(6)
ゴォォォン、ゴォォォンと、法塔の鐘が低く控えめな音を震わせる。中央棟の一階だけに明かりがともる学院内で、法塔の時計の針は夜の九時をさしていた。
生徒がいる時間といない時間では、学院の鐘の響きは違う。日中は高くはずむような音色だが、人けのない時間帯に奏でる音はどこかもの悲しげだ。しかも今夜はくもっていて、月も星も見えない。
学院長室の窓辺に立って暗い夜空を眺めていたトウルバ・ヘリオトロープ学院長は、扉をたたかれてはっと我に返った。考えごとをしていたはずなのに、いつのまにかぼんやりしていたらしい。眉間を指でもみほぐして応じると、青い法衣を着た一人の小柄な老人が入ってきた。灰色の髪はかなり薄くなっているが、足取りはしっかりとしていて腰もそれほど曲がってはいない。七十歳にしてはかなり壮健なほうだろう。
「わしが最後かの」
「ええ。お世話になりました、ロードン先生」
学院長は風の法担当教官を椅子に勧め、飲み物の用意をはじめた。
「さすがに大がかりなしかけを施すのは疲れるのう」
「申し訳ありません」
長椅子に腰を下ろしたコーラル・ロードン教官が肩をたたくのを見て、苦笑する。学院長は果汁酒の入った杯をロードンに差し出し、正面に座った。
今年で四十一歳になるヘリオトロープ学院長は、ゲミノールム学院在学中、ロードン教官のもとで勉強した。異例の若さで学院長に就任したヘリオトロープに、当初他の――特に教養学科の教官から懸念の声があがったが、神法学科長でもあったロードンがうまくとりなしたおかげで、学院の運営に支障をきたすほど問題になることはなかった。ヘリオトロープも昔と変わらぬ態度で接してくれるロードンによく相談し、また他の教官の意見にも耳を傾け、決しておろそかにはしないので、今では教官たちから厚い信頼を得ている。
茶褐色の髪をかきあげて息をつく学院長に視線を投げ、ロードンは杯に口をつけた。
「そろそろ神法院も宝の置き場所に困っておるのではないか?」
虹の捜索隊などというつまらぬものを作るからと皮肉るロードンに、学院長も「まったくです」とうなずいた。
『冒険者の集い』で提示される宝は、毎回神法院が指定してくる。宝自体は歴史があり言い伝えの残っているものや価値のあるもので、神法院が念入りに調べあげて確実に存在することが認められたものだ。そして『冒険者の集い』で集められた宝はすべて神法院で保管されるのだが、神法院の真の目的は宝を集めることではない。それがわかっているだけに、毎年この時期になるとどうしても気が沈んでしまう。
そもそも冒険集団の始まりは、冒険好きな生徒たちが性別、専攻、人数に関係なく集まり、自分たちで決めた目標物を休日に探しに行くということだったのだ。生徒たちは学院で学んだ技をいかせる場を求め、珍しい宝や恐ろしい魔物の噂を聞くと足を運び、時には周りの者に武勇伝を語っていた。冒険に行けない生徒たちは彼らの話をおもしろがって聞き、冒険集団へのあこがれや尊敬の念さえいだいていたものだった。
ところが今は冒険がしたいからという理由より、虹の捜索隊になるために冒険集団を結成する生徒が増えている。虹の捜索隊になれば、特待生審査や出世に有利に働くから……ただそれだけのために。そして彼らは神法院に命じられるまま、虹の森を探し続けるのだ。
「それで、今年の仮申請はいくつあったんじゃ?」
「十六です。タウ・カエリーの集団も申し込んできました」
学院長の言葉に、ロードンは暗緑色の瞳を見開いた。
「なんと。あそこは最後の一人をなかなか決めなんだのに、誰が加わったんじゃ?」
「一回生ですよ。シータ・ガゼル、ネーロ王国出身の剣専攻生です」
「たしか入学式の日にファイを気絶させたのが、そんな名前ではなかったかの」
頭をぶつけたというからシャモア先生が動転して大変じゃったと、ロードンがぼやく。
「しかし、まさかここにきて名乗りをあげてくるとは……」
どうするのかと聞かれ、学院長は緑青色の瞳を伏せた。胸の前で揺れる首飾りをにぎりしめる学院長に、ロードンもため息をこぼし、口を閉ざした。
六人が円卓を囲んで待っていた闘技場の控え室に、くじ引きを終えたタウが姿を見せたのは、町の時計台が五時の鐘を鳴らす時分だった。あいていたローの隣に座り、ミューに渡された果汁を一息に飲み干してから、タウは一枚の紙切れを円卓に置いた。
