第25話 : 恋人になった実感が、夜になって襲ってくる
その夜、ユウトは自室の机に向かっていた。
宿題を広げてはいるが、ページをめくったのは最初の一回だけで、
いまは鉛筆を手にしたまま完全に固まっている。
机の上の蛍光灯は少し古く、光がときどきチカ、と弱く瞬いた。
そのわずかな瞬きのたびに、ユウトの胸の奥で同じリズムのように心臓が跳ねる。
(……黒羽と、恋人になったんだよな……)
声に出す勇気はまだない。
だがその言葉は、何度も胸の内側で形を取り、
じんわりとした温かさと、どうしようもない緊張を同時に生み出していた。
今日放課後のことを思い返す。
準備室の白い机に差し込んでいた夕陽、
ほこりが光の中をゆっくり舞っていたこと、
黒羽が上目づかいに震えながら言った「好き……です」の声。
忘れようとしても忘れられるはずがなかった。
(……明日……どうやって黒羽と話せばいいんだ?)
そこだ。
ユウトはずっとその一点で足を止めていた。
恋人になった。
それは事実だし、嬉しくて、嬉しすぎて、胸が破裂するんじゃないかと思うくらいだ。
だが──
(恋人って……何するんだよ……? 朝会った瞬間……なんて言えばいいんだ……?)
声をかける言葉すら浮かばない。
「おはよう」でいいはずなのに、それが急に“恋人としての挨拶”に変わってしまった気がする。
机に置きっぱなしのスマホが、静かな部屋の中でやけに存在感を放っていた。
ユウトはそれに視線を向け、そっと息をつく。
(黒羽……明日、どんな顔してるかな……)
考えるだけで胸がふわっと温かくなり、それから余計に緊張して、また息が浅くなる。
そんな堂々巡りを、ユウトはもう一時間以上続けていた。
『ほのかからのメッセージが届く夜』**
ちょうどそのとき、机の上のスマホが震えた。
短い振動音が静まり返った部屋に響く。
「うわっ……」
思わず声が漏れた。
“黒羽からかもしれない”という予感が胸を突き上げ、ユウトは慌ててスマホを手に取る。
──しかし、画面に表示された名前は違った。
ほのか。
ユウトは、息をひとつ整えてからメッセージを開いた。
『ねぇ、今日の二人のこと……聞いたよ』
胸が少し痛んだ。
ほのかは強がって笑っていたけれど、きっと複雑な気持ちを抱えているはずだった。
(……ごめんな……)
文章にはできない言葉が胸に溶けていく。
返信しようと文字を打ちかけたとき、またほのかのメッセージが届いた。
『焦らなくていいよ。黒羽さん、ゆっくりタイプだからさ』
ユウトはしばらく画面を見つめたまま動かなかった。
ほのかの気遣いが、胸の奥にそっと触れた気がした。
黒羽の歩く速度。
言葉の選び方。
視線を合わせるときの小さな間。
ひとつひとつが、たしかに“ゆっくり”で、
そのゆっくりさが愛おしいことを、ユウトは誰よりも知っていた。
「……そう、だよな」
小さく呟くと、胸ににじむ緊張が少しだけ薄れた。
恋人だからといって急に何か大きく変わる必要はない。
黒羽の歩くペースに合わせればいい。
そんな当たり前のことを、ほのかの一言がやさしく教えてくれた。
ユウトは画面に指を滑らせ、短い返信を送った。
『……ありがとう、ほのか』
送信の音は小さかったが、心の中でははっきり響いた。
メッセージを送り終えたあと、ユウトは机から離れ、ベッドに座りこんだ。
部屋の窓から入り込む夜風はまだ冷たく、カーテンがふわりと揺れていた。
天井を見上げると、今日一日の出来事がまた静かに胸を満たしてくる。
黒羽の涙、唇を震わせながら伝えてくれた気持ち。
そして最後に、二人の間に生まれた新しい関係。
(……恋人、か……)
その言葉を頭の中で転がす。
何度考えてもくすぐったく、胸の奥がむずむずして、落ち着かない。
(明日、黒羽に会ったとき……ちゃんと顔、見れるかな)
自信はない。
あの整った横顔を前にしたら、きっと視線をそらしてしまうだろう。
でも、ほのかが言っていた。
“焦らなくていい”。
その言葉に背中を押されるように、ユウトはゆっくり息を吐く。
(……黒羽のペースでいいんだ。無理に“恋人らしく”しようとしなくても)
恋人だからといって、特別な言葉を用意する必要はない。
すぐに手をつないだり、距離を詰めたりする必要もない。
黒羽が安心できるペース。
それをいちばん大事にしよう。
「……よし」
声に出してみると、不思議と胸の奥が少しだけ軽くなった。
明日、どう声をかけるかはまだ決まっていない。
でも、黒羽の表情を見てからでいい。
黒羽が安心して笑ってくれるように、ゆっくり歩けばいい。
(恋人らしさなんて……きっと、二人で少しずつ見つけていけばいいんだ)
そう思えた瞬間、胸の奥の不安よりも、あたたかい期待が静かに広がった。
窓から吹き込んだ夜風が頬をかすめる。
新しい関係の始まりを祝福するように、やさしく揺れていた。




