(3)
カラァーン、カラァーン、カラァーン……
ゲミノールム学院中央棟一階。教官たちの研究室が連なる廊下に、午後の授業の予鈴が静かにしみ込んでいく。そのうちの一室にいたファイは、開かれた窓から吹き入ってくる涼やかな風に青い瞳を細めた。
『風の神が駆ける月』に入ったせいか、風は命あるものに優しかった。中庭の木々からは鳥の羽ばたきやさえずりがよく響くようになり、噴水池の周りに敷き詰められた青草も、上質の寝床のごとくふっくらとしている。また空には薄雲が広がり、陽射しをほどよくやわらげていた。こんな日に大木の根元で木の葉のざわめきを聞きながらうたた寝をすれば、さぞかし心地よいことだろう。
この国は百十二日で一つの月を数え、四つの月で一年をめぐる。年のはじまりは『風の神が駆ける月』、それから『炎の神が奮い立つ月』『大地の女神が微笑む月』と続き、『水の女神がまどろむ月』でしめくくる。どの月にもそれぞれよさはあるが、ファイは過ごしやすい今の時期を一番気に入っていた。
「ファイ、聞いているの?」
部屋の主であり、ファイにとっては叔母にあたるシャモア・マルガリテース教官があきれ顔で尋ねる。大きな机をはさんで向かい合うファイがうなずくと、シャモアはふうと息をついた。
「ロードン先生はとても心配していらっしゃるわ。もちろんあなたの体のことよ。あなたのような人は他の人より心身に気をつけなければならないのは、何度も言っているからわかっているわね?」
コーラル・ロードンはファイが在籍する風の法の担当教官だ。七十才と教官にしては高齢だが、どこか飄々としていて、まだまだ十分現役でいけるほど元気だ。
過去に大地の女神の神殿で女神官の地位にあった叔母は、ゆるやかにうねる長い銀色の髪を揺らしてファイに近づくと、そっと頬をなでた。
「あなたが無茶をしないと約束したから、彼らと出かけるのも許可したのよ。それを忘れないでね。それから、たとえ相手に非があっても、教養学科の生徒に法術を使うのは避けること。いいわね?」
神法学科の教官は生徒と同じく、専攻の色の法衣をまとっている。シャモアも大地の女神の色である黄色い法衣を着ていた。袖には教官の印として、大地の女神の紋章である小さな正方形がぐるりと一周する形でいくつも刺繍されている。
「僕に適用される規則はできるの?」
「あなたみたいな人は何十年かに一人現れるくらいだから。ほこりのかぶるような規則は不要と学院長はお考えのようね……そこで嬉しそうな顔をしないでちょうだい」
シャモアが苦笑してファイの頬を軽くたたく。ファイがさらに微笑んでみせると、シャモアはかぶりを振った。
「本当に困った子。丸め込まれないうちに解放しないとね」
シャモアに背中を押され、ファイは扉へと向かった。途中、壁にかけられた肖像画に視線を投げる。癖のありそうな顔、すました顔、優しげな顔といろいろ並んでいるが、歴代の大地の法担当教官は大半が女性だった。
「午後の授業は?」
「合同演習だよ。その後の数秘学は小試験」
「まあ。呼び出して悪かったかしら」
「もう頭に入ってるから」
先に外へ出るファイに、シャモアは緑色の瞳をほころばせた。
「そうね、あなたは優秀だから。ヒドリー先生もあなたがお気に入りみたい。炎の法を専攻してほしかったと、会うたびにおっしゃっているわ」
「それは……」
口ごもったところで名を呼ばれた。シータが手を振りながら近づいてくる。隣には同じ剣専攻の男子生徒がいた。
ファイはシータの額に釘付けになった。左目の上に大きなこぶができていたのだ。しかも不気味なほど青黒くなっている。
「ああ、これ? 昨日のよ。家に帰ってから薬を塗ったんだけど、ますます腫れちゃって。朝一番に治療室に行ったんだけど、昨日私がヘイズル達ともめていたのを見られてたみたいで、喧嘩でのけがはお断りって追い返されちゃって。これのせいでみんな、ピュールでさえ近寄らないの」
