7 初めてのまかない
わたしは早苗さんのあとについて厨房に入った。
誰もいない。換気扇だけがからからと回っている。
「こっちです」
そう言って、早苗さんは勝手口とは逆の、左奥の方に進む。
ドアのない入り口があり中をのぞくと、長テーブルが二つほど置かれている部屋があった。席にはまばらに女給さんと料理人さんが座っている。どうやらここが休憩室のようだ。うちの孤児院の食堂みたいだと感じた。部屋の一番奥を見ると、壁を背にして美木料理長が立っている。
「あ、ヨーコちゃん! おーい!」
声のした方を見ると、大和さんが右奥の席でひらひらと手を振っていた。すかさず隣に座っていた昭さんがたしなめる。わたしは急に恥ずかしくなって、極力目を合わせないようにした。
「料理長、連れてきました」
「ありがとうございます早苗さん。葉子さん、こちらへ」
「は、はい」
早苗さんを見ると、行くように目で促された。わたしはおずおずと美木料理長の方へ向かう。
「葉子さん。まずはお疲れさまでした。みなさんに新しい人が来たと、あらためて紹介したいのですがよろしいですか?」
「あ、はい」
思わずうなづく。
わたしが採用されたのは今日の今日で急なことだったし、さっきは開店前で忙しかったから、とてもそんな余裕はないとわかっていた。でも、こうしてあらためて、紹介する時間を作ってくれたなんて。嬉しくて涙が出そうだった。
「ええー、みんな。彼女は三俣葉子さんといいます。今日から女給としてうちで働くことになりました。みなさん、いろいろと教えてあげてくださいね」
はい、と従業員たちがそろって答える。
みなの視線をあびながら、わたしも自己紹介をした。
「三俣葉子、と申します。今年で十八になります。働くのはこちらのお店が初めてで、いろいろと至らないこともあるかとは存じますが、精一杯勤めますのでどうぞよろしくお願いいたします」
そう言って深く一礼すると、あちこちから「よろしく」「よろしくお願いします」などの声がかかった。じんと胸が熱くなるが、途中、大和さんの「うん、ヨーコちゃん、仲良くしよーね!」という声も聞こえてくる。わたしは耳をふさいだ。
なんだかあの方だけは調子がくるってしまう。昭さんの言っていたように、話半分で対応した方がよさそうだった。
「さて、じゃあそろそろまかないを食べようか。みんなそれぞれ希望のメニューを申告して」
美木料理長がみんなの要望を聞いて回る。今日のランチのどちらかを言うらしい。わたしはシーフードドリアとトマトソーススパゲッティ、どちらにしようかまだ迷っていた。
早苗さんが手招きしていたので、あわてて近寄る。
「葉子さん、迷っているのでしょう?」
「えっ、どうして……」
「それくらいわかりますよ。では私はトマトソーススパゲッティを頼みますので、葉子さんはシーフードドリアを頼んでください。私のと、半分ずつ交換しましょう」
「早苗さん……。ありがとうございます」
なんて優しい人なのだろう。
そうやって二種類食べられるようにしてくれるなんて。わたしは感激しつつ、早苗さんの横の席が空いていたので思わず座った。
「ここ失礼します」
「はい。あの……別に、無理にとは言ってませんからね。そういう他人と分けるのが嫌だったら、断ってくれてもいいですから」
「いえ、嬉しかったです。ちょうど両方ともおいしそうだなって思ってたので、ありがたいです」
「そうですか」
どことなく、早苗さんも嬉しそうにしているように見える。気のせいだったかもしれないけど。
ああ、シーフードドリア。
そしてトマトソーススパゲッティ!
