10 美木料理長のこと
早苗さんいわく、美木料理長と薫子様は店ができる前から愛人関係であったのだという。
その頃には奥様もいたのだが、開店してからはすぐに離婚してしまったそうだ。それはそうだろう。薫子様がいくら開店資金を出してくれた恩人であったとしても、堂々と夫と不貞行為をするのなら、気持ちは千々に乱れるに決まっている。
「最初はどうにか割り切ろうとなさっていたようでした。でも、だんだん辛くなっていってしまったのでしょうね」
乾いた洗濯物を取り込みながら、早苗さんが言う。
わたしは受け取った衣類をたたみつつ、それぞれのかごに入れていった。かごも洗濯物もすべてに持ち主の番号が振られている。
「私、一度料理長に聞いてみたことがあるんです。薫子様との関係を辞める気はないのですか、と」
「早苗さん、それはずいぶんと……思い切った質問をされましたね」
「今日みたいに目に余る現場を目撃しそうになったからですよ。そうしたら料理長、なんと答えたと思います?」
わたしは驚きつつも、少しの間考えた。
「それは、辞められない、だったんじゃないですか? 現に今も……ですし」
「そうですね。でも正確には辞められる立場にない、といった返答でした」
「辞められる立場にない?」
いわく、この料理店は薫子様のために作られたのだという。
外交官の仕事をしやすくするために、薫子様が自由に使える場が必要だったそうだ。そのために、有名ホテルの料理人をたぶらかし、自分の店を持たせると言って、出資までしたのだと。
「料理長は以前は横浜の一流ホテルで働いていました。ですが、そのホテルの常連であった薫子様に見初められ、このような結果に……。戦後すぐの横浜はアメリカの占領軍が大量に押し寄せていて、いたるところを接収していましたからね。先行きが不安だったのもあったのでしょう」
たしかに、戦争で何もかも失ったあの頃。GHQのマッカーサーが来て、たくさんのアメリカ人が来て、横浜の街はすっかり変わってしまった。
わたしは空襲で父と母が殺された怒りをずっと抱えていたけれど、いつまたあいつらに、今度は自分も殺されるのかと思うと不安で不安で仕方がなかった。
美木料理長もそうだったんだろうか。幸いご家族は無事だったみたいだけれど、この先も安全に過ごしていけるかどうかわからず、不安だったのかもしれない。
「自分の店を持てばきっと安泰でいられる、そう信じてここに来たんでしょうに。奥様は去って行かれ、ご子息の昭さんも……」
「さっきの昭さんの様子は、そういう理由からだったんですね」
「はい。薫子様はこの店に出資したお金の返済をいっさいを請求してこない代わりに、いつでも場所を使えるようにしてもらうのと、ああした体の関係を料理長に――」
早苗さんはそれ以上言いたくないというように口をつぐむと、大きなシーツを物干しざおから引き下ろした。
「ごめんなさい。入ったばかりの葉子さんにこんな話……」
「いえ。わたしも気になってしまったので、つい聞いてしまいました。教えてくださりありがとうございます」
「本当に、こういうことを知って嫌になったなら私から料理長に言っておきますから。遠慮なく言ってください」
「わたしは……薫子様が言ったように、孤児院の出です。もうすぐ出ていかなきゃいけない歳で。だから、ここで働けなかったらまた勤め先を考えなきゃいけないんです。それより、早苗さんみたいに親切な先輩もいるし、料理長もとてもお優しい方ですし、なんとかここで働きたいって思ってるんですが……」
「葉子さん」
早苗さんは真面目な顔でこちらを見ると、私の両手を取った。
「この店はいろいろとややこしい事情がありますが、そう言ってもらえると助かります。これからもよろしくお願いいたします、葉子さん」
「はい。こちらこそ、よろしくお願いいたします」
その後、すべての洗濯物を取り込み終わると、早苗さんはお風呂の支度に移ると言い、わたしはかごをそれぞれの部屋の前に置いてくるよう頼まれた。
二階の女子部屋から運ぶが、十あるうちのいくつかは空き部屋だった。
本来必要な従業員の数が足りていない、ということだろう。美木料理長が言っていた人手不足というのは本当だったようだ。
続いて一階に戻り、男子部屋を回る。女子よりは多かったがこれもすべての部屋の前に置くことはなかった。
最後に「一番」と書かれたかごを運ぶ。これは最奥の美木料理長の部屋だ。幸いもう薫子様の声は聞こえてこないが、また再び何か聞こえてきたら嫌だなと思った。一歩ずつゆっくりと廊下を進む。と、いきなり部屋のドアが開いた。
「じゃあ、また夜に来ますわ。ごきげんよう。あら?」
扉を閉めると同時にわたしの姿を見つけて、薫子様が眉根を寄せる。
「またあなたですの? 嫌ですわ。盗み聞きなんて」
「い、いえ。わたしは何も……」
「ふうん。まあ、まだおぼこですものね。聞かれていたとしても……うふふ。心配しすぎですわね」
オホホと甲高い笑い声をあげて、薫子様は去っていく。その姿には一死の乱れもなかった。わたしはドキドキしながら美木料理長の部屋の前に立つ。そっと部屋の前にかごを置くと、また扉が開いて今度は美木料理長が出てきた。
「か、薫子さん、忘れ物……!」
ハッとして足元のわたしを見る。美木料理長と目が合ったわたしは、驚いて何も言えなくなった。だって薫子様と正反対の姿をされていたからだ。さっきまで着ていた調理服と背の高い白い帽子が、ない。肌着のような白いシャツと白いズボンだけしか身に着けていない料理長は、こころなしか髪も乱れているようだった。
「うわあっ! なっ、なんで葉子さんがここにいるんです!?」
顔を真っ赤にしたかと思うと、美木料理長は慌てて扉を閉める。
「すみません……早番の早苗さんと一緒に、こちらの寮の仕事に移っていまして、いま乾いた洗濯物を運びにきたところです」
「ああああ……。すみません、すみません! 僕はいったいなんてことを……」
「いえ。お話は早苗さんから多少、伺っております。ですから特に気にしてません」
「そんなわけ……。ああ、きっとひどく幻滅されたでしょう。僕がこんなことを薫子さんとしてるなんて」
「料理長、わたしここで働きたいんです。ですからそれらの事情も込みで、改めてお願いしたいと思います」
「葉子さん……」
扉の向こうの料理長は見えないけれど、わたしは誠心誠意、頭を下げた。
「こんなオーナーで、いいんですか?」
「美木料理長こそ。こんな孤児上がりの娘でよろしいんですか」
「葉子さん……そうですね、すみません。至らない料理長ですが、明日からもまたお願いできますか?」
「はい。よろしくお願いします。では、今日はもういったん家に帰らせていただきます。荷物など持って、また明朝まいりますので」
「わかりました。今日は本当に、大変見苦しいところを……」
お見せしました。とまた扉が開いて、美木料理長が出てくる。今度は調理服をきっちりと身に着けて、髪と帽子も整えていた。この短い時間で身なりを直したのだろうか。その急ぎぶりに、わたしは思わず笑ってしまった。
美木料理長が気まずそうに口ひげをいじる。
「はは、参りましたね……」
その苦笑した顔がなんとも素敵で、わたしはやはりこのお店で働きたいと強く思った。
その後、早苗さんにかごを全部置き終わったと報告しに行った。あとは孤児院に帰るだけだ。着替えるためにまた店の更衣室の方へ戻ろうとすると――。
渡り廊下のところで誰かと誰かが話す声が聞こえた。
見ると、家庭菜園があるあたりに、薫子様と大和さんがいる。わたしはそっと耳をそばだてた。