第19話 : 距離ゼロじゃなくて、ただ隣に
六時間目が終わった教室は、部活に向かう生徒たちの声でざわついていた。
俺は鞄に教科書を詰め込みながら、伸びを一つする。
「ふー……疲れた。今日は準備室、行くべきか……どうすっか……」
昨日からあやの様子がおかしい。
いや、正確には──俺を見るたびに音速で逃げる。
(あの“距離ゼロ事件”のせいだよな……)
顔が近づきすぎて、心拍が跳ね上がった──いや、跳ね上げられた事件だ。
そんなことを考えていたそのとき。
「……安藤」
袖口が、そっと引かれた。
振り返ると、黒羽あやが教室の出口に立っていた。
白衣ではなく制服姿。
なのに、やたら距離が近い。
「お、おう。黒羽?」
あやは一瞬だけ俺の腕を掴んだまま動けなくなったようで、
すぐに目を泳がせた。
頬はほんのり赤い。
「……あの、その……」
「ん?」
「……来て」
声は蚊の鳴くような小ささだった。
なのに、俺の心臓には盛大に届く。
「……きょ、今日は……」
あやは必死に言葉を探し、しかし言った瞬間──
「実験じゃなくて……」
ばちん、と音が聞こえる気がするほど、顔が真っ赤になった。
「い、今のは……その……仮説じゃなくて……あの……違……」
完全にパニックである。
俺はというと──
(やっと、逃げないで話してくれた……)
胸が少しだけ熱くなっていた。
「……わかった。行くよ」
そう言うと、あやは一瞬だけ目を大きく開いた。
「……っ」
そして、恥ずかしさに耐えきれないように、コクリと小さく頷いた。
こうして、俺はあやに“連れて行かれる”形で廊下へ出た。
準備室に入った瞬間、違和感に気づいた。
実験器具は一つも出ていない。
いつも机に広げてある彼女の実験ノートも、棚にしまわれたまま。
あやは扉を閉めると、すとん、と椅子に座った。
(……いつもなら心拍計を取り出してる時間だよな?)
だが、今日は何もない。
何をするのかも言わない。
ただ、俯いて指先を落ち着きなく動かしている。
俺は恐る恐る口を開く。
「えっと……今日ってさ」
「ち、違うの……今日は……その……」
あやの声が消えていく。
もしかして、何か悩みでも──と思うが、彼女は首を横に振った。
少しだけ、迷いを含んだ動きで。
「じゃあ……話したかったわけじゃないのか?」
また、首を横に振る。
「じゃあ……実験でもない……よな?」
こくり。
「なら……なんで俺を呼んだ?」
そこだけ、答えられないようだった。
沈黙が落ちる。
準備室の時計の秒針さえ、やけに大きく聞こえる。
あやは両手を膝に置き、ぎゅっと握った。
視線は床。
呼吸は浅い。
耳まで真っ赤。
(もしかして……“逃げないで隣にいてほしい”ってやつ?)
昨日、彼女は怖がっていた。
近づくと逃げた。
でも今日は、わざわざ自分から呼んでくれた。
たぶん理由なんかなくて。
ただ“ひとりでいたくなかった”のだろう。
沈黙がつらそうだったので、俺はそっと椅子を引き、少しだけ距離を空けて座った。
近づきすぎない。
でも、遠すぎもしない位置。
あやの肩が、ぴくりと揺れた。
「……っ」
「ここで、いい?」
ゆっくり訊ねると、
あやは、かろうじて聞こえるくらいの声で答えた。
「……だ、だめじゃ……ない……」
つまり──“いい”ということだ。
その事実に、胸がほんの少し温かくなった。
あやは、膝の上の手をぎゅっと握ったまま動かない。
俺を見ることもできない。
でも、逃げもしない。
それだけで、十分だった。
どれくらい沈黙が続いただろう。
ふいにあやが、喉を震わせるように小さく息を吸った。
「……あの……」
「ん?」
あやは視線を伏せたまま、震える声で言った。
「……なるべく……その……」
「うん」
「……そばに……いて……ほしくて……」
その瞬間。
俺の胸が、どくん、と跳ねた。
「……あや」
「わ、わすれて!! 今のなし! 理論的根拠もないし! 実験じゃないし!
あの、仮説でも数値でも……っ、なんでもないから!!」
必死に否定しようとする声は、もう涙目になりそうなくらい震えていた。
そんな彼女を見て、俺は言う。
「うん。忘れないでおく」
「……っ!! 忘れてって言ってるのに……!」
「だって、嬉しかったから」
あやは机に顔を伏せ、耳まで真っ赤に染めた。
「……むり……もう帰る……」
「ここ、お前の研究室だろ」
「わたしが帰りたいの……!」
ぐしゃぐしゃになりながら言う姿が、どうしようもなく可愛い。
あやはそのあともしばらく机に突っ伏していた。
ときどき小さく「むり……」と呟きながら。
でも、逃げようとはしなかった。
俺が隣に座ったままでいることを、
あやは一度も拒まなかった。
むしろ──そっと制服の袖をつまんで離さなかった。
(……理由なんてなくていいか)
彼女が“そばにいてほしい”と言ってくれた。
その一歩だけで、十分だ。
放課後の準備室に落ちる静かな時間。
ふたりの空気だけが、昨日より柔らかい。
たぶんこれが──
あやと俺の、第一の進展だ。




