はしるひと
パチン、パチン。
縁側で、爪を切る音がする。
よく晴れた日だ。
彼はこの縁側が好きだった。自分専用の、布張りの椅子と小さな丸卓を持ち込んでいる。爪を切るほかにも、朝刊を拡げて読んだり、趣味ではじめたコーヒーのテイスティングをしたり。
こどもの頃は、よく昼寝もした。
家のリフォームの際にも、いまどきもう縁側なんて……と渋る家族を説き伏せて、わざわざ残したほどだ。
縁側だから、ここにいれば庭がよく見える。
ほんの三畳ばかりの小さな庭だが、妻がよく手入れをしてくれるおかげで四季の草花が絶えない。片隅には山桜の古木もある。この木も残して貰った。
この家は彼がこどもの頃と、十年ばかり前、二度リフォームをしている。
先祖代々住んでいるから、きっとそれ以前にも建て替えてはいるのだろう。だが、天災の多い土地柄で彼の父が生まれた昭和の初めより昔の写真や記録などはない。
残っているのは、あの山桜と一昨年取り壊した小さな蔵のあとだけだ。
おとうさん、またあ……!
背後で妻がおおげさな溜め息をついた。
んん? と振り返ると、彼の手元を指す。ちょっと怒っている。
「あなたの爪は踏むと痛いのよ」
言われて、ああと気が付いた。
またうっかり、何も受けずに素のまま床で爪を切っていた。
「あとでちゃんと集めとくから」
苦笑いで返すと、そのつもりだったらしく、小さなちりとりのついた卓上箒を手渡される。
「飛ばした爪もちゃんと集めてね」
忙しなく去って行く妻に、はーいはいはいと答えながら、ふと思う。
なんだかな。妻は年々、母に似てくるぞ。
母と父は、現在ことぶき町の介護マンションで二人暮らし、妻と母がこの家で嫁姑をバチバチやっていたのは、彼が東京の商社を退職して地元企業に再就職し、父が長年勤めた商工会の会長職を退いて隠居するまでの五年ほどだから、それほどの接点はなかったはずだが。
血の繋がった親子である彼の姉より、その姉の娘の姪っ子より、似ているというのは不思議なもので。
ふと大きく庭に張出した、一階の屋根を見上げる。
はあーあ。
彼は大きく伸びをして、集めた切り爪を古紙に包みゴミ箱に捨てた。
いい天気だ。
着替えて、少しその辺を走って来よう。
そう思いながら、無意識に少し丸くなってきた腹をさする。
こういうのは継続が大事なんだ。
彼は町内の路地を、いつものようにゆるゆるとジョギングした。
途中、目が合ったおなじみの顔に会釈すると、相手もにこりと微笑んでくれる。
「――――会長さん、ご精がでますね」
少し足踏みをして、いやあ、はははと笑い返す。
息があがるとこうはいかないが、まだほんのひとすじを走り出したばかり、次に角を曲がると
「まあ、会長さんじゃない」
「今日もがんばってますね」
出た。二丁目の凸凹コンビが、両手いっぱいに何やら良い匂いのする紙袋を抱えている。
思わず鼻を鳴らすと
「お一つ、いかがですか」
と、差し出されたのは、最近商店街の角にできたという甘味処の鯛焼きだった。なぜか白い。
「いやあ――――その」
ほかほか湯気の出る激甘スイーツを、腹を引っ込めたい一心で走る人間に差し出すのは酷な話だが、相手に悪気がないのもわかっているから、彼は困り顔で足を止めた。
「米粉で作った、白い鯛焼きなんです」
彼の躊躇を別の意味で察したらしい、デコのほうの若いのが笑顔で説明する。
この若いのが、男なのか女なのか、ボコのほうのお年寄りの孫なのかこどもなのかは、妻もわからないと言っていた。
ある日、突然、町内会の手伝いに出てくるようになったのだ。
年齢は彼の次男と同じくらいか。
明るく素直なイイコで、力仕事や面倒臭い頼み事も笑顔で引き受け、変わり者で有名なおばあさんの手助けをよくするので、誰からも好かれていた。
ただ当世風、見た目がちょっと風変わりなのは否めない。
