第28話 : 恋人1週間目の朝──距離が縮まるどころか、なぜか遠ざかっていく
恋人になって一週間が経った。
けれど黒羽あやの胸は、その“恋人”という二文字の重さに、いまだ慣れるどころか日ごとに震えを増していた。
その朝、校門を通り抜けた瞬間、吐く息が白く揺れた。
冬の空気は澄んでいるのに、あやの体はひどく熱かった。
頬だけでなく、首筋から胸元まで温度が一段高く、制服のボタンの内側が落ち着かない。
(……今日こそ、普通に……話せますように……)
小さく胸の前で指を重ねながら祈るように歩く。
恋人になったからには、昨日より、もっと自然に話せるはず。
距離だって近づけるはず──そう信じたかった。
しかし校舎に近づくたび、胸の奥で嫌なほど正直な心臓が反応し始める。
どくん。
どくん……。
早まる鼓動に、あやは胸元をそっと押さえた。
(この、鼓動が……全部ばれる気がする……)
黒羽あやは、嘘がつけない体質だった。
心拍も、視線も、微細な震えも、全部そのまま感情として顔に出る。
だからこそ、恋人という関係が、彼女の身体を一層正直にしてしまっていた。
昇降口へ入ると、朝のざわめきが耳に届く。
制服の擦れる音。
靴の軽い足音。
友達同士の「おはよー」という声。
そのどこにもゆうとの姿はないのに、
彼がどこかにいるというだけで全ての音が近く感じ、胸がそわつく。
下駄箱で靴を入れ替えていると、ふいに後ろから聞き慣れた声がした。
「あ、黒羽──」
「っ……!」
あやの肩が大きく跳ねた。
振り返る前から分かる。
この声は、安藤ゆうと。
どうしてここに立っているのだろう。
いつもより少し早い時間。
あやより早く昇降口に来ることなんて、普段は滅多にないのに。
心の準備ができていない。
(む、無理……!)
あやは反射的に俯き、視線を逸らすように下を向く。
靴箱の縁が涙で歪むほど、近くに感じてしまう。
「お、おはよう……黒羽」
ゆうとの声はいつもより慎重だった。
恋人として声をかけるのに、彼もまだ慣れていない。
お互い不器用な二人だからこそ、言葉がぎこちなくなってしまう。
あやは息をのみ、答えようとするが──
「……あっ……あの……お、おは……っ」
そこまで言って、言葉が喉でつまる。
顔が熱くなりすぎて、視界がまともに保てない。
ゆうとの顔が見えない。
見たいのに、見られない。
彼が恋人になったという事実は、まだあやの体には刺激が強すぎた。
「黒羽……?」
呼ばれただけで、胸が跳ねてしまう。
「っ……ご、ごめんなさい……!」
あやは小さく頭を下げ、逃げるように昇降口から離れた。
足がもつれそうになるほど早足で廊下を歩く。
教室までの道のりが、今朝はとてつもなく遠く感じられた。
(だめ……こんなの……だめ……
恋人なのに……避けてるみたいで……)
でも、避けたいわけじゃない。
本当は近づきたいし、もっと話したいし、
ゆうとと一緒にいる時間を、自分の胸の奥で大切に感じている。
ただ、
その“大切”という感情が強すぎて、
それを表に出す勇気がついていかないのだ。
教室前で、あやはようやく立ち止まった。
胸に手を当て、深呼吸をしようとするものの──
(……安藤くん、怒ってたかな……)
その不安が喉の奥を塞ぎ、呼吸を浅くする。
(朝から……目も合わせられないなんて……わたし……どうして……)
鼓動だけが、彼女の本心を訴え続けていた。
恋人になったからといって、急に強くなれるわけじゃない。
むしろ、あやの世界は“特別な存在”に敏感になりすぎて、距離の調整がまったくできなくなっていた。
教室の扉の透明ガラスに、自分の赤い頬が映っていた。
「……どうしよう……わたし……」
恋人になったはずなのに。
むしろ、昨日よりも“遠くなってしまったように”感じる。
そんなつらくて愛しい、1週間目の朝だった。




