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風王の冠  作者: たき
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(10)

 カーン、カーン、カーン、と、中央広場の時計塔がやや高音の鐘を青空に八つ響かせる。町の闘技場に着いたシータが部屋の扉を開けると、朝日が目をくらませた。見物窓から差し込んでくる今日の陽射しは、いつもより一段とまぶしい。

「全員そろったな。出発するか」

 卓上の地図を丸めたタウの一声に、皆が荷を背負う。ローを捜すため地下水路に下りた日より、持ち物は少し多かった。何があるかわからないので、食料や予備のたいまつなどを、負担にならない範囲内いっぱいで用意したのだ。

 地下水路の入り口はあれから誰も出入りしていないのか、格子門ははずれたままになっていた。さっそく階段を下りた七人は地図を頼りに、まず石碑を目指した。たいまつを手にしたラムダと地図を持つタウが先頭を行き、ミューとイオタ、ファイが続く。シータはローと一緒に最後尾を歩くことになった。

 脇の水路を流れる水の勢いは先日と変わらず、サアァーッと風のように涼やかな音を奏でていたかと思うと、急にザザーッ、ザバーッと激しくなる。普段の声では響きすぎるので、七人は少し小声で言葉をかわしながら歩いていたが、自分たち以外に人の気配がない場所というのは何度来てもなじめないなとシータは思った。イオタなどは、たいまつの明かりがなぞった壁に奇妙な形のしみがあるたびにびくついている。

 途中、ラムダが木の扉を破壊したせいで生首と戦うはめになった部屋をのぞくと、傷んでところどころ穴のあいている床は湿り気のあるほこりをかぶりつつあった。どう好意的に見ても、人が住む場所ではない。それなのにあの生首は、何年も何年もじっと耐えてきたのだ。いつか復活できるという期待を胸に――。

「僕もみんなの戦いぶりを見たかったな」

 ローが室内に視線を投げながらぼやいた。けっこう無様な姿をさらしたので、あまり思い出したくなかったシータは苦笑いを漏らした。

 トトトトッ……

 つと、軽い足音が聞こえた。周囲を見回したが、それらしき生き物はいなかった。たぶんドブネズミだろうが、この前のように集団で襲ってくる気配はない。とはいえ、きっと息をひそめてこちらの様子をうかがっているだろうから、油断はできない。目的地までは邪魔されそうにないが、はたして帰りもすんなり通してくれるかどうか。

 先頭のタウとラムダもあたりを警戒しながら足を進めていたが、やがてかすれた音が聞こえはじめたところで一度立ちどまった。

 ヒイィィィ……ヒャアァァァァ

 響いてくるのは『亡霊の泣き声』だ。二人は他の五人をふり返り、このまま行くのを再確認するかのようにうなずくと、また歩きだした。

『眠れる石』は前回訪れたときと同様に、ひっそりとそこにあった。半円形の石は椅子の背もたれほどの大きさなので、薄闇の中ではそれほど目立たないが、重要な手がかりだとわかった今は存在感をもっている。

 ヒョォォォォ……ヒャァァァァァ

 湿った闇の広がる奥から、もの悲しげな声が流れてくる。イオタが両腕をさすった。

「嫌だわ。気味が悪い」

「神の息吹ということなら、そんな危険なものじゃないと思うから、怖がるだけ損だよ。案外どこかに風穴があって、その音かもしれないし」

 ローが笑う。確かに、靴屋で仕入れた情報は『亡霊の泣き声』だが、礼拝堂で手に入れた言葉では『神の息吹の通り道』と表現されていた。それにここでみんなを待っていたローは無事だったし、あやしいものに敏感そうなファイも何も言わないのだから、大丈夫だろう。シータがそう思ってかえりみたファイはしかし、予想に反して唇をかたく結び、これから向かう闇を凝視していた。