「俺たちの探す宝は『風王の冠』に決まった」
聞いたことのない宝だった。こぶしをあごにそえ、ローがうなった。
「風王は風の神のことだろうけど、冠というのがわからないな。素直にかぶりものと考えていいのかな」
「比喩として使われている可能性もあるな。とりあえず文献をあさるのはファイ、イオタ、ミュー、ローに任せる。俺とラムダとシータは町の人から情報を集める」
風の神に関係があるものなら、風の法専攻生のファイが頼りになりそうだ。全員が承知したところで、タウが最初に卓に置いた紙をシータはのぞき込んだ。大きな文字で『風王の冠』と書かれているが、その下に『サルムの赤ん坊は産声をあげてから抱き上げること。違えれば土に戻るだろう』という記述がそえられてある。シータが尋ねると、「他の集団が探す宝の情報だ。どのくじにも一つだけ記されている」とタウが答えた。ということは、風王の冠の情報もどこかの集団が一つもっているということになる。これに関しては知り合いに声をかけて探していこうと話をして、その日シータたちは解散した。
情報収集は翌日の放課後からおこなわれた。宝の情報が入った封書はあらかじめ学院から商売人の家へ配られているので、シータたちは情報を集めるために町中の店という店を片っ端から歩いてまわることになった。親切な店の人が情報を教えるついでに果物や菓子をただでくれることもあれば、酒場で飲んだくれた客に捕まって、宝探しとは全然関係のない世間話を聞かされることもあり、作業はすんなりとは進まなかった。しかも実際に動いてみると、二週間という開催期間は長いようで短い。聞き込みなんて簡単だと最初なめていたシータは、人の話を聞いてまわるのが実はとても疲れることだというのを思い知ったが、文献担当者のように毎日本と向き合うのはもっと苦痛に違いないと考え、我慢した。
あまりにも時間がかかりすぎるので、タウとラムダは他の冒険集団と情報交換をして、行く店をできるだけけずることで時間短縮をはかる方法に出た。それでもフォーンの町は意外に広く、全部の情報を集めるにはまだまだ日にちがかかりそうだった。
数日後の夕方、シータたちはその日最後に立ち寄った靴屋から出ると、町の中央広場へと移動した。真ん中にある噴水池は、一日の仕事を終えた人の足音や馬車音、帰路を急ぐ子供たちの騒ぎ声の合間で、コポコポと一定の調べを奏でながら水を噴き上げている。
噴水池の縁に腰を落としたタウは、靴屋で仕入れた情報を冊子に書き込んだ。タウの正面に立ったシータとラムダも冊子をのぞき込む。明日はファイたち文献担当者と集まって、途中報告をする約束をしていた。タウが冊子に書きつづってきた情報も、みんなで検討して整理することになっている。
「地下水路に亡霊の泣き声か。探している宝と関係がなければいいがな」
お嬢さんがたが怖がるかもしれないとラムダがぼやく。それにうなずいて、タウも文字の羅列を見つめた。
「しかしまさかこんなにあるとはな。これでは選別にも時間がかかりそうだ」
どの話が探している宝のことを示しているのかは、自分たちで判断しなければならない。無関係だとはっきりわかるものもたくさんあるが、あやしいものも同じくらいあった。一番に行ったカラモスの武具屋で手に入れた情報は靴についてのことだったので、おそらく関わりがないだろうが、疑えばきりがない。またタウの話では、くじと一緒に書かれていた赤ん坊の宝を探している集団も、まだ見つかっていないという。どの集団も苦労しているのだと思うと、シータは少しほっとした気分になった。
「まずはこれの解読だな」
タウが書きとめている情報の一つを指でたたく。それはフォーンの町にある風の神の礼拝堂で手に入れた『大地の女神の体内にて、脈々と流るる命の鼓動、眠れる石のまなざしは、神の息吹の通り道』という言葉だった。神官の話では、国内には風の神の眷属が訪れる場所があちこちに存在するらしく、これもその一つを示しているという。七人が探している風王の冠は、どうやらそこにあるようだ。
意味のわからない文を深読みするのは苦手だった。シータがちりちり痛みだす眉間をもみほぐしていると、奇妙な視線を感じた。