「それは怖いからだろう。僕だって友達じゃなければ逃げてたよ」
一緒にいた少年の言葉に、シータはふくれっ面になった。
「パンテール、それって私の顔が怖いみたいじゃない」
「だから怖いんだって」
言いあう二人に品よく笑ったシャモアが、ファイをかえりみた。
「ファイ、治してあげたら?」
「え? ファイも治療できるの?」
シータが目をみはる。余計なことをと、ファイは叔母を恨んだ。
確かに自分は水の法も習っているし、治癒の法くらいなら簡単にかけられるが、期待に満ちたまなざしで待っているシータを見ると、素直に叔母の言うとおりにするのが癪に思えた。
ファイは唇の端を曲げてしばらく黙ってから、ぶっきらぼうに言った。
「気になるなら、ミューに直接頼みに行けばいい」
シータがあからさまにがっかりした表情になる。そんなシータを残して、ファイはさっさと法塔へ向かった。
あらあら、とシャモアが肩をすくめる。シータも力なく笑うと、とぼとぼと闘技場を目指した。
学院の闘技場は角柱の外観をしている。中は三層になっており、一、二階は鍛錬場、三階は鎧や兜や予備の武器などを置く倉庫として使用されている。シータたち剣専攻生は全員鎧を着て一階に集合し、本鈴とともに現れたウォルナット教官を迎えた。
「おい、見ろよあいつ」
「うわ……ひでえ」
演習の注意事項をウォルナット教官が叫んでいる間、自分へそそがれるまなざしと忍び笑いにシータはいらだった。人見知りはしないほうだが、やはり慣れない場所で知らない人間の好奇の目にさらされるのは、気分のいいものではない。
右隣に立っているパンテールはウォルナット教官の話に集中しているのか、周りの様子に気づいていないようだ。シータは左隣の同期生から同情めいた引きつり笑いをもらい、ため息をついた。今日は入学して初めて上級生と剣を交える合同演習の日なので、とても楽しみにしていたのだ。それが、目の上のこぶのおかげでだいなしになってしまった。
説明が終わり、生徒がいっせいに動きだした。パンテールは早くも自分の目当ての上級生のもとへ走っていき、他の同期生たちも積極的に声をかけてまわっている。皆が順調に相手を見つけて組んでいく中、シータは一人あてもなくうろついた。視線があうと顔をそらされるし、近づけば逃げられるので、話しかけることさえできないのだ。
そんなにこぶが気味悪いのだろうか。顔と剣の腕は関係ないのに。上級生たちの冷たい態度に腹が立ち、やけになりかけたとき、ふと人だかりが目についた。一、二回生の集団がシータのほうへ迫ってくる。というより、囲まれている人物の動きにあわせて自然とこちらへ流れてきているようだ。
あやまりながら下級生たちをかき分けてシータの前に現れたのは、タウだった。
「またずいぶんと腫れあがったな」
人相が変わりすぎだと苦笑して、タウは右手を差し出してきた。
「俺はタウ・カエリー、三回生だ。よかったら相手になるが」
周囲にどよめきが走った。タウから申し込むのは珍しいことなのか、シータを無視していた上級生たちに注目され、シータは困惑した。だがタウにいつまでも右手を出させたままにしておくわけにはいかない。値踏みするような厳しい視線をいくつも浴びながら、シータはタウと握手した。
「お願いします。私はシータ・ガゼル、一回生です」
知り合いであろうとなかろうと、名乗るのが作法である。シータとタウが組んだことで、タウに群がっていた下級生たちが残念そうにしながら散っていく。その後もしばらくざわめきはやまなかったが、シータは胸がすっとした。剣専攻生のあこがれの的であるタウに選ばれたことで自信が戻り、自分まで偉くなったような気さえした。
