悪魔で貴族令嬢だった2人と友人の座
星の見えぬ夜、ベレトは黒いレースのカーテン越しに空を見上げていた。
庶民が名を知ることすら許されない、この国の名門貴族の令嬢。
その身にはしなやかな力が宿っている__大きな猫へと変身する力だ。
けれど、その双眸に映るのは爪でも牙でもない。
__クシエル。神に選ばれし天使。穢れを許す者。
ベレトの心はいつも、地上でも地獄でもなく、遥か上空の神話の中にあった。
「また天使のことを考えてるの?」
低く艶やかな声がして、隣に座る影がひとつ。
彼女よりも頭二つ分は高い女__ヴィアンド。
長い髪、緋色のドレス、艶やかな肌。命を貪る家系に生まれた淫魔の娘。
悪魔の国でさえ、淫魔の血は蔑まれる。
「あなたは変わらないわね、ベレト。天使なんて、私たちの敵でしょう?」
「でも……クシエルだけは違う。どんな罪でも受け入れてくれるんだって。本当なら、私たちのことも……きっと」
「理想を信じるのは罪じゃない。でも、それで生きていけるほど、この世界は甘くないわよ」
ヴィアンドは笑った。
その笑みに、僅かな痛みが混ざっていることを、ベレトは知っていた。
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それは貴族たちの仮面舞踏会の日。
「血統」や「家系」や「力」という名の毒が、香水のように充満する夜。
ベレトは空を見ていた。
ヴィアンドは肉のようなドレスを纏い、壁の花のように沈黙していた。
「淫魔の娘が何しに来た?」
その声に、宴が凍りついた。誰かが手からグラスを落とす音がした。
その声の主__伯父の姪であるベレトは、そっとヴィアンドの手を握った。
「やめて、ヴィアンド。牙を剥かないで。この天井の上には空があるわ」
ヴィアンドは答えなかった。
ただ、静かにドレスの裾を翻し、その場を去った。
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舞踏会の翌朝、ベレトは家を出た。
あの家にいる限り、ヴィアンドはまた伯父と顔を合わせることになる。
それを避けたかったのは、ヴィアンドのためでもあり、自分自身のためでもあった。
私の夢も、友達も、信仰も__
すべて否定する親たちに囲まれて、ただ貴族の娘として生きることに、もう飽きていたのだ。
暫く放浪したのち、ベレトはヴィアンドが“下界”へと逃げたことを知った。
人間どもの暮らす、穢れた異郷。
追いかけるなら__そのためにはこの国にひとつだけ存在する、下界へ通じる《時空の歪み》を越えなければならない。
どこに繋がるかもわからない。戻れる保証もない。
それでも、ベレトは意を決して一歩を踏み出した。
その瞬間、足元に魔法陣が展開される。
そして__視界が暗転した。
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目が覚めると、そこには一人の少年がいた。
黒と茶の混ざる髪の毛、歳不相応な目付き。
……これは悪魔召喚。
この儀式は不完全で、召喚される悪魔も、効力も安定しない。
だが今こうして呼び出された以上、召喚主の願いを聞く義務がある。
「……私と契約したいわけ? 願いは何」
ベレトは内心、鼓動が早まるのを感じた。
この儀式に呼ばれるのは復讐に狂った者ばかり。力を求める人間の顔など、もう見たくもない。
しかし、従わなければ行けない。それが悪魔召喚なのだ。
「……僕と、友達になれ」
その言葉に、ベレトは思わず目を見開いた。
力でも富でもない。復讐でもない。
少年はただ、彼女に"友達になってほしい"と願った。
__その席は、ヴィアンドだけに許された場所だ。
あの冷たく、痛々しい笑みを浮かべていたヴィアンド。
ただ一人の友として寄り添ってくれた彼女。
その特等席を、今、この少年が欲している。
「……ふふ」
ベレトは静かに笑った。
これは契約じゃない。救いでもない。ただの人助けだ。
