第七話 萃那の考察
気づくと、私こと菟梁 萃那はレグウスの病棟のベッドで横になっていた。
その病室は静かなもので、殺人鬼などどこにもいない。
「…ん」
窓から優しい夕日の光が目に飛び込んでくる。その眩しさに目を細めると同時に、私は意識を完全に覚醒させる。
「痛っ!」
身体を持ち上げようとしたが全身に激痛が走り、私は再びベッドに倒れ込んだ。意識がはっきりとしていくと共に身体の節々が悲鳴を上げる。
ようやく痛みが治まったところで、私は目を閉じて先日のことを追憶させた。
そうか、彼に蹴られたんだった。
呼吸の度にジワリと疼く腹部が、あの時の衝撃を鮮明に思い出させる。それと同時に無力感と背徳感が私の感情を支配していった。
辛うじて動かせる右腕で腹部を擦る。
「っ!」
指先が腹部に触れた瞬間、激痛で叫びそうになるがなんとかそれを堪える。骨にも異常をきたしているのだろうか?
「まだ寝ておいたほうが良い。全身打撲だらけだ」
不意に声を掛けられ、私は動転した。心臓の鼓動が飛び出る勢いで波打ち、一瞬息を忘れかける。私は全身の痛みを忘れ、その声を辿るように視線を上げた。
「狭霧さん!」
そこにいたのは五体満足でこちらを見下ろしている屈魅 狭霧だった。手に持っていた本を閉じ、私に乱れた布団を掛け直してくれる。
流石というべきか、彼の様子から察するにあの後何とかなったようだ。
荒れた呼吸音が聞こえないように口で息を吸い、ゆっくりと心情を落ち着かせる。
私の心臓は依然鳴りやまない。煩いくらいに私の頭の中で反響し、静寂だった病室をひっくり返す。
この鼓動が彼に聞こえていないことを祈りながら、私は無難な言葉を選考する。
「無事でしたか…良かったです」
「まあな。お前が逃がしてくれたお陰だ。ま、そのせいでお前は全治二週間の大怪我だけどな。だから、えっと…」
狭霧は言葉の中途で目線を泳がしながら頭を掻いた。何か言いたげな表情をしているのは見て取れたが、それが何かまではわからないため私はキョトンと小首を傾げた。
なんて言っていいのかわからないのか、暫く言葉を濁していた彼だったが、やがて決心がついたのか、一度小さく深呼吸をした彼は、改めて私に向き直る。
「その…ありがとう」
真顔のまま小さな声でそんなことを言う狭霧。彼が言いよどんでいたのはあまりにも単純な言葉で、私は焦りに反して不意に微笑んでしまった。
感謝の言葉を伝えるのに慣れていない様子がどこか可笑しくて、それでも私にその言葉を伝えてくれたのが何とも言えないぐらい嬉しかった。
一気に身体中の緊張が解けるのがわかる。
頭を掻いて、逃げるように目線を逸らす彼はどこかよそよそしい。
本当に礼を言わないといけないのは私の方だっていうのに。
ベッドの横のタンスに置かれている花に私は視線を移した。丁寧に花瓶に添えられたストック。花言葉は…。
「見つめる未来」
「え?」
「ストックの花言葉だ」
「…」
本当はもう一つのほうを言って欲しかったが、そんなことを口に出せるはずもなく。私は赤くした顔を隠すように布団を被った。
「六花も来たんだがな。あいつ花は忘れたとか言ってたぞ。」
別に嘘はつかなくてもいいのに…。六花 紗軀痲は私の友人だが、見舞いに花を忘れるような人ではない。
見舞いに来てくれる人なんて貴方ぐらいしかいない。任務でちやほやされているのは、皆強く、人当たりの良い私が好きなだけ。
こんな私の傍にいてくれてありがとう。本当はそう言いたかった。だけど私の口はもごもごと震えるだけで、その言葉を発そうとはしない。
お父様を失って、元々母親がいなかった私は頼れる誰かが欲しかった。弱い自分を隠さなくても傍にいてくれる人が欲しかった。だからこそ、まずは私が頼られるように日々努力し続けていたのに、いつしか本当の目的を忘れてしまっていた。誰からも頼られる人になり続けていたら、誰にも頼れなくなっていた。
そんな私を救ってくれた彼になんて言えばいい?
「…良いんですよ。私がしたいことをしただけなので」
いつもならここで嘲笑するところだが、今回だけは止めておく。
「そりゃ、どうも」
「ところで、殺人鬼の件は…」
「あの後呼んだ増援の接近に気づいて逃げて行ったよ。妙にお前に執着してたがな」
私に執着。その言葉で私の脳裏に一つの仮説が過る。彼の正体を知ってしまったから口封じに来たのだろうか?