しかし、練習場所の確保に向かうタウに上機嫌でついていきかけたところで、シータははっとした。あいさつのときに見せた笑顔がもうタウの横顔になかったのだ。代わりに、真剣に打ち合おうとしている気持ちがその目に、口元に、表れている。
軽い気持ちで寄ってきたのではない。タウは自分の能力を確かめようとしている。そうわかり、シータは浮ついた心をひきしめた。正式に仲間と認めるかどうかの見極めは、もうすでに始まっているのだ。
そこへウォルナット教官がのしのしと大股でやってきて、興味深そうに二人を見やった。
「タウが面倒を見るのか」
ウォルナット教官の灰赤色の髪は短めだが、毛先が好きなほうを向いているせいか、こざっぱりとはしていない。あまり外見にこだわらないか、毛が頑固すぎて言うことをきかないかのどちらかだろう。
今年で三十八歳になるウォルナット教官の見た目は、一言でいえば熊を想起させる。もう少し身だしなみに気を使えばそれなりに嫁の来てもありそうだが、理想が高いのかまだ独り身らしい。だがその不精っぽさとがっしりした体格が、逆に底知れない実力を感じさせるから不思議だ。
国王の剣術指南役の候補にもなったというウォルナット教官の剣さばきを一度見てみたいが、なかなか機会に恵まれない。それでも、放課後たまに槍専攻担当教官と打ち合っているらしいと聞いたので、まめに闘技場をのぞけば、運がよければ見学できるかもしれない。
「女だというのにこぶなどこしらえているから心配したんだが、剣専攻の代表を捕まえるとはたいしたものだ」
「昨日知り合ったんです。期待の新人ですよ」
「そいつは楽しみだ。どうも血の気が多いようだから、遠慮せずにしごいてやれ」
ウォルナット教官はシータのこぶに視線を投げると豪快に笑い、離れていった。
カキィィン、キーン、ガッ
闘技場の高い天井に金属音が吸い込まれていく。他の組の邪魔にならないよう、それぞれが距離をあけて練習に励む中、シータはタウの剣筋を必死に読んで動いた。タウはシータの剣がはじき飛ばない程度に剣を重ねているようだが、かなりきつい。剣専攻の優等生であるタウには、シータがつけいるほどのすきがなかったのだ。
力ではタウに負ける。技の切れや多彩さもタウのほうが上だが、最初から勝てないとあきらめたくはない。タウが相手でも、粘れば必ず勝機は見えてくるはず。
ガキッ!
強烈な一撃がタウから繰り出された。シータはそれを受け流したが、思わず剣を落としそうになるほど手がしびれた。顔をしかめるシータを見てもタウはかすかな笑みすらのぞかせず、続けて打ち込んでくる。一回生だから、女だからとなめてかかる気はないらしい。それならそれで、とシータはタウの突きをよけ反撃に出た。
かわされてもかわされても手を休めず、シータは攻めに攻めた。防戦に入るタウの表情がけわしくなる。間でうまくついてくるタウの鋭い振りにも臆さず積極的に打って出るシータに、タウが赤い瞳をすがめた。いっそう激しくなるタウの攻撃に、シータも負けじと打ち返し、食らいつく。
いつの間にか、周囲の生徒たちの動きがとまっていた。闘技場内に反響していたいくつもの剣音は徐々に減っていき、反対にシータとタウが放つ音は強く、大きくなっていく。皆が見守る中、シータはタウを徐々に後退させた。
ここで一勝できればタウに認めてもらえるはずだ。そしてついにその機会がやってきた。タウの呼吸と剣の動きがずれたのだ。
見出したわずかなすきを狙ったシータはしかし、肩に力が入った。シータのたった一度の大振りを、タウもまた見逃さなかった。
剣をはね飛ばされて無防備にひらいた胸元に、タウの剣が突きつけられる。シータはとっさに身をのけぞらせてかわしたが、そのまま体勢を崩して床に尻をついた。起き上がる間もなく、タウの剣先がシータの喉元で光る。負けた――。