「どうかしたの?」

 まさか妙なものの気配を感じているのか。心配になって尋ねたシータに、ファイは何か言いたげに青い瞳を揺らしたが、ふいと顔をそらした。

「何でもない。たぶん気のせいだ」

 とても『何でもない』ようには見えない。シータはさらに問いただそうとしたが、先頭のタウが動いたために話はそこで途切れた。

 奥にあったのは、地下水路にしては大きすぎる広間だった。タウとラムダがたいまつで周囲を照らすと、石の台座が四隅に冷ややかに浮かび上がった。台座にはそれぞれ一つずつ、大きな紋章石が乗せられている。

 まるで四方を囲まれているようで、あまりいい気分ではない。相変わらず不気味な音は大きく響いているのに、風穴らしきものも見当たらなかった。

「行きどまりか?」

「いや、しかけがあるんだろう。神の台座と方角は……ばらばらだな」

 地図を持つタウが方位を確認する。東を司る風の神カーフは南に、南を司る炎の神レオニスは北に、北を司る水の女神エルライは西に、西を司る大地の女神サルムは東にそれぞれ据え置かれていた。

「こんな地下に風の神の眷属が出入りしているなんて、おもしろいね」

 ローの好奇心いっぱいの発言に、緊迫していた空気がふっとゆるんだ。ローの言うとおり、風とは一見無関係に思える地下に風の神の眷属が訪れる場所があるのは、とても不思議だ。ここに隠されている道を開けば、風王の冠にたどり着ける――そう考えるとシータもどきどきしてきた。

「台座を正しい位置にもっていけないかな」

 シータの提案にラムダが動いた。ラムダはそばにあった水の女神の台座に近づくと、丸い紋章石をこぶしで軽く打った。

「無理だな。きっちり四隅に置かれているから押せない。縄で引っ張ることは可能だが、かなり重そうだ……っと」

 ラムダだけでなく、全員が目をみはった。台座が急に光りはじめたのだ。

「泉が炎をあおぐとき……?」

 台座に突然浮き出た文字を読んだラムダは、北に置かれている炎の神の台座に走った。しかし何も起こらない。三角形の紋章石をたたいても文字は現れなかった。それからラムダは大地の女神の台座、風の神の台座と順番に移動したが、やはり反応はなかった。

「イオタ……タウでもいい。炎の神の台座に行ってみてくれないか?」

 ローに言われ、タウが炎の紋章石の台座へ歩み寄った。とたん、台座が明るくなって文字が現れる。ヒイイヤァァァと風の音がひときわ高く鳴った。

「炎は風にあおられん」

 タウが書かれている言葉を読む。関連性を探していたシータは、ぱっとひらめいた可能性に興奮した。自分の読みが当たっていれば――ローが告げるより先に風の神の台座へと駆けていく。期待どおり、あぶり出されたように台座に文字が姿を見せた。そこには『風は大地より生まれ』とあった。

「ロー、わかったよっ」

 叫ぶシータにローも嬉しそうな顔を見せる。ローが大地の女神の台座に行くと、『大地は泉に手をかざす』と文字が光った。

「守護神か」

 タウが納得した容相で、鍵となっていた答えを口にする。

「言葉の流れからすると、『風は大地より生まれ、大地は泉に手をかざす。泉が炎をあおぐとき、炎は風にあおられん』といったところか。だがこの先は?」

 また行き詰まり、七人は黙り込んだ。解決の糸口が見えそうで見えない。シータはローを当てにして視線を投げた。

「うん、いけると思う」

 台座を数えるように人指し指を動かしていたローは、口元をほころばせた。

「きっと二重のしかけになっているんだ。最初はそれぞれの神の守護を受ける者が台座に近づけば文字が浮き上がるようになっていて、次はたぶん本来の位置に正しく力を送れば道が開ける」

