第11話 : 発火点(限界距離)テスト
放課後の理科準備室。
蛍光灯の光が少しだけ揺れて見えるのは、たぶん気のせいじゃない。
(……今日の黒羽、何か気配が違う)
白衣の裾を握りしめたあやは、いつもより歩幅が小さく、呼吸も浅かった。
昨日、ほのかと話していた俺を偶然見たせいだろうか──そんな考えが胸をよぎる。
「安藤。座って」
あやはノートとメジャーを机に置き、正面に立った。
無表情を装っているが、耳だけが真っ赤だ。
「きょ、今日は……“発火点テスト”をする」
「はい出た、聞き慣れないワード」
「黙って聞いて。……安藤の“限界距離”を測定するの」
「俺の!?」
「観測者Bにも……必要なの」
最後の部分だけ、あやは小声になった。
(=自分の心の整理のため。って意味だろ絶対……)
「じゃあ……距離を段階的に詰める。反応を記録するから」
あやは深呼吸して──
一歩、俺の方へ踏み出した。
距離10cm
ふわり、と黒髪が揺れる。
あやの影が俺の胸元をかすめ、白衣の清潔な匂いが近づいてきた。
「……っ、ど、どう?」
あやがなぜか自分の胸を押さえて尋ねてくる。
「いや、お前のほうが赤いだろ!!」
「う、うるさい……これは環境温度……!」
(環境温度のせいで耳まで赤くなるかよ)
あやの手が震えているのがわかった。
●距離5cm
あやはメジャーを握り直し、もう一歩踏み込んだ。
頬と頬が触れそう。
息が混ざる距離。
「……っ……」
言葉が続かない。
あやの睫毛が震え、唇がわずかに開く。
喉の奥で、かすかな息の音が漏れる。
胸元に置いた彼女の手が、ふるりと動いた。
「黒羽……?」
「……ふ……不具合……」
「不具合って自分の心拍だろ!!」
「し、しずかに……! 観測に支障が……っ」
もうビックビクじゃねぇか。
●距離3cm(最終段階)
「……最終距離、いくわ」
「マジかよ!?」
あやは震える足で、一歩。
本当に小さな一歩を前に出した。
──ふわっ
髪が俺の頬に触れた。
鼻先が、触れそう。
あやの瞳が目の前で大きく揺れ、こちらを見つめる。
呼吸ができていない。
そして──
二人の心臓が同時に跳ねた。
ドクン。
ドクンッ。
あやの膝が、ふるっ……と沈む。
「っ……あ……安藤……
む、無理……これ……発火点……超えて……」
「黒羽!? おい、大丈夫か!?」
あやは限界を超えたように後退し、
机の端に差し掛かると、耐えきれず椅子に座り込んだ。
白衣の胸元を両手で押さえ、必死で呼吸を整える。
「……っ、は……っ……は……っ」
「マジで……苦しそうなんだけど……!」
「苦しいの……っ
安藤が……近っ……すぎて……っ」
顔は火がついたみたいに真っ赤で、
目は涙がにじむほど揺れていた。
「……安藤の顔……
近いの……ずるい……」
「ず……ずるい!?」
「だって……見たいのに……近づけない……
でも……離れたくない……っ」
矛盾した言葉。
でも本音だとすぐにわかった。
胸がじんわり熱くなる。
●あやのノート
あやは震える指でノートを開き、書き始める。
『発火点(限界距離):3cm』
『観測者B → 心拍急上昇/膝脱力/後退』
『被験者A → 強い反応(詳細要確認)』
『接近による相互揺れ……?』
『限界値:安藤“だけ”』
書いた瞬間──あやの手が止まった。
「“だけ”……?」
その一言が、彼女の胸をいちばん強く揺らした。
あやはノートを閉じ、
小さく首を振る。
「ち、違う……これは……
データの……誤差……」
「誤差じゃねぇだろ」
「黙って!!」
あやの目が潤む。
でも俺から視線を逸らせない。
(黒羽……これ、嫉妬の続きだろ)
科学で測れない“感情”が、
準備室の空気を静かに埋め尽くしていた。
