第15話 : 壁ドン距離テスト(あやの限界)
放課後の理科準備室。
蛍光灯の白さが、空気に薄い膜のような静けさを作っていた。
扉を開けた瞬間、
白衣を胸元で握りしめたあやがこちらを向く。
その瞳は──
“冷静さ”を必死に貼りつけているようで、どこか緊張の色が滲んでいた。
「……今日は、“逃避行動の測定”をするわ」
「逃避って……俺が逃げるのか?」
「違うわ。
“距離が縮まったとき、人は本能的にどう反応するか”を……
確認、するだけ……」
語尾が弱い。
袖をつまむ指も、小刻みに震えている。
(……完全に落ち着いてないじゃん)
「安藤。あそこに立って」
指されたのは部屋の隅。
壁と棚に囲まれた、逃げ道ゼロの位置。
「……なんか嫌な予感しかしないんだけど」
「べ、別に……危険じゃないから……」
あやはゆっくり歩み寄ってくる。
足音が床に吸い込まれるたび、妙に鼓動が大きく聞こえる。
近づくにつれ、あやの呼吸が乱れていくのがわかった。
白衣の胸元が浅く上下し、袖の先が震えている。
(ほんとに大丈夫か……?)
そして──
ガシャン。
あやが棚の端に片手をつき、
もう片方の手を俺の顔の横の壁に置いた。
完全な“壁ドン”体勢。
「く、黒羽っ!?」
「こ、これは……逃避反応の……測定……だから……!」
声が高くなっている。
言い訳にしか聞こえない。
あやの顔が、ゆっくり近づいてくる。
距離──20cm
15cm
10cm
鼻先が触れそうなほど近い。
あやの吐息が頬にかかり、
ほのかなシャンプーの匂いまでわかってしまう。
(ちょ、ちょっと待て……近すぎ……!)
あやは荒く息を吸い込み、
震える目で俺をまともに見られないまま呟く。
「……だ、大丈夫……
ただの……計測、だから……っ」
肩が震え、胸が苦しそうに上下する。
メガネの奥の瞳が揺れ、焦点がずっと合わない。
(これもう、観測者の方が逃げ出しそうだろ……)
そのとき、
あやがかすれた声で言った。
「……安藤……逃げないで……」
「に、逃げないって!!」
「ほ、ほんと……?
こ、怖く……ない……?」
「怖いのは、むしろ今のお前の顔だよ!!」
あやがびくっと固まる。
そして──
「……っ、む、無理……!」
バンッと手を離して後ろへ飛び退いた。
壁ドン解除。
空気が一気に緩む。
あやは胸元を押さえ、顔を伏せる。
頬は真っ赤、呼吸は乱れたまま。
「……ごめん……」
「いや……なんで謝るの……?」
「私……もっと……冷静に観測できると思ってた……のに……」
唇を震わせながら俯くあや。
その肩の震えは、失敗というより“自分が怖い”ときの震えだった。
「近づくと……
胸が……苦しくなって……
呼吸が……勝手に乱れて……
頭が……うまく働かなくなる……」
白衣の胸元を押さえる手が、ぎゅっと縮む。
「逃げたのは……安藤じゃなくて……
……私のほうだった……」
(黒羽……)
あやは机に向かい、震える手でノートを開く。
ペン先が紙をかすれさせながら文字を書く。
『壁ドン距離10cm → 観測者B 心拍急上昇』
『被験者Aの逃避反応:軽度』
『観測者Bの逃避行動:顕著』
『原因:未定義(被験者Aの至近距離刺激?)』
『自分の反応 → 理解不能』
書き終えると、あやはペンを落とすように置いて、目を閉じた。
肩で息をしながら、小さく、小さくつぶやく。
「……安藤を見ると……揺れるなんて……
そんな……データじゃ……説明できない……」
胸元を押さえる指が、微かに震えている。
「……やだ……
こんなの……」
その声は、
科学でも観測でも理論でもなく──
初めて“恋”に追い詰められた女の子の声だった。
あやの“限界”は、もうすぐそこだった。