「紋章を無視するのか?」

 ラムダがいぶかしげに問う。こぶしをあごにそえていたタウがうなずいた。

「やってみる価値はあるだろう。ロー、力を送る順番は関係あると思うか?」

「おそらく」

「それなら最初はファイだな」

 タウにうながされ、ファイは大地の女神の台座を見やった。

「ローの言うとおりなら、紋章石をかざすだけで反応が起きるはずだ」

「石には石を、ね」

 イオタが言葉を続ける。ファイは本来風の神が司る東に置かれている大地の紋章石の台座へ進み寄ると、その手の杖についている風の紋章石を大地の紋章石へ近づけた。

 風の紋章石が青く光ると同時に、四角い大地の紋章石がファァーッと輝いた。二つを囲んで小さな風の渦が生じる。と、いきなり大地の紋章石が砕け散り、中から青い光を発する風の紋章石が現れた。まさに『風は大地より生まれ』たのだ。

 ファイは続けて西にある水の紋章石の台座へ移ると、西を司る大地の女神の紋章石をかざした。まもなく『大地は泉に手をかざす』の言葉が示すとおり、大地の紋章石と水の紋章石が共鳴し、水の紋章石がパキィィンと割れて黄色い大地の紋章石が出現した。

「よし、次はミューだ」

 ローの呼びかけに、杖を手にしたミューが北にある炎の紋章石へ向かう。てっきりファイが一人で片づけるものと思っていたシータは、当たり前のように戻ってくるファイにとまどい、はっとした。

 すべての法術を扱えるファイは、間違いなくこの集団の財産だ。だが水や炎の法術が必要なとき、ファイはミューとイオタの補助をすることはあっても、二人を差し置いて術を使うようなことはしない。力の使い方に境界線を引いているのだ。

 全員で冒険をしているのだという意識が常に頭にある。そんな六人の輪に入れたことを、シータは嬉しく思った。

 自分もこの中で力を奮いたい。だがあせってはだめだ。みんなと同じように、ここぞというところで存分に発揮できるようにしておこう。シータははやる気持ちをそう落ち着かせた。

「最後は私ね」

 ミューが炎の紋章石に隠されていた水の紋章石を無事に出した後、イオタが意気揚々と南にある風の紋章石に近づいた。残った言葉は『炎は風にあおられん』だ。タウが剣を抜き、ラムダも槍を構える。何が起こるかわからないため、シータも剣をにぎった。武闘学科生三人の後ろでファイとミュー、ローが周囲に気を配る。まるで秘密をあばかれるのを妨害するかのごとく、フオォォォォ、オオオオーッと不気味なうなり声が一面に反響した。

 イオタの炎の紋章石と風の紋章石が光を放ち、風の紋章石がバンッと吹き飛ぶ。中から現れた炎の紋章石が赤く輝いたとき、風の紋章石のそばの壁がぐにゃりと揺れ、鉄の扉が出現した。

「幻視の術ね」

 イオタが深黄色の瞳をすがめる。全部壁だと思っていたが、目くらましの術がかけられていたのだ。

「風は我、炎は水面の己にして、大地と水は傍観者なり」

 扉に刻まれている古代語をローが読む。何を指しているのか見当もつかない。シータの隣で、ラムダもお手上げとばかりに首をすくめた。

「扉に彫られているということは、この奥に関係しているのだろうか」

「可能性は高いね」

 タウの意見を肯定したローも、言葉の意味まではさすがに解読できないようだ。すべては扉を開けてみないとわからないということか。

「行こう」

 タウが扉の傍らに立ってたいまつで扉を照らし、ラムダが取っ手に手をかける。しかしラムダの精一杯の力でもってしても、扉はびくともしなかった。

 扉を引っ張った影響か、天井が振動し、パラパラと塵が降ってきた。

「もしかして法術で封印されてるってことはないのか?」

 ついに力つきてラムダが腰を落とす。神法学科生三人が扉を注視したが、三人とも否定した。

「術の力は感じられないわね」

「だったら法術で吹き飛ばせないか?」

 ラムダの案に、まずファイが風の法を扉にぶつけた。だがかたく閉ざされた扉はきしみもしない。続けてイオタが炎を放ったが、かすかにこげ目がついたくらいだった。そこで今度はファイとイオタが連携して風と炎を同時にかけあわせてみたが、やはり扉はどっしりと七人の前に立ちふさがったままだった。