「…そうですか。ありがとうございました」
そこで私はようやく落ち着かせた顔を出した。
結果を聞いて安心すると共に脳裏に過ったのはあの殺人鬼の顔だ。あれ程の腕の持ち主がレグウスの増援に怯えて逃げるとは思えない。一対多戦闘に弱いのだろうか。それともあるいは…。
「そういえばあれは何だったんだ?」
「何ですか?」
「言いたいことがあるって言っていただろう?」
その言葉に一瞬で心臓が犇めきだした。それを悟られないように私は平常心を装う。
「聞こえていたのですか。すぐに逃げてしまったので聞こえてなかったかと」
「まあな。逃げ足と聞き耳には自信があるんだ。で、内容は?」
すっかりいつも通りになった狭霧は、椅子に腰を掛けて私の言葉を待つ。
私は一瞬言うのを躊躇った。あの時は命の危機を感じていたためサラッと言えたがこれを彼に聞くのは、これまでの関係性を壊してしまうかもしれないからだ。
しかし、ここまで言って止めるのは不審に思われるかもしれない。それにここで言うのは好都合だ。あの殺人鬼集団が私に狙いを定めている理由がこれなら、いずれは彼と共有するべきこと。彼に賭けてみるしかない。
刹那の思考の後、覚悟を決めた。
ジワリと冷や汗がにじむ。
そうして私は素直にその言葉を発する。
「狭霧さんの正体ってもしかしたら3年前の言い伝えの…」
「!」
その瞬間、狭霧さんはもの凄い速さで立ち上がり、私の口元に人差し指を立ててきた。それ以上言うな、と言わんばかりの表情で自分の口元にも人差し指を立てる。
その毅然とした態度に、私は畏怖を感じざるをえなかった。
「どうしてそれを知っている」
「!」
その様子から察するに、どうやら私の勘は当たっていたらしい。誰にもばらしていなかったのだろう。盗聴を危惧して頻りに周りを警戒している。
やはり彼こそが…。
信じたくなかった。私の勘が外れていてほしかった。だけど目の前の彼がそれを証明している。
「ずっと考えていたんです。能力というものは世界に唯一無二の完全なるオリジナルなもの。他の人と能力の機能が被るなんてことまずありえません。つまり…」
「もう言わなくていい。まさかお前なんかにバレていたとは…」
「それどういう意味ですか」
明らかに見くびられた発言に目くじらを立てる。
いけない。普段の彼の調子に乗せられてしまう。
「それで、誰にも言ってないだろうな」
ここで虚偽を述べて立場的アドバンテージをとってもいいが、そんなことは目の前の彼の覇気が許さない。視線のみの圧、目力が強いとかの騒ぎではない。相手に有無を言わせないその態度は伝説の名に相応しいものだった。
「はい。…ヴァネットさんや他の友人にもばらしていません」
「それならいいんだ…」
そうして彼は私に立てていた指を優しく離した。
一瞬聞いたのは間違いだったかと思ったが、杞憂だったようだ。
頭の中ではそう思っても震わせている左手がそれを否定する。右手でそれを抑制させようと、それは止まる所を知らない。
そんな私には目をくれず、狭霧はゆっくりと椅子に掛け直した。
「あの、貴方の目的は何なんですか?」
「ん?」
「言い伝え通りなら、貴方は本来ここに居るはずがない。それなのにどうしてここに?」
3年前、勇者が自身を生贄として魔王を共に魔王城に封じ込めたという言い伝え。それが真なら、ここに彼がいること自体矛盾しているのだ。
彼の答えによっては、私は彼の事を…。
落ち着け!私。鳴りやまぬ心臓を必死に押さえつける。
この気持ち、私はどちらを優先すべきなのだろう?
