第16話 : 追いかけたいのに追えない二人
翌日の朝。
廊下の向こうで、白衣の端がひらりと曲がった。
「あ、黒羽──」
呼びかけた瞬間、あやは反射的に逃げた。
逃げた。
まるで火災報知器が鳴ったかのような速度で、スッ……と横にそれていく。
ゆうとは呆然と立ち尽くす。
(え、俺……なんかした?)
昨日の“距離ゼロ事件”──あやが心拍計の調整と称して、鼻先ギリギリの距離まで近づいてきたあの瞬間。
ゆうとは内心で死んだし、生き返ったし、また死んだ。
だがあやは……
まるで何かトラウマを植え付けられた人みたいに逃げ回っている。
3分後。
ゆうとが別の教室の前を歩いていると、また白衣が視界の端を通った。
「あ、黒羽さん! 昨日のさ──」
あやはピクッと肩を震わせると、
顔を逸らし、歩く速度を二倍速にした。
トトトトッ。
(なんで!? 本当に俺、なんかやった!?
いや、心拍計のケーブルを引っかけてこけそうになったのは謝ったし……
それとも近かったの、そんなにイヤだった? いや、でもあれは黒羽さんの──)
頭の中で高速反省会が始まり、終わらない。
その様子を、廊下の反対側から見つめる影があった。
ほのかだ。
腕を組み、ぽつりと息をこぼした。
「……あの二人、なんで逆方向に走っていくんだろ」
ほのかの胸が、微かにざわつく。
昨日、河川敷でゆうとと話したときの感情が、まだ胸の奥で疼いている。
ほのか自身もまだ、その揺れに名前をつけられずにいた。
昼休み。
ゆうとは購買パンを片手に、もう一度挑戦する覚悟を決めた。
(次は絶対に逃がさない。いや別に捕まえるわけじゃないけど……
誤解だけは解きたい。俺、避けられる理由ほんとに心当たりないし!)
理科準備室のドアをそっと開ける。
「黒羽さ──」
「っ!」
白衣がビクンッと跳ねた。
あやは机の前に立ったまま、ノートを胸に抱きしめて震える。
ゆうとを見るなり、
ゆっくり目をそらし……
ドアの反対側へスライドするように離れていく。
「ま、待って! 別に怒ってないから!」
「……怒ってないのは知ってる」
か細い声が返る。
だが、その声はどこか息が詰まりそうに震えていた。
「じゃ、じゃあなんで避けるんだ? 昨日のこと、嫌だったとか……?」
「っち、ちが……っ!」
あやの顔が一瞬で真っ赤になる。
けれど、言葉は続かない。
ゆうとが近づこうと一歩踏み出した瞬間──
あやはスッと横に避け、実験台の陰へ逃げ込んだ。
その動きはもはやアスリート。
(……これ、完全に拒絶されてるやつじゃん)
ゆうとは胸がヒュッと縮むのを感じた。
昨日の距離ゼロのあとで、こんな態度を取られたら誰だって誤解する。
(近づくと嫌なんだ……?)
一方その頃。
あやは準備室の隅で、ノートを抱いてしゃがみ込んでいた。
まるで文字通り、壁際に追い詰められた小動物のように。
(どうして……顔が……見られないの……)
ノートの表紙が、指の震えで微かに揺れる。
昨日、ゆうとが耳元で「これ、近すぎだろ……」と囁いた瞬間。
胸の奥が破裂し、視界が白くなった。
あれは……
研究で観測するはずの“揺れ”ではなかった。
(優しくされたら……壊れる……)
胸の奥が、ちりちりと痛む。
心拍計がなくても、自分の鼓動が暴れているのが分かった。
「好きだから……顔が見られない……」
誰にも聞こえないほど小さな声。
けれど、その一言は本心そのものだった。
(でも……“好き”って何?
そんな原因で、データが乱れるなんて……
そんな非科学的な……)
認めたくない。
でも、否定すればするほど胸が苦しくなる。
あやはノートを抱きしめ、膝を抱え込んだ。
(ゆうとに嫌われたら……どうしよう……)
自分でも驚くほど、怖かった。
放課後。
昇降口で靴を履き替えながら、ゆうとは再び深いため息をついた。
「黒羽さん、本当にどうしたんだよ……」
近づくたび逃げられ、声をかけても避けられ、
まるで自分が悪者になった気分だ。
「……怒らせた覚えないんだけどな」
「怒ってないよ、あやは」
「え?」
横から現れたほのかが、少し寂しそうに微笑む。
「あの子、怒るの下手だから。
避けるときは……たぶん、逆。追い詰められてるとき」
「追い詰められてる……?」
「うん。あの子……壊れそうになるんじゃないかな」
「俺が……? 壊す……?」
「違うよ。逆。」
ほのかはそう言うと、ゆうとの返答を待たず歩き出した。
ゆうとは立ち尽くす。
(黒羽さん……そんな顔してたか?
俺、なんにも分かってなかった……)
同じころ、校舎裏の静かな日陰。
あやはまだノートをぎゅっと抱きしめ、しゃがんでいた。
「……どうしたら……普通に、話せるの……」
風がノートの端をめくり、昨日の心拍グラフが露わになる。
最大値。
警告ランプ。
異常値。
でも、それよりも異常なのは──
ゆうとを思い出したときの胸のずきりとした痛み。
あやは小さく目を閉じた。
(ゆうとが……遠くに行っちゃったら……)
その想像だけで、喉が締まって苦しくなる。
なのに。
追いかけようとすると、また逃げる。
近づかれたら、もっと逃げる。
そんな矛盾だらけの自分が嫌でたまらなかった。
(どうすれば……いいの……?)
その自問だけが、夕暮れへ溶けていった。
そして二人はすれ違い続ける。
あやは「好きだからこそ逃げる」。
ゆうとは「避けられるから距離を取る」。
互いの本心が逆方向に動いて、距離は広がっていく。
追いかけたいのに追えない。
近づきたいのに近づけない。
十数メートル離れた廊下で、
あやとゆうとは同時に立ち止まった。
だけど──
同じ方向を向いているのに、
その間に横たわる距離は、今日も埋まらなかった。




