13 大和さんの帰還
昭和三十五年。
わたしがリストランテ美木で働き始めてから十年、大和さんがイタリアへ旅立ってから九年の月日が経った。
あれからお店には、何度も小包が届いた。
イタリアのミラノからこの横浜の山手町へ。
店に届いた箱の中にはいつも、それぞれの従業員宛てに手紙がたくさん入っていた。もちろん、わたし宛てのも。
イタリアに着いてから、大和さんはすぐに有名な料理店で働けることになった。
向こうで薫子様にずいぶんとよくしてもらったそうだ。長期滞在するための手続きやら、日本人を受け入れてくれるお店への声掛けなど、各種便宜を図ってもらったという。なぜそこまでしてくれるのか聞くと、「長期的な投資だ」との答えが返ってきたらしい。いずれは美木料理長を超える料理人となって、お店をさらに盛り立ててほしいのだと。
とても薫子様らしいなと思った。
わたしは自分の近況や、お店にいらっしゃったお客様のこと、戦前や戦時中の家族との思い出話などを手紙に書いた。つまらない内容だったかもしれないが、少しでも外国で過ごす大和さんの息抜きになればいいと思って書いた。
わたしはそれを他の従業員の手紙と一緒に美木料理長のところへ持っていく。大和さんのと同じように、全部まとめて一つの小包にして送り返すのだ。
「美木料理長、みんなの分を集めてまいりました」
「はい。ありがとうございます、葉子さん」
万年筆を動かしていた手を止めて、美木料理長がわたしを見た。
彼も、ちょうど大和さんへの手紙を書いていたらしい。仕事を終えた美木料理長は紺の長着を着ていた。その顔には十年分の年輪が刻まれている。美木料理長は立ち上がると、わたしから手紙の束を受け取った。
「そういえば大和くん、そろそろ日本に帰ろうとしているみたいですね」
「えっ、本当ですか?」
「はい。あれ? 葉子さんの方の手紙には、書かれてなかったですか。じゃあ、もしかして言わない方が良かったのかな……」
手紙の内容にはそれぞれ違いがあった。
その違いを話すのも、一部の従業員間での楽しみとなっていた。でも、これは。
「もしかして、わたしにだけ教えないでびっくりさせるつもりだったのでしょうか。でも、知れてよかったです。そうですか……大和さんがようやくお帰りに」
「嬉しいですよね。僕もです。もし戻ってきたら、またお祝いの会を開きましょう!」
「はい!」
わたしは笑顔でうなづくと部屋を後にした。
大和さんが帰ってくる。果たして、どんな料理人になっているだろうか。以前作ってくれたまかないよりおいしいものを作ってくれたりなんかしたら、わたしはもう飛び上がって失神してしまうかもしれない。
「楽しみだなあ……」
ひとりごとをつぶやいていると、二番と書かれたドアから昭さんが出てきた。
寝間着姿でコップと歯ブラシを持っている。これから洗面所へ行くところのようだ。
「あっ、昭さん。もうお休みですか。わたしもそろそろ寝るところです。おやすみなさい」
「あ。あの……葉子さん」
「はい」
「大和の、ことなんだが……」
「ああ、そろそろ日本に帰ってこられるって話ですか?」
「うん……まあ、そうなんだが……」
なにか歯切れの悪い話し方で、わたしは首をかしげた。
昭さんはあれから九年の歳月が流れて、父親の美木料理長のように口ひげを蓄えた立派な紳士となっていた。歳は今年で三十六になられるはず。
わたしは二十八。美木料理長は六十四、大和さんは……三十五。大和さんの容姿だけは写真一枚送ってこないのでさっぱり予想できないけれど、昭さん同様、すてきな紳士になられているのだろうと思っていた。
「久しぶりに会えるの、楽しみですねえ、昭さん」
「ああ……」
やはり、何かを考えこんでいる風だ。けれどそれ以上なにも話してくれなかったので、わたしは別れて二階へ行った。
それからしばらくして、大和さんが帰国する日が決定した。
十二月の中旬、十八日。クリスマスの一週間前に当たる日だった。
イタリアのクリスマスは十二月八日が一番大事な日らしく、それが過ぎたらもうお役御免で大丈夫となるらしい。わたしたちはその日を心待ちにした。
「ただいまーーっ! ヴィアモトゥッチ(愛してるみんな)! ミシエテマンカーチィ(寂しかったよ)!」
店の扉が勢いよく開いて、元気よくイタリア語を話す男性が飛び込んできた。
ここはイタリア料理店なのでよくイタリア人のお客様も訪れる。聞こえてくる言葉はわたしには少ししかわからなかったけれど、やってきた男性の話す言葉もそれと同じだとすぐに分かった。
男性は茶色い長髪を後ろでひとつにまとめており、あごひげをまばらに生やしている。その、若葉色の瞳がわたしに向く。あの、瞳は……。
「大和さん……?」
「えっ、ヨーコちゃん? アモーレ!」
わたしはランチ前の、店の掃除をしているところだった。なのでたまたま一番最初に再会してしまった。大和さんの大声に、みんなも厨房から出てくる。けれど、大和さんはじっとわたしだけを見つめていた。まわりがどんなに大和さんの名前を呼んでも。
「ヨーコちゃん、いや……葉子さん」
「大和さん?」
「ずっと言いたかった。今度は冗談じゃない。葉子さん……オレと、結婚してください!」
ええーーっ、と周囲のみんなが叫ぶ。
わたしはあまりのことにふらりと倒れそうになった。それを大和さんに抱き留められる。力強い腕だった。
「はは。まあ、まずはオレが培ってきた料理の腕を、見てもらってからになるかな?」
そう言って笑った顔は、旅立つ前の、子供のような表情のままだった。