「もうっ、ふてぶてしい扉ね」

 イオタが苦々しげに吐き捨てる。それまでずっと扉を見つめていたタウが、さびた取っ手の下をそっとなでた。

「鍵穴がある」

 壁土のつまった鍵穴のへこみを確認したラムダは小鼻をふくらませた。

「それなら俺の出番だな」

 扉の前で片ひざをついたラムダは背負っていた荷物を下ろすと、中から工具を取り出した。まず鍵穴を埋めつくす壁土を除いていく。作業に集中するラムダの頭に、天井からまた塵が落ちてきた。のしっ、のしっと足音のようなものが聞こえたのは、気のせいだろうか。

「ラムダは錠前屋の息子でね、鍵開けが得意なのよ」

 ミューの説明に納得したシータはふと、あの気味の悪いかすれ声が後ろからすることに気づいた。ふり返るとファイが一点を見据えている。同じ方向に視線をやったシータは息をのんだ。

 広間の入り口の真上、天井に大きな穴が開いていた。さらに降ってくる塵と天井の揺れはそちらのほうへ移動していっている。

 穴の奥は闇に包まれて何も見えないのに、奇妙な不安にさいなまれた。あるいは見えないからこそ、感じることができたのかもしれない。

 鼓動が速くなる。シータが尋ねようとしたそのとき、ファイが警戒をうながした。

「何かいる」

 全員が後ろを見向く。ラムダ、タウがシータの隣に出て、イオタ、ミュー、ファイが下がる。ローは二本のたいまつを死守するべく、神法学科生三人とともに後方に移った。

 沈黙がじわじわと恐怖を広げる。シータの緊張が頂点に達した刹那、黒いかたまりが天井から落下してきた。

 ドオオオォォォン!

 床が激しく縦揺れし、塵芥が視界をにごらせた。咳き込みながら薄目に正面をとらえたシータは、叫び声を詰まらせた。

ヒァァァァァ、ヒイィィィィ

 大きい。大きすぎるドブネズミがそこにいた。広間の約五分の一を満たす横幅に天井まで届く背丈。その口から漏れるのは、ずっと聞こえていた不快な音――ドブネズミの呼吸だったのだ。

 キイイイイィィィッ!

「ちょっとちょっと、誰よ、風穴だなんて言ったのは!?」

 空気を震わせるドブネズミの鳴き声にイオタが耳をふさぐ。まるでネズミに食われた人間が腹の中で嘆き悲しんでいるようだ。

「力と戦の支援者にして荒ぶる炎の神レオニス。王の眷属たる我と我に与する者たちに覇者の祝福を!!」

 イオタがやけくそ気味な早口で勇みの法を発動させる。みなぎる力に怖じけていた気持ちが一掃され、シータは攻撃に踏み切った。飛び出すのが少し早すぎたかと思ったが、ラムダがあわせてついてきてくれた。そのままネズミの右側をラムダが、左側をシータが狙う。

 キイイィィィアアアアァァァァッ

 槍と剣を同時に受けたネズミは狂ったようにもがき、前足にたたき払われたラムダが炎の紋章石の乗っている台座に激突した。かろうじてネズミの反撃をかわしたシータは安全な場所まで退き、よそ見をしたネズミの体をタウが駆けのぼって剣をなぐ。左目を斬りつけられ、ネズミが咆哮した。

生命(いのち)の滴を司りし水の女神エルライ。女王の眷属たるかの者に癒しの口づけを。血は血より、肉は肉より返らん!!」

 台座で左腕を深く切ったラムダにミューが治癒の法を唱える。そこへさらに狂暴化したドブネズミが突進した。

「よけろラムダ!!」

 タウの忠告も間に合わない。ドオッドオッドオッドオッと迫るドブネズミに、ラムダは槍を構えた。

 一人ではかなわない。シータがタウとともに地を蹴ったとき、ファイの詠唱が高らかに響いた。

「大気を司りし風の神カーフ。我は請う、我に仇なすものに疾風の爪牙を!!」

 ザシュゥッ

 ギイイイイエエエエエェェェ!

