さず、
慎重に問いかける。
「黒羽、聞いてもいいか?」
「……なに……?」
「お前は……俺と恋人でいたいのか?」
あやの呼吸が止まった。
その一言は、彼女の核心を突いた。
(……いたい。
いたいけど……怖い……)
胸の中で言葉が渦巻き、まとまらない。
やがて、震える声でぽつりと出た。
「……いたい……。
ゆうとの恋人で……いたい、よ……」
その告白は、泣き声に近かった。
必死に堪えるように、唇を噛みしめている。
「でも……自信がない……。
私、恋人として……全然ダメで……
ゆうとの期待に……答えられないかも……」
涙は落ちない。
でも、落ちる寸前の声だった。
ゆうとは深呼吸をし、在りのまま言葉を重ねた。
「黒羽……俺はそんな期待してない」
「え……?」
「恋人だからって、特別なことができなきゃいけないわけじゃないだろ。
黒羽は……黒羽がそのままでいてくれればいい」
「……でも……」
「“でも”はいい」
ゆうとはそっと手を前に出す。
触れようとはしない。
ただ“ここにいる”と示すだけ。
「ほら。俺の手……今日は触れなくていい。
触れられなくても、恋人でいられるだろ?」
「……ゆうと……」
「黒羽が自信を持てるまででいい。
少しずつでいいから……一緒に進もうぜ」
あやの瞳が揺れる。
不安と希望と恐れと温かさが渦巻いて、
涙がこぼれそうになる。
(……こんな私でも……
“それでいい”って言ってくれるの……?)
震える手が、そっと持ち上がった。
ゆうとの手に触れる寸前で止まる。
指先と指先が、ほんの数ミリ。
触れないけれど、触れたも同然の距離。
「……これが……いまの私の、限界……」
「十分だよ」
ゆうとの声は、やさしくて、あたたかい。
あやは小さく息を吐いた。
「……ありがとう……ゆうと。
私……ちゃんと、あなたの恋人になりたい……」
「なってるよ。もう」
あやは首を横に振る。
「まだ……足りない。
でも……いつか……隣に立てるように……がんばるから……」
「うん。待ってる」
「待たないで……」
「どっちだよ!」
「どっちも……!」
言い合いながら、二人の間に柔らかな空気が広がる。
すれ違いは消えてはいない。
あやの震えも、自信のなさも残ったまま。
それでも──
“恋人でいたい”という気持ちだけは、
二人そろって同じ場所を向いていた。
触れられない距離。
けれど、確かに近づいていく距離。
夕暮れの準備室で、
あやとゆうとの恋はまた一歩、静かに前へ進んだ。