発火点テストから数分後。
理科準備室には、微かな電子音の余韻と、あやの浅い呼吸だけが残っていた。
あやはイスに座り込み、白衣の胸元をぎゅっと押さえていた。
肩は小刻みに震え、睫毛にはまだ揺れが残っている。
「おい黒羽……ほんとに大丈夫か?」
俺が一歩にじり寄ると──
あやの肩がビクッと跳ねた。
そして顔を伏せたまま、蚊の鳴くような声で。
「……だいじょうぶじゃ……ない……」
弱い。
あの黒羽あやが、信じられないほど弱い。
「なら保健室行こう。お前の荷物、俺が──」
「……やめて」
その一言が、俺の手を止めた。
あやは唇を震わせながら続ける。
「そういうの……やめて……
優しくされると……胸が……もっと苦しくなる……」
「黒羽……?」
「距離が近いだけで限界なのに……
そんなふうに心配されたら……
私……壊れる……」
声は震え、涙がすぐそこに滲んでいる。
(そんな……つらかったのか)
俺はそっと距離を取ろうと、一歩退いた。
「っ──」
その瞬間、あやの指がすっと伸びかけた。
掴む前に躊躇し、胸元へ戻る。
「……離れないで……
でも……優しくもしないで……
……意味……わかんない……」
(黒羽……ほんと限界なんだな)
会話だけで泣きそうなほど揺れている。
「黒羽、深呼吸して──」
「や……っ!
安藤に言われたら……落ち着けない……!」
涙声。
まるで過呼吸寸前みたいに胸が揺れている。
そのとき──
「……ユウ?」
明るい声が、廊下から聞こえた。
振り返ると、日向ほのかが立っていた。
あやと俺の距離、
あやの赤い目元、
俺の前のめりの体勢。
そのすべてを一瞬で読み取った顔だった。
「……なに、してるの?」
笑っている。
でも声も視線も、ひどく不安定だ。
「いや、これは──黒羽が──」
「ううん。いいんだよ?」
ほのかは優しい声で遮った。
しかし、その優しさが刺さる。
「ユウ……黒羽さんのこと、大切そうにしてたね」
あやの肩がピクリと揺れた。
言葉の刃が胸に触れたように。
「違うんだ、ほのか、これは実験で──」
「ユウが誰と仲良くしてても、いいよ?
……わたし、気にしないから」
気にしない声じゃない。
優しすぎる声ほど、痛みが濃く聞こえる。
あやは硬直し、顔を上げられない。
俺も、言葉を失った。
「じゃあユウ……またね」
ほのかは薄い笑顔を貼りつけたまま背を向けた。
歩き方が、泣き出す寸前みたいに弱くなっている。
扉が閉まる音が、やけに重かった。
あやは俯いたまま、小さく呟く。
「……ごめ……なさい……」
誰に向けた言葉か、本人もわかってないだろう。
ただ、胸の奥が痛むのだけは確かだ。
「今日は……もう帰って……
お願い……」
俺は静かに頷いた。
これ以上刺激を与えるのは危険だと、直感で悟った。
扉を閉め、足音が遠ざかる。
ゆうとがいなくなった後
静寂が落ちた瞬間──
あやの膝が、再び震えた。
「……なんで……
優しいだけで……痛いの……?」
胸を押さえる指は細かく震え、
呼吸も不安定のまま。
(安藤が離れると……こんなに……苦しい……
でも……そばにいると……もっと苦しい……)
矛盾が胸の奥で暴れ、
涙が一粒、膝の上に落ちた。
あやはノートを開き、震える手で今日の結果を記す。
『優しさ刺激 → 心拍増大(観測者Bのみ)』
『原因:被験者A』
『感情の揺れにより研究続行困難』
そして──
ペンが止まり、迷ったあと、そっと書かれた。
『……研究より、安藤のほうが……気になる……?』
その一行を書いたとたん、
胸がぎゅっと収縮した。
「……これ……研究じゃ測れない……
……こんなの……知らない……」
あやは胸元を握りしめ、目を閉じた。
涙が、静かに落ちた。