 風の刃にぶ厚い体の右半分をえぐられ、ドブネズミはのたうちまわった。容赦ない破壊力にシータは寒気を覚えた。

「よし、復活っ」

 完全に傷の癒えたラムダが槍を振るう。左前足のひっかきをかわし、ラムダは槍の先端をネズミの左胸に突き刺した。一瞬動きのとまったネズミの首に、右斜め横から飛んだシータが三分の一ほど切り込みを入れる。残る三分の二を、続くタウが左側から攻めた。ラムダが槍を引き抜いて離れると、イオタが転がる頭ごとネズミを炎で焼き滅ばした。

 悪臭がたちこめた。煙が目にしみて涙が出てくる。シータがまぶたを閉じると、風のうなりが聞こえた。まさかもう一匹いるのかとあせったが、どうやらファイが法術で風を起こし、有害な煙を吹き飛ばしにかかったらしい。じきに煙は穴の開いた天井から外に流れ、代わりに満ちてきた澄んだ空気をシータは思う存分吸った。

 予想外の、しかも巨大な敵との戦闘で張り詰めていた緊張がほどけ、みんなぐったりとその場に座り込んだ。と、背伸びをしながらあおむけに倒れたラムダが眉根を寄せた。

「ん? 何だ?」

 背中の下に手を入れたラムダは、黒ずんだ鍵をつかんでいた。

「これ、扉の鍵じゃないか?」

「あのドブネズミが持っていたのか。番人だったんだな」

 タウもラムダのそばに行って鍵を確認する。

「そうとわかればさっさと開けてよ」

「無理だ。使えない」

 上体を起こしたラムダはかぶりを振った。

「熱で形が変化している」

「何よ、私のせいだと言いたいの? だいたいねえ、あんなネズミがここの鍵を持っているなんて知るわけないじゃない。それにいつまでも醜い死体を転がせておくなんて、私の美意識に反するわ」

「いや、別に責めるつもりじゃなかったから。悪かった」

 いきりたつイオタをラムダがなだめる。素直にあやまられて少し気が晴れたのか、それとも逆に自分にも非があると思いなおしたのか、イオタはぷいと顔をそらした。

「もともと鍵のない状態で開けようとしていたしな。任せとけって」

 ラムダはイオタに向けて親指を立てると鍵を捨て、作業を再開した。節くれだった手で器用に工具を操っていく。ラムダの額やあごにたまる汗を時折ミューが布でふいてやった。

 やがてカチッと鍵の開く音がした。一仕事終えたラムダはミューから水筒を受け取り、うまそうに水をがぶ飲みした。

「さて、いよいよだ」

 荷物を背負ったラムダが槍を手に立つ。ラムダの手でゆっくりと開かれた鉄の扉の向こうに、シータは目を凝らした。

 そこに水路はなかった。壁も天井も自然の岩でできていて、人が一人通れるかどうかという細い土の道がずっと先まで続いている。まるで異世界の入り口に立っているかのようだ。

「行くか」

 弱まるたいまつの炎を消さないように注意しながらタウが最初に踏み込み、ラムダ、イオタ、ミュー、ローが入る。シータの前にいたファイは、ラムダが投げた鍵をいぶかしげに見やってからみんなの後を追った。

 ピチャン……ピチャン……

 水滴の落ちる音が暗い空間に響く。ごつごつした岩壁に囲まれた通路は、全体的に湿っている地下水路の中でも、さらに湿気が多い気がした。水気が重みをもってまとわりついてくる、そんな感じだ。しかもゆるやかな下り坂になっている。空とはどんどん離れていくこの先に、本当に風蜘蛛はいるのだろうか。

