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第12話 : あや、心の決壊

 放課後の理科準備室。

 夕日が窓枠を橙色に染め、静かな光が薄く漂っていた。


(……黒羽。今日こそ、話したい)


 昨日は逃げられ、今日の朝は目すら合わせてもらえなかった。

 胸の奥に積み上がった焦りは、もう隠しきれない。


「……入るぞ」


 ドアをそっと押し開ける。


「──あ」


 あやが計測器の前に立っていた。

 ノートとメジャーを持っているが、肩が小さく震えている。


「黒羽、昨日の──」


「ごめん……」


 あやがゆうとの言葉を遮る。

 背中を向けたまま、震えた声で続けた。


「昨日……泣いて……逃げて……

 ごめん……」


 その謝罪が、逆に胸を刺した。


「俺のほうこそ、何もできなくて──」


「ちがう。

 ……私の問題……私が弱いだけ……」


 あやは一度深く息を吸い、ようやく顔を上げる。

 それでも目は合わせられない。


「今日は……実験、ちゃんとやる」


 震えながらも、

 “逃げたくない” と訴えるような声だった。


(……無理してる。なのに、自分から向き合おうとしてる)


「ほんとにやるなら、無理しなくても──」


「……逃げたくないの」


 たったそれだけで、もう何も言えなかった。


 距離10cm──すでに限界の始まり


 あやは震える指でメジャーを持つ。

 目を逸らしたまま、ゆうとへ一歩近づいた。


「距離……10cm」


 距離──10cm。


 その瞬間、あやの肩がびくっと跳ねる。


「っ……は……っ」


 胸元の上下が早い。

 呼吸が乱れ、メジャーを持つ手が揺れた。


「黒羽、お前……ほんとに大丈夫か?」


「だいじょうぶ……こんなの……前は……できてた……から……」


 声が、泣く寸前みたいに震えている。


 あやはさらに一歩──。


 距離5cm──息が触れる距離


「……距離……5cm」


 距離が縮まった瞬間。


 ゆうとの吐息が、あやの前髪をかすかに揺らした。


「っ……あ……っ」


 あやの指が完全に力を失い、


 ──カタン。


 メジャーが床に落ちた。


「黒羽……!」


「だめ……っ……!」


 あやは胸を押さえながら後ずさる。

 目の縁に涙がにじみ、呼吸は追いつかない。


「昨日……泣いたの……

 まだ治ってないの……

 安藤の顔……近いと……

 胸が痛くなる……っ……」


「痛いって……どういう──」


「分かんない……!

 分かんないのに……止まらないの……!」


 あやの声は涙に濡れ、震え、切り裂かれたみたいだ。


 崩れ落ちる観測者


 あやは耐えられず、膝から落ちるように座り込んだ。


「安藤が……少し優しくしただけで……

 触れただけで……

 昨日みたいに……壊れそうになるの……!」


(……黒羽)