「外国暮らしが長かったのかしらねえ……」
という妻に、訛りのひとつもないのだがと彼はいぶかしむ。
「だって、背も高いし髪も赤いし目の色も薄いし、お顔も小さくて色白で可愛くて」
俳優の七村晴也か、モデルの佐伯すみれに似てるじゃない。
そう言われて、彼は首を傾げた。最近の若い俳優やアイドルの顔は、彼にはさっぱり区別がつかない。
性の区別や年齢より、生き方がそのままファッションや個性になることも多いという。
目の前の若い子も、ちょうどそんな感じだった。
赤ん坊がすくすくと、そのまんま大きくなったような。
「あら、金魚さん。先に会長さんのお好みをお聞きしなきゃダメじゃない」
「ええと、そうでした」
ガサガサ紙袋を広げ、あらためて湯気を立てるそれを三つ差し出す。
「こっちがシンプルあんこ、真ん中はあんバター、それからカスタードです」
――――困った。
彼は目の前の鯛焼きと、悪気のない、明るい隣人達を交互に見て愛想笑いを浮かべる。
「……ほんと全部、白いんだね」
でも、どれも皮にはパリパリとした羽がつき、中身はもっちりぎっしりと詰まっている。湯気にまじったほんのり甘い香りも懐かしい。
実にうまそうだ。
「お腹と体に優しいです」
「へええ」
来年の夏祭りの町内屋台は、うちもこういうのにしようか。
そんなことを、彼は一瞬考えた。
いやいや――――夏に鯛焼きは暑いだろう。でも。
うちの子供たちは、真冬にアイスクリームをわざわざ買ってきて炬燵に入って食べてるぞ、とも思う。
「なにしろ米粉はグルテンフリーですからね」
「撫子さん、それさっきわたしが言いました」
「そうだっけ」
「そうですよ」
「グルテンフリーは言ってなくない?」
「あれ? 言ってませんでしたかね?」
はあ。
彼はしげしげと仲のよいデコボコ達を見比べた。
ふたりは見た目こそ別々だが、声や話し方はよく似ている。
目を閉じて聞くと、どちらが話しているのか区別が付かず、同じ人間が演じ分けて話しているかのような気がしたと、町内副会長の関根さんが言ったことを思い出し、差し出そうとした右手の親指がぴくりとした。
「ほら、会長さん、迷っちゃったじゃない」
いやあ、あはははは。
彼は笑い出し、場の空気を取り戻そうとした。
あはははははははは。
ふたりも釣られて笑い出す。
全部どうぞ。
結局、三つも鯛焼きを受け取ってしまった。
嬉しいような、困ったような。
礼を述べると、二人連れは明るく去って行った。
「……まいったな」
彼は声に出して、近くの公園のベンチに座り込む。
ベンチ脇の自動販売機で缶コーヒーを買おうとし、いやカロリーがと思い直して緑茶を選ぶ。
うちに持って帰って、妻に半分食べて貰おうとも思ったが、彼女はそういうものを嫌がるのを思い出した。
潔癖症というのだろうか。
冬に囲む鍋に「鍋専用の箸が置いてあるの、高級料亭とうちぐらいだよ」と、成人した長男が呆れていた。
それに関しては、彼は妻を叱れない。
結婚したばかりの頃、妻が初めて両親と囲んだ食卓でガチガチに身を堅くしたことを思い出すからだ。
その日はすき焼きで、具材も豪華で、みんな揃って楽しくおいしい夕食になるはずだった。
彼の父が、舐めた箸を直接鍋に入れるまでは。
すぐに母が気づいて夫に目配せしたが、舐め箸癖のある父の手は、それからもちょくちょく食卓を汚染した。何度、母が注意しても素面の時はまだいいが、一滴でも酒がはいるとダメだった。
昔の男社会では、それをとやかく言う人は少ない。
だが女性の、それも彼世代の嫁という立場で、見知らぬひとと暮らさねばならなかった妻には、耐えがたいことが何度もあったのだろう。
貰った鯛焼きに罪はない……が。
きっと妻は口にしない。
夏祭りの屋台の残りを、彼は、役員みんなでわけながらビール片手に花火見物で片付けた。家には焼き鳥一本、丸いたこ焼きひとつ持って帰らなかった。