幾ら思考を巡らせてもその答えが出ることはない。
「俺にも分らない」
「え?」
「気が付いたら記憶を失くしてフォージアにいたんだ。記憶を取り戻してきたのもここ最近の話なんだ」
「まだ完全には戻っていないと?」
「そういうことだ。しかし目的はある」
彼はそう言って自分の蟀谷に指を立て、何かを探るように指先を動かした。
「記憶ですか」
「ああ、それを取り戻すのが今の目的だな」
「つまり…行くってことですか?魔王城に」
「ああ、ルドベキアを倒し、魔王城アディスで真実を知る。アディス城に行ったところで記憶が戻る確証はないが、今のところそれが最善の手段だ」
魔王城アディス。正式名称はアコーディアス=フォート・ヴォルガコーカーション。
その大きさは周囲約900m、最高高さ89m、面積約7haと巨大で、全体的に黒色で装飾された城影は、その傍を蠢く黒龍ルドベキアを引き立てるのにうってつけであった。
「貴方でも魔王城に入れないんですか?」
「ああ、ルドベキアが邪魔だろ」
「だから奴を倒すと…」
随分と疑問点の多い話だが、彼の話通りなら…。
布団の下で拳を固め、固唾を呑む。
「そういうことだ。俺の記憶を奪った野郎をぶっ殺す。これが俺の最終目標だ」
馬鹿真面目な顔で宣言した彼を前に、私の思考は半停止する。頭の中が?で埋め尽くされ、その内容の理解が追い付かない。
どういう心変わりだろうか。今更彼が何故このようなことを言っているのか、意味が分からない。
「つまり…人類を救うということですか?」
「まあ、結果的にはそうなるか。だが、今の俺は別に世界の救世主になりたいとかは考えていない。人類を救うのは二の次だ。記憶が第一、世界は第二」
「…」
「正直、別に今の俺は世界がどうなろうと知ったこっちゃない。言い伝えでは魔王は封印されていることになっているし。フォージア内で暮らす分には今まで通りのことで事足りるだろう。ま、記憶が戻ったらどうなるかはわからんが」
「それでも一応は世界も元に戻してくれるつもりなんですよね?」
「一応な」
魔王の最大の破壊兵器とも呼ばれるその城は、フォージアから南に12㎞先に位置している、言い伝え通りなら魔王が拘束されている地。
フォージアからでも容易に確認できる位置にあるが、そこに行ったことがあるのは彼と勇者パーティーのメンバーだけだ。
だからこそ、彼が魔王城に向かうのならその知識を利用できる。
否、これは甘えか。決断を出来ない理由が恥ずかしくて、無難な回答になるように心のどこかでその決め手を探していた。
元々彼が記憶喪失だということは知っていたが、如何せん都合が良すぎる設定を私は信じすぎている。第3者の可能性、彼が虚偽を述べている可能性、伝説が誤報の可能性…挙げだしたらきりがない。
彼が何時どうやって何のために何をするかもわからない状況で、彼に依存することは出来ない。だが、彼は信じるに値する。今はまだ“その時”ではない。
私は彼に隠れて顔を顰めた。
ああ!このような思考に至った自分に平手打ちをしたい。
お父様が今の私を見たらどう思うか。
私は生まれて初めて、この場にお父様がいなくて良かったと思った。今の私では合わせる顔がない。
「あの、私の父と出会ってたりするんですか?」
「悪いが記憶はないが彼も勇者の一人だったんだし、恐らくは…」
「そうですか」
「俺からも質問だ。どうしてそのことを尋ねる気になった?」
「?」
「お前は殺人鬼と接敵する前から既に俺の正体に気づいていたんだろう。あの時も『貴方なら殺人鬼とでも戦える』とでも言いたかったんだろうし」
「気づいていましたか」
「ああ、たった今な」
「私も貴方が実力を隠しているだけだと思いたかったですよ。でも考えを巡らせるほど辻褄があってしまうんです。手記にまとめてまで何時間も思考を繰り返した結果、そういう結論になったんですよ」
「俺に何か事情があるとは思わなかったのか?」
狭霧の質問に、私は過去を追憶して思考を凝らす。
その質問、思わなかったと言えば嘘になる。伝説の存在が正体を隠して弱者の振りをしているのだから、事情は絶対にあるはずなのだ。だからこそ、先ほども一瞬この事を言うのを躊躇った。
しかし、彼を一人の人間として信じられる根拠がある。信じたいと思える自分が心のどこかに存在するのだ。だからこそ私は自信を持って言える。
「何かしらあるとは思いましたが、私の事を命がけで守ってくれて、ずっと看病してくれる人が危険だとは思えませんでした」
彼に飛びっきりの笑顔を向ける。
それを見て彼は一瞬目を逸らした。
最悪なシチュエーションだ。どうしてこうなった?でも、もういい。
私はもう決めた。彼を信じ続ける。例え騙されていたとしても、裏切られるその瞬間まで私は貴方を信じ続ける。
「照れました?」
「…止めとけ。そんな阿保らしい笑顔、他の人に向けたらキャラ崩壊待ったなしだ」
「優しい貴方だからこんな顔も見せているんですよ」
「‼…俺はたまたま目を覚ました時に居合わせただけだ」
「嘘つき。それなら分厚い本を読んでまでここで時間を潰しませんよ」
「…」
「図星ですね?」
狭霧さんの顔を覗き込むようにして、くすりと笑ってみせる。
しかし彼は顔を背け、こちらを見ようとしない。
素直じゃない人…。
「散歩してくる」
「え、ちょっと!」
踵を返して狭霧さんはスタスタと病室の扉まで歩き、そこで歩を止めた。彼は扉の方を向いたまま無言で棒立ちしている。
「狭霧さん?」
「…一つ聞きたいことがあったんだ。」
そうして彼はこちらに振り返りその言葉を発する。
「今からでも勇者の称号得られるかな?」
私はその言葉を聞いた瞬間大きく目を見開いたのだった。