11 美木兄弟
店の裏庭で、大和さんは「お願い」とか「なんとか」という単語を発していた。
わたしは勝手に聞いたらいけないと思いつつも、大和さんと薫子様に見つからないよう、近くの低木の陰に隠れた。
「薫子様ー。オレ、もっと腕を上げたいんですよー。だから本場のイタリアで、修行できたらなーって」
「まあ。それはとってもお勉強熱心なことですわね」
「だからさー、お願い。料理長にも援助してくれたみたいに、オレにも渡航援助? してくれませんか」
「それは、あなたの態度次第ね」
「態度次第? ふーん、それってこういうこと?」
そう言って、大和さんはするりと薫子様の背後に回って首元に両腕を回す。
薫子様はふふふと妖艶に笑って、その拘束から逃れた。
「あなた、まだお若いでしょう? そんなことをしてもわたくしはなびきませんわよ?」
「ええー? 料理長よりは肌もきれいだし、いいと思いますけどー?」
「ふふ。百年早い、ですわ。さようなら未来の料理人さん。今夜のディナー、よろしく頼みますわね」
薫子様はそう言うと、またさっそうと去っていった。わたしはさらに身を隠す。なんでこの店の男性たちは、親子そろって、こんないかがわしい……。
「ヨーコちゃん?」
「ひゃっ!?」
声をかけられた。振り返ると大和さんがじっとわたしを見下ろしていた。
「なーにしてるのかな? そこで?」
「あ、あの……」
立ち上がって逃げようとしたが、すぐに手を引かれて引き寄せられてしまう。
「悪い子だなー。のぞき見なんて」
「そ、そんなつもりは」
「あったでしょ。ん? なんかオレに言いたいことある?」
「あの……」
「オレと料理長は同じだなーとか?」
「えっ?」
「あ、図星だ。早苗さんと寮の方へ行ったから料理長のこと知っちゃったのかなーと思ったんだ。やっぱりだったね。ふふ……」
相変わらず子どものようなくったくのない笑顔をしているけれど、今の大和さんは少し怖く感じた。どうやってこの場を切り抜けようかと考えていると、突然うしろから肩を引かれる。
「きゃっ?」
「なにやってる、大和」
それは昭さんだった。わたしと大和さんを強引に引きはがす。
店の厨房の勝手口が奥の方にあるらしく、昭さんはそこからここに出てきたようだ。
「別にぃー。遊んでただけ。ねー?」
「……」
「違うみたいだが?」
「そんなあ、話合わせてよー。いやね、薫子様とオレが話してるのをこの子がのぞき見してたから、そういうのってよくないよーって話してただけ」
「薫子様と話? 何を話してたんだ」
「んー? ひ・み・つ」
あはは、と笑いながら大和さんは去っていった。はあ、と昭さんから盛大なため息がきこえる。
「だから言っただろ。あいつはああいう性格なんだ、まともに――」
「あの、昭さん。ありがとうございました」
「なにがだ」
「困っていたのを、助けていただきました」
「別に普通だ。あいつはさっき休憩に入ったばかりだが、俺にはまだ仕事がある。せっかくだ、手が空いてるなら手伝え」
「えっ」
もう帰ろうとしていたのに。どうしよう。でも助けてもらった手前、断ることはできなかった。仕方なく付き合うことにする。昭さんは竹であんだ小さなかごを持っていた。この菜園に用事があるらしい。
「料理に使う野菜をここで育てている。今必要なのはこのバジルってハーブだな」
「ハーブ……」
畑を見ると、あまり見たことのない葉っぱが生えていた。これはイタリア料理においてとても必要なものらしい。鼻を近づけると独特の香気がした。
一番上の、生えたばかりの柔らかい葉を摘むよう指示される。
「あいつと俺とは、異母兄弟なんだ」
「そう……らしいですね。早苗さんから聞きました」
「あの人は……。新人に何でも話しすぎだろう。あとで注意しておく」
「そんな! やめてください。とっても親切な方なんです。それに、ここで働いていたらいずれ知ることになっていたと思います」
「……そうだな」
つやつやとした、緑色の葉が小さなかごに集まっていく。
「小さなころからずっと一緒に生活してきたわけじゃないんだ。戦争が終わって、この店ができてすぐくらいに、あいつはやってきた。だからまだ、俺自身もよくわかっていないんだ。あいつのことは」
「そうなんですか?」
「ああ。あいつは俺を兄弟だと思い、いつも気安く接してくれるが、性格が真逆なうえに、あの人の血を引いているからな。俺はどうも……」
「昭さん」
複雑な顔をしている昭さんは、かごの中の葉をじっと見つめていた。しかし、おもむろに立ち上がる。
「もうこれぐらいで充分だ。助かった。俺はまだ仕事があるが、葉子さんは……」
「今日の業務はもう終わりました。これから家に荷物を取りにいきます。次に来るのは明朝です」
「そうか。では葉子さん、また明日からよろしくな」
「はい。こちらこそよろしくお願いします」
こうしてわたしの初勤務は終わった。
孤児院に帰って採用されたことを報告すると、施設長の花園さんはたいそう喜んでくれた。
数少ない荷物をまとめて、明日の出勤に備える。布団に入ると、お店でのさまざまな出来事が思い返されたが、いつのまにかわたしは深く寝入ってしまっていた。