「腹……へこまねーなあ」
そう呟きながら、かぶりついた鯛焼きは、舌が蕩けそうなほど甘い。
パリッとした皮の表面は意外に中はもっちりとして、ほくほくとした餡子やとろりとしたクリームともよく合っている。
「――――ほお」
隠れ甘党の彼には、実は大のご褒美なのだ。はじめの一口を飲みこんでしまえば、あとはどんどんイケる。
うん。うんうん。
彼は緑茶で口を整えながら、すぐに三つめに取りかかる。
そこで、ベンチの向こうで落ち葉を掃除していた女性と目が合った。
小さく目礼すると微笑みが返り、まめまめしく地蔵堂の周りの掃除を続ける。
少々照れくさかったが、相手もそれを察してか、それきりこちらを振り返らない。
最近、よく見かけるひとだった。
四十がらみ、おっとりとした印象で色白の卵形の顔をしている。
――――誰だったかなあ。
公園は四丁目と五丁目の管理であり、二丁目の彼の管轄からは外れるが、みどり町の町内会長を引き受けて三年、知らずに居るのはよろしくない。
三匹目のあんバター鯛焼きは最高に旨かった。
全部腹に収めてしまうと、彼は意を決す。
よし――――労いついでにお名前を確かめよう。
彼が立ち上がり、緑茶のペットボトルをゴミ箱に入れて戻ると、もう箒を持っていた女性の姿は辺りにない。
慌てて公園の向こう側へ行き、道の向こうまで見渡す。
あれえ?
彼はしばし首を捻った。
こっちには来なかったはずだし、すぐ近くに住んでいるのだろうか。
それとも。
ひとけのない路地に、びゅうとひと撫で風が吹く。
彼は肩をすくめた。
後を継ぎ、みどり町の統括町内会長になったと告げたとき、九十の齢をすぎてなお矍鑠とした父親に言われたことを、ふいに思い出す。
「タカフミ、あの町をまとめるなら、仕切るな」
昭和ヒトケタ生まれの男で、亭主関白で、仕事でも家庭でも誰にでも独特の威圧感のあった父が、そんなことを言うのが意外で思わず聞き返すと、父は骨っぽい禿頭を数回頷かせた。そして自分に言いきかせ、息子に言いきかせるように、同じことを繰り返す。
「絶対に仕切ろうと思うな。みどり町はひとが仕切れる場所じゃない。お務めするつもりで、しっかり奉仕なさい」
何を言っているのかと思った。
自分としては無償でみなさんのお世話をさせて貰っているのだから、町内会長の仕事はボランティア、つまり奉仕だと考えている。
そう返すと、父はむっと口を閉じる。
だが、経年で白く濁った父の目は惚けていたわけでも、勘違いして居たわけでもない。
最近――――それがよくわかる。そんな気が、する。
よっこらしょ。
ベンチにかけたタオルを再び首に巻き、彼はのろのろと歩き出す。
腹に収まった鯛焼きの分、体が重い。
すぐに走るのは無理だが、そのあたりを二~三周歩くぐらいなら問題ないだろう。
神社からぐるりと大回りにするのもよさそうだ。
「こんにちわ」
通りすがりの子供連れの女性に頭をさげられた。
「こんにちは」
同じように返して、彼は歩き続ける。ほんのり額に汗が浮かぶ頃、歩く速度も速くなってきた。
近くの小学校から、音楽が聞こえてくる。
そろそろ下校の時間だろう。
よし。もう一踏ん張り。
ゆっくりと、彼は走り出した。晩飯は妻と仲良く囲みたい。それまでに摂ったカロリーを燃やすのだ。
シリーズ小説『うらら・のら』 作 桃正宗・佳原安寿
■重複掲載WEB
https://note.com/sumica_wato2222
https://novel.daysneo.com/author/sumica_wato5656/
■プロフィール
https://note.com/yukierika_wako/n/n92424737a968
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