第17話 : あやの涙の理由(心が壊れそうで)
放課後の理科準備室は、
いつもと同じ蛍光灯の明るさなのに──少し寒く感じた。
あやは椅子に座ったまま、
何も置かれていない机の表面を静かに見つめていた。
ノートも、ペンも、
手を伸ばせば届くところにある。
──でも触れない。
ただそこにある“空白”と向き合っていた。
「……優しくされると……壊れる……」
吐き出す声は、指先と同じくらい震えていた。
昨日、ゆうとが手を添えてくれたあの一瞬。
胸が割れそうで、息が止まった。
優しいだけなのに。
ただ触れただけなのに。
「なんで……あんなので……」
あやは机の端に置かれたセンサーに指先を伸ばした。
触れた瞬間──
胸がきゅっと痛む。
「……っ」
記憶の断片が次々とよみがえる。
距離5cmの息づかい。
発火点3cmでの震え。
耳元の囁き。
名前を呼ばれたときの心臓の跳ね方。
そして──
ほのかとゆうとが並んで歩いていた、あの夕暮れ。
(どうして……こんな……苦しくなるの……)
気づけば、一粒の涙が頬を伝っていた。
ぽたり。
机に落ちた涙は、小さな濡れた丸を広げる。
「……私、研究者なのに……
“感情”なんかに……振り回されて……」
ノートに記録した数値は正しい。
心拍も、体温も、呼吸も、全部データで証明されている。
なのに、
それがどうしてこんな“痛み”につながるのかは、何一つ分からない。
(安藤の……優しさなんて……
本当は求めてないはずなのに……)
求めていないと思っても、心が逆を言う。
(触れたい……近づきたい……
でも近づいたら……泣いてしまう……)
矛盾が胸で暴れ続ける。
論理が通じない“恋”という名の反応。
そのとき──
「……黒羽さん?」
静かに扉が開いた。
あやは肩を跳ねさせ、慌てて涙を拭った。
「ひ、日向さん……?」
ポニーテールを揺らしたほのかが中へ一歩入る。
視線が室内をゆっくり巡り──
涙の跡と、握りしめられたセンサーに気づく。
「あ……ユウ、今日は来てないんだね」
何気ない言い方なのに、
あやの胸がきゅっと痛む。
「……来ません。
昨日、私……変な態度を……してしまったから……」
「変じゃなかったよ」
ほのかの声は優しくて、
でもその瞳の奥には揺れるものがあった。
あやは俯き、
膝の上で両手をぎゅっと握る。
「……私、自分が分からなくて……
データも……ぜんぜん役に立たなくて……
観測できないの……自分の……心の揺れ……」
声が、自分のものじゃないみたいに震えていた。
ほのかはあやを見つめ、
何か言おうとして──口を閉じた。
本当は聞きたかった。
“あやちゃん、ユウのこと好きなの?”と。
でもそれを聞くことは、
自分の心を切り裂くのと同じだった。
だからほのかは微笑んだ。
泣きそうなのに微笑もうとした。
「……あやちゃんも、つらいんだね
大丈夫。すぐ終わるから」
その優しさは、あやの胸に深く刺さる。
ほのかはそれ以上何も言わず、踵を返した。
扉が静かに閉まりかけたとき──
「……どうして……
好きになると……苦しいんですか……?」
かすれるようなあやの声が漏れた。
ほのかは振り返らない。
でも、小さく肩が震えた。
その答えを、
ほのか自身も持っていなかったから。
扉が閉まり、
再び静寂が落ちる。
あやは机の上に手を置き、
自分の鼓動がまだ早すぎることに怯える。
(……こんなの……知らなかった……
“恋”って……こわい……)
机には、科学では測れない涙の痕だけが残っていた。