天使になるための“善行”として数えるつもりもない。これは__ただの気まぐれ。
けれど__私は、彼と百年、二百年と友として過ごすことになる。
ヴィアンドを追いかけていた私の記憶は、次第に薄れていく。
それでもいつかまた。
どこかの夜の片隅で、肉の匂いを纏ったあの紅い影と再会する気がしていた。
__________
__千年が経った。
世界は何度も姿を変え、人の王が代わり、国が滅びては新たに生まれた。
だが、その変化にさえ興味を示さない存在がひとり。
かつて、べレトと呼ばれた悪魔は、今は《クラリ》という名で呼ばれていた。
その傍らには、一人の少年。
……少年の姿をした存在。
かつてクラリを召喚し、ただ「友達になれ」と願った彼__黒百合湊は、この千年の間ずっと少年のままだった。
契約ではない。彼は"不老不死"だった。理由も経緯も語らない。
ただ「生きる理由が欲しかった」と、少年のまま笑った。
金もない。地位もない。あるのは果てしない時間だけ。
だから湊は、クラリにこう提案したのだ。
『サーカスを作ろう。』
『どうせこの世界に馴染めないのなら、俺みたいに居場所のない者ばかり集めた見世物小屋で生き延びよう。』
クラリは迷い、そして頷いた。
こうして生まれたのが、《リーベナルサーカス団》。
異端者たちが集まり、都市から都市へと流れるように渡っていく。
クラリは舞台で踊り、大きな猫に変身し、観客の"悲しみ"を食べながら、少年とともに永遠にも等しい時間を生きた。
ヴィアンドと再開する夢は、もはや遠い昔のものだった。
___________
千年後のある夜。
リーベナルサーカス団がとある都市に滞在していたそのときだった。
"それ"は突然やってきた。
__血の匂い。
甘い腐臭。肉が焼けるような、馴染み深いそれ。
「……まさか」
クラリがテントの奥へと進むと、そこには懐かしくも嫌悪に似た影が立っていた。
「久しぶりね、ベレト。いや、今はクラリと呼ぶのかしら?」
緋色のドレス。
白い肌はますます透明感を増し、赤髪は宝玉のように結われていた。
千年前と寸分違わぬ美しさ__いや、あれは美しさではない。
腐る寸前の甘美だ。
ヴィアンド。
「……どうしてここに」
「肉の匂いがしたから。懐かしい匂いだったわ。人間の肉も悪くないけど__あなたの絶望は、格別に美味しい」
その瞳に、かつての痛みはなかった。
ただ__乾いた飢えと、薄ら笑いだけがあった。
クラリの後ろから、湊が顔を覗かせる。
「……誰だ?」
「古い友人よ」
「友人? まさか」
ヴィアンドが薄く笑う。
「違うわ。私は"裏切られた側"よ」
その言葉に、クラリの胸がざわついた。
「裏切った? 私が?」
「ええ。あなたは私を"置いていった"。天使になるとか、救うだとか__結局はこの子供と楽しくやってたんでしょう?」
クラリは言葉を失った。
「私がどんなに腐っても、あなたの隣にいたのに。なのに、あなたは"善行"とやらのために私を忘れた。
ねえ、私よりも楽しかった?」
嗤うヴィアンド。
その声はもう、あの夜に手を握ったヴィアンドではなかった。
「私は今、人間を食べて生きてる。絶望する直前の顔が最高よ。滑稽すぎて、もう食欲すら湧かないくらい」
湊が言葉を挟む。
「お前、何なんだ……」
「友達よ。かつてのね」
ヴィアンドは背を向けた。
「千年も待って、これだもの。もう十分よ。また会いましょう、べレト。その時は__」
緋色のドレスが翻る。
「……その餌、私が全部食べてあげる」
そう言い残して、ヴィアンドは夜の帳に溶けて消えた。
テントに残ったのは、湊と、クラリと――甘い腐臭だけだった。
「……悪い、クラリ。俺が……」
「違う」
クラリは首を振った。
「これは……私が千年前に決着をつけるべきだったこと」
闇の奥に消えた紅の幻影。
次に会う時__それは、決して再会の笑顔ではない。
けれど、クラリの中で決意だけは確かに燃えていた。
次こそは、逃げない。
次こそは__