あと一歩だったのに。シータは悔しさのあまり、切れるほど唇をかんだ。タウが乱れた息を整えながら剣をひく。最後まで厳しい光をたたえていたその瞳が、ふっと柔らかくなった。
「いい腕だ」
シータは目をみはり、タウを見上げた。ほめられた……自分の力が認められたのか。
タウの手を借りて立ち上がったものの、握った手がやけに熱く感じられた。
昨日闘技場で会ったときより、タウとの距離がぐっと近くなったような気がした。戦う者としての仲間意識みたいなものが、シータの中に芽生え、タウとも心が通じ合えたように思える。
自分より強い人間はまだまだたくさんいる。今後の目標の一人となったタウを、シータはしっかりと見返した。いつか必ずタウの剣をはね飛ばしてみせると。
「入学式で剣専攻生代表にならなかったのが不思議なくらいだな」
「パンテールのほうが素行がいいから」
納得したのかタウが発笑する。剣を鞘に戻そうとしたシータは、そのときになってようやく自分の剣が悲惨な状態になっていることに気がついた。
「うわあ……」
刃こぼれしている。タウとの一戦が相当ひびいたのだろうか。
かなり使い込んでいたものだし、そろそろ買い替え時かもしれない。
「欠けたのか。いい武具屋を知っているから、今日の帰りに寄ってみるか」
タウからの誘いにシータはうなずいた。そして剣をしまい、タウと一緒に休憩をとろうとしたところで、パンテールやタウの友人らしい上級生たちが寄ってきた。
「君、いい動きをするね。どこで習ったの? タウに汗をかかせる下級生なんて、そうそういないよ」
「すごいじゃないか、シータ」
見ると他の生徒たちの視線もシータに集まっている。最初シータのたんこぶにそそがれていたものとはまったく違う皆のまなざしに、シータは照れ笑いながもふんぞり返った。
「タウ、いつ知り合ったんだ?」
「昨日だ。ローが俺たちのところへ連れてきた」
「またローか。たしかファイを引っ張り込んだのもローだったよな。本当に人材を集めるのがうまいことで」
「なんだ、もう買い手が決まっているのか? そいつは残念だ」
あらたに輪に加わってきたのは、入学式後に案内してくれたバトス・テルソンだった。同じように下級生を相手にしていたはずなのに、バトスの鳩羽色の瞳に疲労の影はなく、茶褐色の髪も乱れていない。実力は常に二番だと言っていたのは本当なのかもしれない。今度手合わせをしてもらおうかと考えたシータに、バトスはにやにやしながら言った。
「見事な剣さばきだったな。さすが、ファイ・キュグニーを吹っ飛ばすだけのことはある」
「お願いだからもう忘れてください」
きっとそのせいでファイは治療をしてくれなかったのだ。
頭をかかえるシータにバトスが大笑する。顔見知りかと尋ねるタウに、バトスが案内係だったことをシータは告げた。
そのとき、窓外を横切る影があった。鳥にしては大きすぎる。シータは窓から身を乗り出して、あっと叫んだ。
「タウ、あれっ」
呼ばれて外を見たタウは、「あれがどうかしたか?」と不思議そうな顔をした。
「驚かないの? ファイが飛んでいるのにっ」
「見慣れているからな。まあ、あそこまで高く飛ぶ者はなかなかいないから、そういう意味では珍しいが。風の法専攻生が飛翔術を実習しているんだ。『翼の法』とか言っていたか」
向こうも合同演習らしく、法塔の前で風の法担当のコーラル・ロードン教官が一回生らしき生徒たちに指示を出している。青い法衣をまとった専攻生たちは呪文を唱えているのか、真剣な顔で口を動かし、最後に杖で大きく宙に右肩上がりの『Z』を描いた。しばらくは何も起きなかったが、やがて大小の風が発生し、数人の生徒の体が浮きはじめた。
うまく操れないのか空中で両手足をばたつかせている者もいれば、コツをつかんで徐々に距離をのばしていく者もいる。一方でまだ地上から離れられず、うらやましげに頭上をあおぐ生徒の姿もあった。二、三回生はさすがに全員飛べるらしく、あちこちで青い法衣をはためかせて空を翔けているが、中でもファイの飛行はずば抜けて速くなめらかだった。