 進むにつれて、道は縦横の幅がどんどんせばまっていった。そのため一番大柄のラムダは、途中から頭をかがめて歩かなければならなくなった。それでなくとも地中深くに入り込んでいくことは不安なのに、あまりにもせまい空間が続くと息苦しくなってくる。いいかげん嫌気がさしてきたところで、ついには体を横に滑らせて壁と壁のすきまをぬうはめになった。

 無意味に叫びたくなったシータの眼前が、そのとき急にひらけた。一面に広がるのは幾分にごりぎみの地底湖。国一番のエルライ湖の大きさにはほど遠いが、水をたっぷりはったこの地底湖もかなりの幅があった。

「すごい……こんなところに湖があるなんて」

 ローが暗青色の目をいっぱいに見開いて、感嘆の息をつく。タウたちも地底湖の広さに圧倒されたように立ちつくしていたが、どうやらここは風蜘蛛の巣ではなさそうだった。ということは、目的地はまだまだ先なのだ。

 ふと前方を眺めやり、シータは瞳をすがめた。地底湖をはさんだ対岸に、またもや鉄の扉が待ちかまえていた。扉には四つのくぼみがあり、その一つは埋まっている。四神の紋章石が入るしかけになっているらしい。

 すでに扉におさまっているのは円形。水の紋章石である。残り三つを探したシータは、湖の右手の端に風の紋章石、左手の端に大地の紋章石、そして自分たちのいる岸に炎の紋章石を見つけた。水の紋章石以外はそれぞれ台座の上に乗っている。紋章石がまばゆいほどに発光しているおかげで、周囲はたいまつがなくても何とか進めるくらいには明るかった。

「紋章石を全部あのくぼみにはめればいいのか? 船がないということは、全員泳いで渡らないといけないな」

 ラムダの言葉に、イオタが露骨に嫌そうな顔をした。イオタでなくとも、泳ぐには少しきついとシータも思った。体を鍛えている武闘学科生でさえ、途中で疲れておぼれるかもしれない。全員が渡るとなれば、縁にそってつかまりながら行くしかなさそうだが、その前にタウがかぶりを振った。

「泳ぐのは無理だ。見ろ」

 タウがあごで示す先に、黒い影があった。シータたちの目の前を悠々と横切っていく。何が動いているのかわからず湖をのぞき込んだシータは、影の正体を知って愕然とした。

 灰色の鰐がいたのだ。数えられるだけでも十匹以上。あとどれくらいひそんでいるのか想像するだけで背筋が寒くなった。

「ファイ、翼の法で紋章石を取って向こうへ行けるか?」

 タウの問いかけに、ファイは申し訳なさそうな顔をした。

「さっきからずっと風の力だけ弱くなっているんだ。まるで何かに吸い取られているみたいに」

 鰐を恐れての嘘ではなかった。ファイなら対岸までは一飛びで行ける。

 ローが周囲の岩場を見回しながら言った。

「風の眷属が訪れる場所に通じているというから、このあたりは風の神の領域だと思っていたけど、守護を得られるのではなくて力を奪われるほうに作用しているみたいだね。この湖も誰かが作ったのかな」