中央広場からは四方に大きな道がのび、その間に小道がちょこちょこあるのだが、東へ向かう大通りに面した金物屋の前に、こげ茶色の髪をした見知らぬ中年の男が立っていた。買い物をすませたばかりなのか、茶色い紙袋を左手にかかえている。背丈はウォルナット教官と同じくらいだが細身で、不健康な顔立ちだった。おまけに人をさげすむような目つきが誰かと重なる。
「アレクトールのおやじだ」
隣で舌打ちするラムダの言葉に納得して、シータは手を打った。アレクトールの父親ということは、ピュールの父親でもある。
「あそこも武具屋を営んでいる。おやじさんの商売敵だ。もっとも、因縁は学院生時代からのようだが。そういえばあそこにはまだ話を聞いていないな」
二人にならって男を見たタウの言葉に、ラムダが渋面した。
「おいおい、冗談きついぜ。聞くだけむだに決まってるさ。わざわざ嫌な思いをすることはないだろう」
シータもラムダと同意見だった。二人に反対されてもタウはまだ迷っているふうだったが、結局男のほうが先に去ってしまった。本心は乗り気でなかったのか、タウも追いかけることはしなかった。
「タウ、あれ」
不意にラムダがタウの脇腹をひじでつついた。正面の細い路地から小走りに駆けてくるのはヘイズルたちだ。三人を見たヘイズルは口を開きかけたが、すぐに顔をそらすと肉厚な腹を重たそうに揺らしながら足早に過ぎていった。さらに取り巻きたちも無言で続き、彼らの行動にシータは違和感を覚えた。妙に落ち着きがない。
「何かあったんだろうか?」
彼らを見送るタウに、ラムダは肩をすくめた。
「さあな。あいつら、いつも後ろめたいことばかりしているから、反射的に逃げただけじゃないか?」
タウはしこりの残る表情でいたが、それ以上は口を開かなかった。シータも気になりつつ、三人はそのまま別れて帰宅した。
そして夕食を終えた頃、ラムダがシータの家にやってきた。ローが行方不明になったというのだ。
朝になってもローは帰ってこなかった。ローの父親であるモルブス・ケーティ市長は警兵を総動員する勢いで捜し続け、学院側も生徒たちに情報提供を呼びかけたが、これという吉報も凶報も得られなかった。
シータたちは放課後、学院内東隅にある風の神の礼拝堂に集まった。円錐形の青い屋根の先端には、風の神カーフの紋章である右肩上がりの『Z』が乗っている。中に入ると、中央の通路をはさんで左右に七列ずつ、背もたれのついた長椅子が並べられていた。奥には背に翼をはやし、手に弓矢を持つ風の神の石像が置かれている。耳の下あたりの長さの髪は全体的に波打ち、白い横顔は端整ですっきりとしているが、先を見通すという目はある意味冷ややかに見えた。そしてその脇には、この世で最初に風の神から法術を使う力を授けられた風の賢者が、左手に本をかかえて控えめに立っていた。帽子を目深にかぶっているので全体の顔立ちはわかりにくいが、閉じられた口元は知的な印象を受ける。石像にも関わらず、穏やかなぬくもりを感じられた。
ファイはすでに来ていた。シータたちに気づいているのかいないのか、風の神の像の前で両ひざを折り、微動だにしない。
しばらくしてパサパサッと鳥の羽音が響いた。頭上をあおぐと、窓から降りそそぐ陽射しの中で、光の粒がたわむれるように旋回している。さらに翼を広げた青白い鳥の姿がかすかに見え、シータは目をこすった。軽い羽音のわりに大きな鳥はクルルルルーと鳴きながらファイの左肩にとまると、空気に溶けて消えた。
深くため息をつき、ファイが立ち上がってシータたちをふり返った。
「だめだ。少なくともこの町の地上にはローの気配がない」
「気配がないって、まさかもう……」
「そんなはずはないわ。昨日も今日も占ってみたけど、ローは無事だという結果が出ているもの」
ミューが力強い口調で反論する。ミューの占いは当たるのか、「ミューがそう言うなら間違いないわね」とイオタが言った。
占いでローの居場所はわからないのだろうか。そう思ってシータが尋ねると、ミューは申し訳なさそうに「そこまでは無理なの」とかぶりを振った。ミューの札占いは、札がもついくつかの言葉から答えをつないで導きだすものなので、『こんな感じ』という漠然とした予想はたてられても、『どこどこにいる』というようにはっきり特定することはできないのだ。今回も『水に関係のある場所』ということくらいしかつかめなかったらしい。