「さすがは『神々の寵児』だな。空一つ飛ぶのにも他の者とは違う」
「何それ?」
聞き慣れない言葉をシータは問い返した。イオタやミューの受け売りだが、とタウは説明した。
「武闘学科は受験時に実技があるが、神法学科は神法士として適正があるかどうかを見る。その試験の中に『守護の儀式』があるそうだ。人間に力を貸してくれる神は基本的に、炎の神レオニス、大地の女神サルム、風の神カーフ、水の女神エルライだが、普通は一人の人間を守護する神も一神だ。だから神法学科生は合格したら、その儀式で応えてくれた神の法を専攻する」
「じゃあ、自分の希望どおりに専攻できるわけじゃないのね」
「そういうことになるな。ところがその儀式で、ファイの呼びかけにはすべての神が応じてくれたらしい。何十年かに一人しか生まれない特異な人間だから、そのときは学院内が大騒ぎだった。結局ファイは専攻を自分で選ぶことになって、風の法を選択したというわけだ。またそこで風の法を専攻するあたりがさすがだが」
「風の法って特殊なの?」
「他の法はそれぞれ中心となるもの、たとえば水の法なら治療、炎の法なら攻撃、大地の法なら防御の法術があって、補助の法術は予備のような形として学ぶそうだ。神法学科は神法士の素質をもった者しか入れないから、専攻生は皆それなりに術を使えるようだが、風の法には攻撃も防御もある分、主となる法術がない。だから風の法専攻生の法術は弱いか万能か、どちらかにはっきりわかれる」
シータは小首をかしげた。
「それなら自分で攻撃系とか防御系とか、方向性を決めればいいのに」
「俺も同じように思ったんだが、そんな簡単な問題ではないらしい。中心になるものがないということは、逆に言えばすべてが法術の要として存在するということだ。そのせいか攻撃系にしぼって習練しても上達しなくて、他の術も平均して学んでいってはじめて威力を発揮できるそうだ。他の法術以上に術者の能力や学ぶ速さに左右される。そこが風の法が特殊だと言われる理由だ」
「そんなことをしていたら、三年間なんてあっという間なんじゃ……」
「ああ。だから、風の法専攻生で在学中に実践で役立つほど実力をつける者は少ないようだ。おかげで今までちょっと軽んじられていたところがあるんだが、ファイが来てからは風の法を見直す人間が増えてきたらしい。それから、ファイの杖には専攻している風の紋章石がはめ込まれているが、他の三つの紋章石も隠されている。ロードン先生のはからいで風の法以外の法術も習っているから、ファイはすべての法術を使える貴重な存在というわけだ」
なるほどとシータは納得した。だからファイは有名だったのか。
いくら使えるからといっても、専攻以外の法術まで覚えようとするのはすごい。教科書を開いただけで眠くなる自分には考えられないことだ。パンテールもそうだが、勉強が好きな人間はいるんだなと感心していると、頭にゴンッとこぶしが落ちてきた。後ろをふり向いた二人に、こめかみをひくつかせるウォルナット教官のいかつい顔が迫る。
「授業中に馴れ合うなっ馬鹿者ーっ!!」
腹の底までビリビリと響く怒声が、闘技場を震わせた。
放課後、シータはタウとラムダに連れられ、とある武具屋に足を運んだ。赤い屋根の店はこぢんまりとしているが、看板は新しくつけたばかりのようにきれいで好感がもてる。入り口も丁寧に掃除されていて、蜘蛛の巣はおろか土ぼこりすらなかった。
「こんにちは、おやじさん」
「おう、タウか」
武具屋の木戸を押して店に入った三人に、勘定台の奥から張りのある声が投げられる。座って何かをしていたらしく、店の主は顔だけをのぞかせた。
「今日はずいぶんな強面を連れてるじゃねえか」
