表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/14

1 始まりの日

 横浜の雑踏を見つめる。

 戦後数年でこの街は、あの焼け野原が嘘のように復興を遂げていた。

 第二次世界大戦の名残はまだいたるところにあるが、人々は生き生きと生活をしている。


 わたしはお腹を極度に空かせたまま、道を行き交う人々を眺めていた。

 アメリカ兵、中華街の中国人、日本人の行商。いろいろな人間がいるが、そのどこにも父母の姿はない。この世界のどこにも。

 もう母の手料理は食べられないし、父が買ってきたお菓子も食べられない。その絶望にも、この数年でだいぶ慣れた。

 けれどたまに思ってしまう。またあの幸せな時が戻ってきたらいいのに、と。


「そこの、お嬢さん。うちの店で女給として働きませんか?」


 突然声をかけられ、わたしは顔を上げた。

 いつのまにかすぐそばに黒塗りの車が停まっていた。仕立てのいいスーツを着た男性が、後部座席の窓から顔を出している。歳はかなり上。父が生きていたら、これくらいになるだろうか。きれいに切りそろえられた口ひげの紳士は、にこにこと嬉しそうに笑いながら、わたしを見つめていた。


「あなた、やめた方がいいですわよ。そこは孤児院。そんなところの子、ろくなしつけをされていないに決まっていますわ」


 ふらふらと立ち上がろうとすると、男性の伴侶と思しき女性がついと後ろから顔をのぞかせた。化粧が派手だ。もしかしたら伴侶ではなく、愛人や娼婦の類かもしれない。でも、着ている洋服は男性と同じくらいしっかりしたものだった。

 女性はわたしと目が合うと、汚物でも見るような顔つきになった。あれは孤児や浮浪児をさげすむ目だ。よくあること。よくあることだったが、胸の奥がずきりと傷んだ。


「いいじゃないですか、薫子さん。今は人手が足りなくて困ってるんです。それに作法なんてあとから教えればどうとでもなりますよ」

「でも……」


 女性はやれやれといった風にため息をつくと、それきり何も言わなくなった。

 わたしはたしかに孤児院で暮らしている。背後の粗末な建物には、戦争で身寄りをなくした子供たちが大勢つめこまれている。わたしは今年で十八になる。十八になったらここを出ていかなくてはならない。けれど、行く当ては今のところなかった。


「あの、お店って?」


 キャバレーか、娼館か。近場にはそんな店がたくさんある。わたしもいずれそういう店で働くのだと思っていた。

 しかし、後部座席の男性は意外なことを言った。


「丘の上の、あの白い建物です。見えますか?」


 指で示された先は西の丘の上だった。あの丘の上は通称「ブラフ」と呼ばれる、かつて外国人だけが住んでいた特別区であったと聞く。今はそうでもないらしいが。木々がたくさん生い茂っていて、よく見るとその中にポツンと白い瀟洒な洋館が建っていた。


「うちはあそこでイタリア料理の店をやってるんですよ。リストランテ美木って名前、聞いたことありませんか? うちは住み込みで働くこともできますので、どうかご検討ください。では」


 紳士は優しく微笑むと、運転手に向かって車を出すように言った。

 わたしはその車が去っていくのをぼうっと眺めていた。わたしが料理店で働く? 想像がつかなかったが、なんだかそれは素敵なことのように思われた。少なくとも食いっぱぐれることはない。いつまでもこの孤児院にいることはできないのだから。生きるためにはどこかで働かなくては。


 それは昭和二十五年、九月も終わりのことだった。

 空気がすっかり冷えてきた秋の日。わたしはリストランテ美木の人々と出会った。

 それがすべての「始まりの日」だった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