いったいどんな味がするのだろう。わたしはわくわくしつつも、またお腹が鳴らならないよう体をできるだけ丸めていた。
みなの要望が出揃うと、美木料理長はさっそく料理人たちに指示を出す。
料理人たちがいっせいに厨房へ向かい、まかない作りがはじまった。
残った女給たちは立ち上がって、グラスに水を入れたり、食器を用意したりする。わたしは早苗さんと一緒に机を水拭きしたりした。
二十分ほどすると、ようやくお待ちかねのまかないが運び込まれてくる。
テーブルに並んだ料理がそれぞれ湯気を立てている。いい香りにわたしはまたお腹の音が鳴ってしまった。
「うふふ! 葉子さんって可愛らしい方ねえ」
「だって十八、いや今年でって言ってたからまだ十七なんでしょう? 子供らしくていいわよ」
「あら、去年までわたしも十八でしたよ」
「同じくらいね!」
あはは、あはは、と女給さんたちの甲高い笑い声があがる。
顔から火が出そうだった。本当にちゃんと朝食を食べてくるんだった、と後悔する。そんなとき、美木料理長がごほんと咳払いをした。助かった。みなが一斉にそちらを向く。
「じゃあ、そろそろ食べようか。いただきます」
美木料理長の合図で、全員がいただきますと唱和する。
わたしはこっそり、早苗さんと料理を半分こずつ交換した。シーフードドリアのチーズの海にスプーンを沈めると、その下には海老やイカらしき具材と、粘度のあるご飯が存在している。それを早苗さんの皿に移した。早苗さんも、フォークでぐるぐると麺を巻き取って、わたしの空いた皿の部分にそれを移してくる。
「ありがとうございます、早苗さん」
「いえ。わたしも、両方食べられてお得ですから」
ではいよいよ、料理と向き直る。
いい香り過ぎて、もはや我慢の限界だった。さっそく一口。ドリアの方を食べてみる。チーズの濃厚なうまみ、魚介の奥深い味……わたしはあまりのおいしさにしばらく悶絶してしまった。
「う……う……」
「葉子さん?」
早苗さんが、うめき声をあげるわたしの顔を横からのぞき込んでくる。
「大丈夫ですか?」
「あ、はい……おいしすぎて……とても感動してただけです」
「そうでしたか。魚介に当たりでもしたかと心配しました」
「あ、いや、そうじゃないです。大丈夫です」
「なら良かったです」
二口、三口と、どんどん口に入れる速さが加速していく。孤児院育ちなのでどうしてもこうしたはしたない行動が出てしまう。でも、このおいしさの前ではそんなこと気にしていられなかった。あっという間に食べ終わってしまう。
「はっ、もうなくなっちゃった……」
気が付くと、シーフードドリアはきれいに消え失せていた。しかたがないので、続いてスパゲッティの方に移る。スプーンでは食べづらいので、自分でもうひとつフォークを持ってきた。早苗さんを真似て、くるくると巻いてみる。
ぱくり。口の中に、麺のなめらかな触感と、トマトの豊潤な味が広がった。
「うう……おいしすぎる」
わたしは泣いていた。
早苗さんも、近くにいた他の女給さんたちもぎょっとしてわたしの方を見る。
「良かったー! そのパスタ作ったのオレなんだよね」
はっとして顔をあげると、目の前に大和さんが座っていた。にこにこと嬉しそうにわたしのことを見ている。わたしは口元を抑えて、あとずさった。
「いやー、感激してくれてうれしいよ! あれでしょ、早苗さんと半分こしてるんでしょ? だろうと思って、あえてオレが担当したんだ。ちなみにドリアの方は昭が作ったんだよ?」
「えっ……」
言われて振り返ると、昭さんは目が合うなりそっぽを向いた。
「ふふ。どうせ初めて食べるなら、この店で料理長の次に腕のいい、オレと昭が作ったものの方がいいと思ってさ。どう? おいしかった?」
「は、はい。とっても……」
「そ。それは良かった」
それだけ言うと、大和さんはすぐにまた自分の席に戻っていった。
近くに座っていた美木料理長が大きな笑い声をあげる。
「あっはっはっ、いやー、料理人冥利に尽きるねえ。ねえ、昭。大和くん」
「はあ、まあ……」
「はい、すっごくうれしかったです!」
対照的な反応の二人だったが、わたしはひそかに昭さんと大和さんに感謝した。
もう一度、こんなふうに料理でしあわせな気持ちになれるなんて。
久しぶりだった。
もちろん孤児院でだって、しあわせな気持ちになることがあった。でも、この料理は格別だ。こんなにもおいしい食べ物があるなんて。
「あら? みなさんずいぶんと楽しそうですわね?」
そんなときだった。冷や水を浴びせられたみたいに休憩所の空気が一瞬で凍った。
部屋の入り口に、スーツを着た女性が立っていた。流行りの巻髪をした、化粧の派手なひと。あれは……孤児院の前で美木料理長と一緒にいたひとだ。
「薫子様……」
隣の早苗さんがぽつりとそう口にしていた。