「俺たちの集団に仮参加することになったんだ。名前はシータ・ガゼル。一回生だ」
「よ、よろしくお願いします」
シータがおずおずとあいさつすると、店主ははげた頭をなでながら勘定台から出てきた。シータにぬっと顔を近づける。年はウォルナット教官と近そうだが、ウォルナット教官より上背があり肩幅も広い、かなりの巨体だ。
苔色の瞳でひとしきりシータを観察した店主は、茶色いひげに覆われた口を大きく開けて笑った。
「見事なたんこぶだな。気に入った。俺はカラモス。この店の主だ」
快活に自己紹介され、シータはほっとした。外見ほど怖い人ではないらしい。
カラモスはシータの腰にさげられた剣に視線を落とした。
「お前さんは剣専攻か? どれ、見せてみな」
言われるままシータは剣を鞘ごとカラモスに渡した。
「俺との練習で刃こぼれしたらしくて。シータに合う剣を見立ててほしいんだ」
「下級生相手に本気になったのか?」
「手を抜けば負けてたよ」
「練習だろうが? 時には勝たせて、やる気を出させるのも上級生の務めってもんだろ」
「そんなの嫌っ」
剣を振るときはいつも本気でなければならない。タウより先に反論したシータに、カラモスは大笑した。
「そうか、そうだな。すまんすまん。さすがは剣専攻生だ」
カラモスに背中をたたかれ、シータは涙目で咳き込んだ。体格も立派だが力の強さも半端ではない。こういうときは手加減してくれていいのに。
「ちょっと待ってな。お前さんにぴったりの剣を持ってきてやる」
カラモスが勘定台の奥の部屋へ消えていったので、三人は店に飾られている武具を見物してまわった。陳列されているのはいかにも重そうな鎧や兜だが、カラモスが毎日きちんと手入れしているのか輝いている。これを着るのはまだまだ先だなと思いながら眺めていたシータは、勘定台のすぐそばに置かれている装身具に目をとめた。
首飾りはどれも革ひもにいろいろな色の小さな袋が一つついているだけだったが、不思議と情感があふれていた。シータが手に取ると、背後からタウがのぞき込んできた。
「それ、おやじさんの奥さんの手作りらしいぞ。好きな人といつも一緒にいられるよう、髪の毛などを入れて持ち歩くそうだ」
「おやじさんの奥さん、すごい美人だぞ」
ラムダも寄ってくる。
「なんでもおやじさんが冒険者だった頃、奥さんが贈ったらしい。おやじさんの身を守ってくれるよう、サルムの森の洞窟付近に生えている蔓草をわざわざ取りに行って編んだっていうからすごいよな。効果が抜群のお守りだとかで、けっこう売れているみたいだぞ」
「それを身につけるようになったら、お前たちも一人前の冒険者ということだな」
一振りの剣を持ってカラモスが戻ってくる。カラモスの手の内ではか細く見えた剣は、シータの手に渡ると立派なものに変化した。シータは剣を抜き、その場で二度三度振ってみた。
「すごい。使いやすい」
新品とは思えないほど剣はしっかりとシータの手におさまり、なじんでいる。重さもいい具合だ。
欲しい。いくらするんだろうとシータが上目づかいにカラモスを見ると、カラモスはにやりと笑った。
「お代は無料だ。お前さんがゲミノールム学院武闘学科に入学した祝いと、刃こぼれするくらい俺の愛弟子と本気でぶつかった、その心意気をたたえてな」
「おじさん、ありがとうっ」
シータは剣が抜き身なのも忘れてカラモスに抱きついた。「馬鹿、危ねえだろうがっ」と怒鳴られて、慌てて剣を鞘に戻す。
「まったく……あとは立派な剣士になって、こいつをくれる相手をつかまえることだな」
カラモスがお守りを指さしたところで扉が開き、赤や銀色の法衣をまとった女生徒数人が入ってきた。しかしシータたちを見ると悲鳴をあげてすぐに出ていった。正確には、彼女たちの目はタウに向けられていたのだが。
