第21話 : ほのかの涙の告白
放課後の校庭は、昼間の喧騒が嘘のように静かだった。
部活動の声がグラウンドの方からかすかに届くが、ここ──校庭の端は風の音が勝っている。
ゆうとは鞄を肩にかけ、昇降口へ向かおうとしていた。
そこで、背中にふわりと名前を呼ばれた。
「……ゆう。少し、いい?」
その声だけで、胸がひやりと揺れた。
振り返ると、ほのかがいた。
夕日が彼女の髪の先をすこしだけ透かして、金色の縁をつくっていた。
いつもよりずっと静かな表情。笑っていない。怒ってもいない。ただ、なにかを決めてきた人の目をしていた。
「どうしたんだよ、こんなところで」
ゆうとがそう言うと、ほのかは首を振った。
深呼吸を、一つ、二つ。
そのたびに肩がわずかに震えているのが見えた。
「ここじゃないと……言えないの」
その言葉の意味が、一瞬で心の奥に冷たく沈む。
胸がざわつく。
でも、逃げてはいけない気がして、ゆうとは足を止めた。
風が通り、二人の間をひゅう、と抜けていく。
ほのかが口を開くまでの数秒が、やけに長く感じられた。
「ユウ」
名前を呼ぶ声が、かすかに震えた。
それだけで、もう何を言われるのか分かってしまった。
けれどほのかは、言葉を選ぶように視線を落とし、
そして、小さく笑った。
「……好きだったよ」
“だったよ”。
過去形のその一言が、校庭の静けさに吸い込まれる。
一瞬、時間が止まったようだった。
ほのかの声は澄んでいて、思ったほど震えてはいなかった。
だけど──目だけが、どうしようもなく滲んでいた。
「返事はいらないよ。わかってるから」
ゆっくりと視線が上がり、ゆうとと目が合う。
その瞳は、泣かないように必死に耐えている子どものようで、
でも、それ以上に、どこか大人びていた。
「ゆうが、誰を好きなのか……ちゃんと見れば、分かるよ」
「ほのか……」
「わざわざ言わないよ。
名前を口にするなんて、あまりにも残酷でしょう?
ただ、約束を守りたかっただけ。
“ほんの少しだけ引く”っていう、あの約束を……
私、本当に少しだけ引いたよ。
……そうでしょ?」
言葉が出ない。
何を言えばいいのか分からない。
ほのかはふっと笑う。
強がっているわけではない。
“自分で決着をつけようとした笑顔”だった。
ゆうとの心臓が跳ねた。
否定することも肯定することもできなかった。
ゆうとの沈黙を、ほのかはゆっくり受け取った。
それで十分だと、悲しいほどに理解した顔だった。
「……大丈夫。ちゃんと前を向くから」
夕日が完全に沈みかけ、校庭は柔らかな薄暗さに包まれていく。
ほのかの影が長く伸び、ゆうとの影と触れそうで触れない。
「ゆうと話してる時間、楽しかったよ。
実験の話ばっかり聞かされてさ、わたしには難しいのに……いつもちゃんと聞いてくれて」
「それは……お前が楽しそうに話すからだよ」
「ううん。違うよ。あれはね、ゆうと一緒にいたかっただけ」
そう言ったときのほのかの笑顔は、まっすぐで、あまりにも優しかった。
ゆうとの胸がじん、と痛む。
ここまで優しく終わらせようとしてくれるほのかの強さが、胸に刺さった。
「ねえ、ゆう」
「……ん?」
「もしわたしがもっと強かったら……
もし、怖がらずに全部言えてたら……ほんの少しでも、変わってたのかな」
それは答えてはいけない問いだった。
どんな返事をしても、ほのかを傷つけてしまう。
だからゆうとは、沈黙でしか返せなかった。
ほのかは、すぐに気づいたようだった。
目を細め、寂しげに笑った。
「ううん。いいの。ユウのせいじゃないよ。
わたしが“気づくのが遅かった”だけなんだ」
そして、小さく息を吸い込む。
「最後に……ひとつだけ、わがまま言っていい?」
「……うん」
ほのかは近づいてきた。
距離が縮むにつれ、ゆうとの鼓動が速くなる。
彼女は手を伸ばし──
ゆうとの制服の袖を、そっとつまんだ。
強くも弱くもない、その指先。
離れたくない、でもしがみつきたくもない。
そんな中途半端な力が、余計に切なかった。
「ありがとう。好きになれて……ほんとに良かった」
その言葉を残して、ほのかは袖を離した。
指先が離れた瞬間、風が冷たくなる。
少しだけ俯いて、歩き出そうとした……そのときだった。
頬を伝う光がひとつ、夕日の残光を受けてきらりと輝いた。
涙だ。
でもほのかは、泣いていることに気づかれたくないように、
そのまま顔を逸らして歩き出す。
ゆうとは思わず手を伸ばし──
けれど、呼び止める言葉が喉で止まった。
「……ごめん」
「……もう、行ってよ……
待ってる人のところに……行ってあげて……
ゆうが……こんなふうにしてたら……
わたしの選んだことが……ほんとうに
……意味なくなっちゃうから……」
小さく名前を呼んでも、彼女は振り返らなかった。
風が吹き、ほのかの髪が揺れる。
細い背中は、強がっているようで、どこか折れそうだった。
その背中にかけるべき言葉が、どうしても見つからなかった。
だからゆうとは、立ち尽くすしかできなかった。
ほのかは──
泣きながら笑っているように見えた。
そして、校庭の出口を過ぎる頃には、
彼女の姿はすっかり夕闇へ溶けてしまっていた。
静かに、
本当に静かに、三角関係は幕を下ろした。
ゆうとは、まだ歩き出せずにいた。
胸の中に残った痛みと、どこか温かいものの混ざった感情が、ゆっくりと沈んでいった。
風の中でひとり、彼は小さく呟く。
「ありがとう、ほのか」
その声は、誰にも届かないほど小さかった。
けれどゆうと自身が、最も必要としていた言葉だった。




