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第22話 : 揺れる心の終点、静かな対峙

 放課後の理科準備室は、冬の夕陽が差し込み、薄い橙色の影を棚の上に落としていた。ガラス器具がその光を反射してきらりと揺れ、静かな教室に心拍計の残響だけがかすかに漂っている。


 その中央で、ゆうととあやは向かい合っていた。


 しかし、いつもの実験前の空気とはまったく違う。

 机の上にはノートもセンサーも置かれておらず、白衣姿のあやは胸の前でぎゅっと手を組んでいる。


 俯いていた彼女のまつ毛がかすかに震える。

 逃げたくない──でも、逃げ方も、どう答えるべきかも分からない。

 そんな迷いが、静かな呼吸の間に滲んでいた。


 ゆうとは、一歩だけ近づく。


「黒羽……」


 名前を呼ばれた瞬間、あやは小さく肩を揺らした。

 いつもは冷静な彼女が、今日はまるで小動物のように怯えて見える。


「この前……言えなかったことがある」


 あやの目がゆっくりと上を向く。

 その瞳には、期待とも、恐怖ともつかないゆらぎが映っていた。


 ゆうとは息を整え、逃げずに視線を合わせる。


「俺……黒羽のこと、守りたいって思った。あの日、嫉妬で苦しそうにしてたお前を見て……本気で。」


 あやの唇がわずかに震えた。

 息を飲む音すら聞こえるほどの沈黙。


 続けて、ゆうとは真正面から言う。


「多分……好きなんだ、黒羽のこと」


 次の瞬間。


 あやの目から、透明な涙がぽろりと零れ落ちた。


 しかしその涙は、これまでゆうとが何度か見た“苦痛”の涙ではなかった。

 震えも、硬さもなく──ただ、ほどけていくような “安堵の涙” だった。


「……そんなふうに言われるなんて、思ってなくて……」


 あやは慌てて白衣の袖で目元を押さえるが、涙は止まらない。


「怖かったの……。揺れるたびに壊れそうで……でも……あなたが離れるほうが、もっと……怖くて」


 声は震えていたが、その震えには、はじめて“前に進む勇気”が滲んでいた。


 ゆうとは彼女に手を伸ばす。

 触れようとして、しかし迷い、ほんの数センチ手前で止める。


「泣かせたいわけじゃないんだけど……」


「……ううん。泣きたいの。今だけは……」


 夕陽があやの涙を淡く照らし、光の粒がほろりと頬を滑り落ちていく。


 この瞬間、二人の心はまだ“恋人”とは言えない。

 でも、確かにその一歩手前── 気持ちが重なり始めた境界線 に立っていた。


 あやの涙が落ちる音すら聞こえそうな静けさの中、ゆうとはそっと手を下ろした。触れたい。慰めたい。けれど同時に、今のあやの感情を壊してしまいそうで、動けなかった。


 あやは袖で涙を押さえながら、少しだけ顔を上げる。


「……安藤くんは、どうして……そんなこと、言ってくれたの?」


 震えた声は、答えを求めているというよりも──

“まだ信じるのが怖い” と怯える心をさらけ出していた。


 ゆうとは息を吸い、真正面から向き合う。


「黒羽が泣いてた理由……分かりたかった。

 実験で震えてるときも、距離が近いと苦しそうにしてるときも……俺、気づけなかった」


 あやの瞳が揺れる。


「でも、あの日……ほのかと話してたときの黒羽の顔を見て、はじめて分かったんだ。

 あれは“実験の不安”とかじゃなくて……俺のことで泣いてるんだって」


 あやは胸の前でぎゅっと指を絡めた。


「……うん。そう、なの……あなたのことで……」


 声は小さいのに、ゆうとの胸の奥にまっすぐ届く。


「俺は……黒羽がそんな気持ちをひとりで抱えてるの、嫌だと思った。

 守りたいって思った。

 その気持ちが……どんどん大きくなって……」


 言葉が途切れた先を、あやが受け止めるように見つめてくる。


 ゆうとはその視線に、逃げずに答えた。


「……だから、多分、好きなんだ」


 あやの胸がひくっと揺れる。

 涙はもう止まっていたが、今度は頬がゆっくりと赤く染まりはじめる。


「“多分”なんかじゃないよ……」


 あやがぽつりとつぶやく。


「そんなふうに……真っ直ぐ言ってくれる人を、好きにならないわけ……ないよ……」


 ゆうとの目がわずかに見開かれた。


「黒羽……」


「わ、私も……その……あなたが好き……」


 その瞬間、準備室の空気がふっと変わった。

 冬の夕陽が二人の間に柔らかく広がり、影と光がゆっくり混ざり合う。


 距離はまだ触れられないほど遠い。

 恋人でもない。

 でも──“心だけは、たしかにつながった”。


 二人の呼吸が重なり、小さな沈黙が優しく満たされていく。


 同じ頃。

 校門を出たほのかは、薄いカーディガンを握りしめながら歩道をゆっくりと歩いていた。


 放課後の帰り道。

 部活動の掛け声も遠ざかり、空は紫と橙がゆっくり混ざり合うように広がっている。


「……今日で、終わりだな」


 自分の声が少しだけ震える。

 それでも、涙はもうこぼれなかった。


 手すりに手を添えて立ち止まり、ほのかは深い息を吐いた。


(ゆうとは、あやのほうを向いてた……ずっと前から)


 わかっていた。

 あの日、河川敷で告白未遂に終わったとき──

 ゆうとの視線の行き先が、もう自分じゃないことは。


 けれど。


 それでも心が揺れてしまうのが、人間の弱さであり、恋だった。


 空を見上げると、夕焼けの光がにじむ。

 その光が、涙にも見えるし、未来の始まりにも見えた。


「あや、良かったね……」


 言葉は自然とこぼれた。

 羨ましさも、寂しさも、確かに胸の奥にあった。

 でも同時に、それ以上に──あの二人が結ばれることを願っていた自分もいた。


 歩き出しながら、ほのかは小さく笑う。


「……私も、ちゃんと前に進まないとね」


 ゆうととの思い出が、夕焼けの中で淡くほどけていく。


 手を伸ばせば届きそうだった距離。

 でも届くことのない距離。

 それでも、その距離を大切だと思えた自分を、少しだけ誇りたい。


 風が頬を撫でる。


 ほのかはもう一度だけ空を見上げ、静かに呟いた。


「……二人とも、幸せになってね」


 その微笑みは、涙よりもずっと強く、やさしかった。


 こうして三角関係は静かに幕を閉じ──

 ゆうととあやの“本編の恋”が、ようやく動き出す。

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