「お客さんが逃げちまったじゃねえか。ラムダはともかく、タウがいたんじゃ商売の邪魔だ」
カラモスが舌打ちする。どうやら彼女たちが買おうとしていたのはお守りで、しかも渡したい相手はタウだったようだ。さすがに贈りたい本人を目の前にして、お守りを買う勇気はなかったのだろう。
「ひどいよ、おやじさん。タウほどじゃないけど、俺だって人気あるんだぜ」
口の端をゆがめて抗議するラムダにカラモスは笑った。
「そんなことはわかってるよ。だがお前はもう相手をしぼっているだろうが」
「ラムダって恋人がいたの?」
初耳だ。目をみはるシータに、カラモスは右の眉をはね上げた。
「なんだ、知らないのか? こいつはな……」
「うわっ、ちょっと待った! おやじさん、勘弁してくれよ」
ラムダが慌てた様子でとめに入る。カラモスは苔色の瞳を細めると、ラムダの胸を人さし指で突いた。
「ははーん。さてはお前、まだ打ち明けてねえな? まったく、図体ばかりでかくなって気は小せえままなんだから」
「おやじさんに言われたくないよ。結局自分から言えずに奥さんから求婚させたくせに」
「ぬう。人の古傷をえぐりやがったな」
カラモスがラムダをはがいじめにする。ラムダは抵抗したが、がっちりつかまれてびくともしない。
「ぐわっ、おい、助けてくれえっ」
ラムダからの援護要請に、シータはどうするのかとタウを見たが、タウは肩をすくめただけだった。確かに、三人の中で一番大柄のラムダでさえかなわないのだから、自分たちが加わったところで変わらないだろう。シータはラムダの叫び声が聞こえないふりをしてタウに尋ねた。
「タウって、もしかしてお守りをいっぱいもらってるんじゃない?」
パンテールや同期生から、タウは武闘学科だけでなく神法学科でも男女問わず人気が高いと聞いている。おそらく教養学科でも同じ状態だろう。
「お前ら、よくも見捨てたな」
「重っ……!?」
ようやくカラモスから解放されたラムダが、ぜえぜえ言いながらシータの肩にのしかかる。全体重を預けられ、シータはそのままつぶれた。タウが苦笑しながら「すまん」とあやまると、ラムダは鼻を鳴らしてシータから離れた。
軽くなった体を起こし、シータは息をついた。ほんの短い時間だったのに、足ががくがくしている。もしラムダと武器を交える機会があれば気をつけなければ、タウ以上に重い攻撃がきそうだ。
「こいつ、いろんな子から渡されるのに全部断ってるんだぞ」
ラムダが赤い袋のついたお守りを一つつかみ、タウに視線を投げた。
「本来の意味に反するから受け取らないだけだ。大切に思う相手からの贈り物なら、俺は身につける」
「いい心がけだ。さすがは俺の愛弟子」
カラモスがタウの肩に腕をまわす。タウは親指でカラモスをさした。
「俺の剣はおやじさん仕込みなんだ」
「さすがに現役の頃よりは腕が落ちたがな。今は三回に一回は負ける。こいつは強くなったよ。これからまだまだ強くなる」
タウの金髪をかき乱すカラモスの瞳は優しい。話によると、カラモスは弟子をとったことがなかったが、タウだけは教える気になり、ゲミノールム学院に入学するまでほぼ毎日練習につきあっていたという。
入学してからも二人が時々打ち合っていると聞き、シータは自分の母を思い出した。
ネーロ王国第一王女の近衛兵だった母は、休暇のたびに自分に剣技を教えてくれた。女性でも男性と対等に戦えるような有効な武器の振るい方、そして体術も学び、それを活かして男の子たちと勝負するのが楽しかった。
刺客に襲われた第一王女を守って命を落としてしまったため、もう二度と母と刃を交えることはできないけれど、思い出は受け継いだ技とともに、自分の中にある。
いつかネーロ王国をまた訪れる機会ができたとき、さすがはあの母の娘だと言ってもらえるよう、腕をみがいておきたい――シータは改めてそう思った。




