第23話 : あや、初めての“恋人”に脳が追いつかない
放課後の空気は、昼間より少し冷えていて、夕焼けの余韻があやの肩に静かに落ちていた。
胸の奥がずっとふわふわしている。歩くたびに心臓が跳ね、その鼓動が制服の胸元まで届くようだった。
(……れ、恋人……安藤くんが……恋人……)
思うたびに呼吸が浅くなる。
学校を出てから家に着くまで、ほとんど景色を覚えていなかった。
玄関の扉を閉めた瞬間、あやはスリッパも揃えず階段を駆け上がり、自室へと飛び込んだ。
そして、勢いそのままベッドにダイブする。
ドサッ。
「む……無理……!」
枕に顔を押しつけ、指先が布団をぎゅっと掴む。
頬が熱い。耳まで焼けてしまいそうだった。
(だって……恋人って……! わたしが……? 安藤くんと……?)
思考が追いつかず、心だけがひとりで跳ねて暴れまわる。
人と距離を測り、心拍の変化を冷静に記録してきたあやの頭が、今日ばかりは完全に混乱していた。
(今日の……あの瞬間……)
放課後の準備室で言われた言葉が、何度も胸の奥で反響する。
『ずっと一緒にいたい。……恋人として』
まっすぐで、あたたかくて、その場で心臓が破裂するかと思った。
でも、あやは震える声で返したのだ。
『……わたしも……好き……です……』
その事実が、いまさらのように心の中央を突き上げる。
「うぅ……思い出すだけで死んじゃう……」
部屋の天井から落ちる夕方の光が、あやの赤くなった耳を淡く照らしていた。
『心拍研究ノートが、知らないうちに“恋人ノート”になる』**
気持ちを落ち着けるために、あやはしばらく枕に顔を埋めたまま呼吸を整えていた。
けれど胸の揺れは収まらない。むしろ、落ち着こうとすればするほど、意識がそわそわと逆立っていく。
「……だ、だめ……何かしないと……」
あやはいつもやっていることをやろうと思った。
“心の揺れ”を記録する。
それは科学者としての習慣であり、落ち着くための儀式のようなものだった。
机の前に座り、白いノートをそっと開く。
表紙の角は柔らかく、長い時間を共にしてきた道具の存在感が心を落ち着けてくれる。
(今日の……心拍変動……記録しないと……)
震える指でペンを取る。
深呼吸をし、いつものようにページ上部にタイトルを書こうとした。
──気づいたときには、文字がもうそこにあった。
『恋人 安藤ゆうと』
「…………っ!!??」
あやは固まった。
思考より先に、顔が一気に熱を帯びる。
耳の先までじんじんと火照り、胸が跳ねるのが分かった。
「こ……こ、これは……あの……違……っ!」
意味不明な言葉が漏れ、ノートをバタンと閉じた。
机の上のペンがカランと転がっていく。
(わ、わたし……“恋人”って書いた……!? 無意識に……!?)
もう一度ノートを開く勇気が、数秒では湧いてこない。
机に突っ伏し、両手で顔を覆う。
「む、無理……! どういうことなの……」
しかし、胸の奥では小さく温かい波が広がっていく。
恥ずかしさで震えながらも、否定できない甘い感情がそこにある。
(安藤くんが……わたしの恋人……)
その言葉を思った瞬間、胸が静かに、でも確かに跳ねた。
あやはそっとノートを開き直す。
そこに書かれた文字は、震えた線で、少しだけ歪んでいて、
どこか“嬉しすぎて手が震えた痕跡”がありありと残っていた。
「……やだ……可愛い……」
自分で書いたくせに、思わず小さく呟いてしまった。
あやの顔はまだ真っ赤のままだった。
『恋人になった現実が、どうしても甘すぎて耐えられない』**
ノートを閉じても、あやの心は落ち着く気配を見せなかった。
胸が熱く、呼吸が浅い。
目を閉じれば、ゆうとの照れた笑顔や、触れそうで触れなかった距離が浮かぶ。
(恋人って……どうすればいいの……?)
研究では何千回も分析してきた“距離”や“反応”が、
恋人になった瞬間、まるで違う意味を持ってしまった。
(毎日話す?
連絡をとる?
会うとき……なんて呼べばいいの?
手……とか……つなぐの……?)
「むりむりむりむり……!」
あやは再びベッドに倒れ込み、枕を抱えて左右に転がる。
髪が広がり、頬が布団に沈んで、目だけがうるんだまま揺れていた。
恋人になった。
その一言が、こんなにも自分を揺らすなんて思っていなかった。
(でも……嬉しい……すごく……)
胸の中央がきゅっと締めつけられたあと、ふわりと温かさが広がる。
怖い揺れではなく、安心に似た揺れだった。
あやは布団から手を伸ばし、ノートをもう一度抱きしめるように胸に当てた。
「……安藤くん……」
小さく名前を呼ぶと、心臓が跳ねる。
その跳ね方が、いままでのどれとも違った。
(わたし……ほんとうに……恋人なんだ……)
その実感は甘く、まだ少しだけ苦しくて、
でも確かにあやの世界を変えていた。
「……あした……ちゃんと、顔……見られるかな……」
そう呟いて布団に顔を埋めた瞬間、あやはまた小さく身をよじる。
「やっぱり無理~~~……!」
恋人一日目の夜。
黒羽あやは、科学者である前に──
はじめて恋を知った普通の女の子として、
甘くて苦しい混乱の渦に転がり続けていた。