「地上には見当たらないんだな? 地下はどうだ?」
「そうか、それならまだ可能性がある」
それまで腕組みをして黙っていたタウの問いかけに、ラムダがこぶしをにぎる。ファイもうなずいたが、突然がくんと前のめりに倒れた。タウが支えに入ったおかげで床に顔を打ちつけることは免れたが、もう起き上がる力が残っていないのかぐったりしている。
「たぶん疲労ね」
ファイの具合を診たミューが治癒の法をかけはじめた。
「昨日からずっと術を使い続けていたせいだろう。今日はもう休め」
「でも地下を捜さないと」
「大丈夫だから。あとは俺たちに任せろ」
ファイはただタウを見ただけで、返事をしなかった。
ミューの祈りの言葉は、シータが治療室で聞いたものとは少し違っていた。どうやら乱れた体の働きを正常に戻す術のようだが、失われた体力までは回復できないらしい。タウがファイを背負うのを眺めながら、ラムダが自分のあごをなでた。
「俺の勘だとヘイズルがあやしいな」
「誰でもそう思うわよ」
イオタがあきれ顔で突っ込む。
「明日の朝八時に闘技場に集合だ。ラムダ、一緒に来てくれ。ファイを送ったらヘイズルの手下に会いに行く。やはり昨日の連中の態度が気になる」
「ヘイズル本人をしめあげないのか?」
「白状はするだろうが、のんびり責めている時間はない。下っぱをつついたほうが早いだろう。明日はローを捜すことになるかもしれないから、みんな今夜は早く寝ること。解散」
背中のファイに気をつかっているのだろう、タウがゆっくりした歩調で去り、ラムダも続く。イオタとミューにうながされ、シータも礼拝堂を出た。ローのことは気がかりだが、今はミューの占いの結果を信じるしかない。というより、信じたかった。それに弱ったファイが痛々しい。せめてファイに対してだけでも何かできないだろうかとあれこれ思考をめぐらせていたシータの頭に、ふっと妙案が浮かんだ。
たしか植物学と薬学の共通資料に薬草がたくさん載っていたはずだ。すぐに手に入るものなら今日中に届けることができる。シータはミューたちからファイの家がどのあたりかを聞くと、大急ぎで自分の家に戻り、机の上に乱雑に積んでいた教科書をかき散らした。下のほうから出てきた資料本をめくり、体力回復の効能がある薬草をざっと調べる。見たことのないものが多く、また解説文も難しかったが、どうにか覚えのある薬草を見つけたシータは一階に駆け下りた。普段祖母が洗濯物を入れているかごをつかんで外へ飛び出す。
目指すは、フォーンの町の東部を南北に縦断するセムノテース川だ。その水面下にチカラグサは生えているらしい。
かろうじて日が沈んでしまう前にたどり着いたシータは、さっそく靴を脱ぎ捨てて川に入った。水位はひざより少し下くらいで水も澄んでいたが、目当てを一つにしぼると案外わかりにくいもので、時間ばかりがどんどん過ぎていく。おまけに『風の神が駆ける月』は泳ぐにはまだ早い。キンキンに冷えた水がこたえ、足の感覚がしだいになくなってきた。
川辺に並ぶ木々が影を落としているせいで、あたりの闇もいっそう濃く染まっていく。いらだちが募る中、シータは我慢できずに大きなくしゃみを飛ばした。と、そのときつるつるした丸い岩の後ろに群生しているチカラグサをようやく発見した。水の流れにあわせてゆらゆらと揺れている細長い青葉は、間違いなくチカラグサだ。
どれだけの量が必要なのかを確認してこなかったため、取れるだけ取ってかごに入れ、陸に上がる。これだけあれば十分たりるだろう。薬草が無事に手に入ったことで疲れが吹っ飛んだシータは、たいまつに火をつけると、まだ濡れている両足を靴に突っ込んでそのままファイの家へ向かった。
応対に出たファイの母親は温厚そうな容貌で、鼻や口元がファイと似ていた。それでも全体的な雰囲気はシャモアのほうが近いなとシータは思った。
かごいっぱいのチカラグサをファイの母親に預ける。いいことをしたと機嫌よく帰宅したシータは、ファイがチカラグサの山を見てひどく渋面したとは、これっぽっちも想像しなかった。