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第14話:あやの自己嫌悪と混乱

 心拍計は無音。

 モニターは真っ暗。

 蛍光灯さえ落として、理科準備室は静まり返っている。


 ……のに。


 黒羽あやの胸の奥だけ、まだ休む気配がなかった。


 白衣の裾を握る手が微かに震えたまま、

 あやはそこに立ち尽くし、細く息を吐き出す。


「……信じられない」


 自分の声が、ここまで弱々しかっただろうか。


 ほんの数十分前。

 安藤ゆうとの声が耳元に落ちた瞬間──

 膝から力が抜けて、机にしがみつくことしかできなかった。


 あれは被験者Aの反応ではない。

 完全に、観測者B──自分自身の崩壊だった。


「私は……もっと冷静でいられるはず……」


 そう言っただけで、胸がぎゅっと締め付けられる。


 距離5cm。

 視線テスト。

 唇事件。

 そして今日の“名前囁き”。


 全部、揺れた。

 全部、データが乱れた。

 全部、原因は──自分。


(どうして……安藤のときだけ……?)


 そう考えた瞬間、


 ドクン。


「っ……」


 あやは思わず胸を押さえ、身体を折り曲げた。


 “安藤”とただ名前を思い浮かべただけで、この有様。


 理解できない。

 理解したくもない。


 それでも、身体だけが勝手に反応する。


(……黒羽)


 耳の奥で、さっきの囁きが蘇る。


『……黒羽』


「や、やめ……!」


 あやは両耳を押さえる。

 でも記憶には、何の遮音機能もない。


 名前を呼ばれた一瞬──

 脳は処理を投げ出し、身体だけが“女の子の反応”をした。


 呼吸が早まる。

 喉がひりつく。

 頬がじんわり熱を帯びる。


「あの距離……あの声……なんなのよ……」


 ふらつく足取りで椅子に座り、ノートを開いた。


『名前囁き → 観測者B 心拍182/膝脱力/呼吸乱れ』


「……研究になってない……」


 ページをめくる。


 距離30cm:心拍上昇

 距離20cm:さらに上昇

 視線テスト:過反応

 距離5cm:最大値

 名前囁き:制御不能


 そして、すべての欄に並ぶたった一つの名前。


『被験者A:安藤ゆうと』


「なんで……なんでよ……」


 震える手で、“原因”の欄を埋めていく。


『原因:聴覚刺激への反射?』

 → 違う。


『原因:至近距離による緊張?』

 → 違う。他の男子では同反応なし。


『原因:観測者Bの個人的偏り?』

 → ……違う。違うと思いたい。


 書いては否定し、否定しては胸が疼く。


(安藤だから……?)


 その仮説が浮かんだ瞬間。


 ドクン。

 ドクン。


「っ……!」


 胸を押さえる手に、力が入る。


 名前を“意識して考えた”だけで、この反応。


 あやは、ページをさらにめくる。

 そして、視線がある文字で止まった。


『好意反応?』


「……!」


 書いた覚えはない。

 だが、字はどう見ても自分の癖だ。


 ノートの端に、いつの間にか走り書かれていた。


「こ、これ……! 違う……!」


 ペンを握り、線を引こうとする。


 一度目──手が震えて曲がる。

 二度目──もっと震える。

 三度目──結局、線は引けなかった。


 否定の線すら、引けない。


「ちが……う……っ……!」


 胸を押さえ、呼吸が乱れる。


 思い出すのは、耳元で落ちた声。


『……黒羽』


 その一言だけで、全身が熱に支配される。


「……安藤……」


 名前を口にした瞬間──


 ドクンッ!


 反射的に机に突っ伏した。


 白衣の肩が小さく震える。

 息は浅く、視界がじんわりにじんでいく。


(どうして……安藤だけ……?

 どうして、安藤の声で……?

 どうして、安藤を見ると……?)


 科学では分類できない。

 理性では押さえ込めない。

 どのデータ項目にも当てはまらない。


 ただ一つだけ、胸の奥でゆっくりと形を取り始めているものがあった。


「こ……恋……?」


 その言葉を自分の耳で聞いた瞬間──

 あやの顔が一気に熱を帯びる。


「ち、違う……! 違う……違うったら……!」


 否定の声が震えている。

 だが心拍だけは、否定してくれない。


 本当に違うの?

 本当に、違うと言い切れる?


 鼓動が問いかけてくる。


 あやは白衣の袖で顔を覆い、小さく丸くなった。


「……安藤のせいだ……」


 それはもう、完全な否定ではなかった。

 限りなく“認めかけた答え”に近い言葉だった。


 黒羽あやの中で芽生えた“未知の感情”は、

 もう科学だけでは止められないところまで来ていた。

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