 ゆうとは一歩踏み出しかける。

 だが──近づけば壊れる。

 離れれば泣かせる。


 最悪の袋小路。


 あやは両手で顔を覆い、嗚咽を漏らした。


「距離テスト……今日は……無理……

 本当はちゃんとしたいのに……

 安藤が近いと……できない……」


 その“あなた”が、あまりにも切なかった。


 言おうとした瞬間──拒絶


「黒羽……俺は──」


「言わないでっ!」


 あやが叫ぶ。

 泣き声に近い、心がむき出しになった声。


「優しくしないで……

 また泣いちゃう……

 また……あなたのこと……考えちゃう……!」


 震える肩。

 崩れた呼吸。

 止まらない涙。


「逃げたくない……けど……

 もう……どうしていいか……わからない……」


 ゆうとは、一歩も動けない。


 近づくことも、

 離れることも、どちらも傷つける。


 二人の呼吸だけが、重く、苦しく響いた。


 “距離の地獄”に踏み込んだ瞬間


 今日、二人は初めて知った。


 距離を置く痛みも、距離を縮める痛みも、

 同じくらい残酷だということを。


 逃げられない。

 でも近づけば壊れる。


 そんな矛盾を抱えた距離の中へ、

 二人の関係はついに足を踏み入れてしまった。


 崩れた距離テストの余熱が、まだ部屋に残っていた。

 夕日の残光は薄くなり、準備室には冷えた影が落ちている。


 あやは、逃げ込むように机の奥へと身を隠した。

 机の下──光も届かない、小さな影の中。


 膝を抱え、白衣の袖を握りしめ、

 かすかに震える肩を必死に抑え込んでいた。


「……わたし……どうして……」


 答えのない感情の渦に巻かれ、

 自分の呼吸すらうまく掴めない。


 そこへ、足音が近づく。


「黒羽……」


 名前を呼ぶ声は、優しい。

 その優しさこそが、一番あやを壊した。


「……来ないで……」


 拒絶なのに、頼るように震える声。

 逃げたいのに、逃げ切れない心。


 ゆうとはあやを追い詰めないよう、ゆっくり腰を下ろした。

 触れない距離。

 でも、寂しさを埋めるための距離。


「黒羽、逃げなくていい。

 昨日も今日も……ずっと苦しそうだったから」


 その一言だけで、胸がまた痛む。


 ぽたり、と涙が落ちる。


「……安藤のせいじゃない……

 私が……勝手に……おかしくなってて……」


「じゃあ、なんで泣くんだよ」


「わかんない……

 自分でも……わかんないの……」


 あやは両手で顔を隠した。

 指先が震え、涙がこぼれ続ける。


 机の下に転がったセンサーを拾おうと、

 ゆうとが手を伸ばした瞬間──


「……っ、触らないで……っ」


 あやが反射で拒絶した。

 だけどその声は、泣きつく寸前の弱々しさだった。


「俺、触ってないけど……」


「優しく……しないで……

 優しくされたら……また泣く……っ」


 呼吸が乱れていく。

 けれど──その震えた指先は、ほんの少し、

 助けを求めるように動いた。


 ゆうとは気づき、

 伸ばした手を引っ込めようとした。


 その瞬間。


「……っ!」


 あやが、その手を掴んだ。


 ぎゅ、と。

 まるで溺れる人が救命具を掴むように必死な力。


「……だめ……離さないで……」


「え……?」


 ゆうとは驚いて動けなかった。


 あやの手は小さくて、冷たくて、

 だけど掴む力は痛いほど強かった。


「違うの……

 触らないでって……言ったのに……

 ほんとは……逆なの……」


 涙をこぼしながら、あやはようやく本音を漏らした。


「離されたら……もっと苦しくなる……

 でも……近いと……胸が……痛い……

 意味……わかんない……」


 涙が次々落ちて、手の甲を濡らしていく。


 ゆうとはそっと、掴まれた手を握り返した。


 あやは息を呑み、身体を震わせた。

 でも──手は離さなかった。


「黒羽……震えてるぞ」


「震えるよ……

 安藤の手……あったかいから……

 触れただけで……全部、おかしくなる……」


 その震え方は、恐怖じゃない。

 むしろ恋を知った心の震えだった。


 あやはゆっくり顔を上げる。


 距離は……数センチ。

 目が合った瞬間、ふたりの時間が止まる。


「こ……こんな距離……無理なのに……

 それでも……離れたくないの……

 安藤が……いなくなるの……怖い……」


 必死の言葉。

 泣きながらの告白。

 ようやく出てきたあやの「弱さ」。


(黒羽……こんなに苦しんでたんだ……)


 ゆうとの胸が強く締めつけられる。


「黒羽、逃げなくていい。

 俺は、どこにも行かない」


 あやの表情が、初めて緩んだ。


「ほんとに……?

 ほんとに……離れない……?」


「離れないよ。今はずっとここにいる」


 あやの目に、ぽとりと新しい涙が落ちた。

 だけどその涙は、さっきまでの“怖い涙”ではなかった。


「……もう少し……このままで……」


 かすれた願い。

 震えた小さな手が、ゆうとの手にしがみつく。


 机の下の狭い影の中で、

 二人の手は静かに寄り添っていた。


 距離0には、まだ届かない。

 だけど、もう逃げ道はどこにもなかった。


 ──二人の“恋の発火点”は、

 もう完全に燃え始めていた。

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