「地底湖自体はもとからあったのかもしれないけど、細工をした人は確実にいる。しかも、古いものと新しいものが混ざっているみたいだ」

「どういうことだ?」

 眉をひそめるタウに、ファイは先ほど倒したドブネズミの話をした。イオタが灰にした巨大ネズミを風で散らしたとき、比較的新しい術の気を感じたのだという。

「じゃあ、もとからあったしかけに誰かが手を加えたってこと?」

 ローにうなずくファイに、ラムダが鼻を鳴らした。

「侵入者を徹底的に妨害しようというわけか。かまうもんか、俺が行く」

 槍と荷物を地面に下ろすラムダにミューがすがりついた。

「やめてラムダ! あんなにたくさん鰐がいるのよっ」

 ミューが大声で叫ぶのをシータははじめて目にした。たくさんのネズミに囲まれても動じなかったのに。

「大丈夫だから。俺には水の女神がついているんだ」

 今にも泣きそうなミューの背中を軽くたたき、ラムダは照れ笑いを返した。

「ミューに俺の命を預けるから。いつでも治癒の法をかけられるよう、しっかり見張っていてくれ」

 ミューはなおも何か言いかけたが、結局うつむきがちに小さくうなずくと、ラムダから離れた。

「ファイ、鎧の法なら使えるか?」

「やってみる」

 ファイはラムダの前に立つと杖を構えた。

「幾多の生命(いのち)の預かり手にして守護者たる大地の女神サルム。今ひととき、不壊の鎧をかの者に」

ファイが杖で宙に正方形を描く。黄色く光る大地の紋章はラムダの体内に滑り入って消えた。防御力を高める術を受けたラムダが右腕を屈伸させ、一番近い炎の紋章石へ向かおうとしたところで、ローから制止がかかった。

「大地の紋章石だけをまず取って、扉にはめてくれないか」

 ラムダが不審げに眉をはね上げる。タウも渋い容相になった。

「まとめて持っていってはだめなのか? まさかここでも順番があるというのか?」

「わからない。確証はないけど、もしかしたら……」

 ローが扉にはめ込まれている水の紋章石を見据える。何か思うところがあるらしい。

「わかった」

 何度も地底湖を往復することになるかもしれないが、ラムダはローの勘を信じることにしたようだ。それ以上追及せず、地底湖のほうへ歩きだす。その足の運びはしっかりしていたが、背中や腕の筋肉はかすかに痙攣していた。

 腰の短剣を抜いて口にくわえ、ラムダは水音を立てずに湖へ体を沈めた。杖を構えるミューはかすかに震えている。それでもミューの目はしかとラムダに向けられていた。わずかな異変も見逃すまいとしているのだろう。

 ラムダは地底湖の縁にそってゆっくりと水をかきはじめた。少しでも刺激すれば鰐たちはいっせいにラムダに群がるに違いない。

 少しずつ、少しずつ大地の紋章石の台座に接近していく。そしてあとわずかで手が届くというところまで来たとき、いつの間にか一匹の鰐が近づいていた。流木のようにさりげなくラムダに迫っている。叫びかけたシータはタウに押さえつけられた。

 目の前で太い尻尾がばしゃっと水面を打つ。タウは片手でシータの口を封じ、片手で自分の剣の柄をにぎりしめていた。

 もし大声をあげていたら、興奮した鰐がそろってラムダに食いついていたかもしれない。落ち着け、とうるさい鼓動の音を心の中で何度もしかりつけていると、タウがようやく手を離した。だが剣の柄はまだにぎっている。いつでもラムダの援護に飛び出せるよう構えているタウに、シータもならった。

 シータが警告しなくてもラムダは鰐に気づき、岩場にしがみついた。足元にも複数の鰐がいるに違いない。剣をつかむ手が汗ばみ、シータは歯がみした。

 微動だにしないラムダに興味が失せたのか、鰐は再び離れはじめた。だが泳ぎはかなりゆったりとしている。早く行ってくれればいいのにとシータはいらだった。このままでは神経がまいってしまいそうだ。

 一方、ラムダはかなり慎重だった。鰐が十分に遠ざかるまで待ってから、行動を再開した。

 ようやくラムダが台座にたどり着き、水から上がった。大地の紋章石を取って息をつく。扉まではさらに今来た距離とほぼ同じくらいあり、対岸のほうを見るラムダの顔が一瞬弱々しくゆがんだ。遠いと感じているのだろう。ここで見守っている自分でさえそう思うのだから。そのとき、斜め後ろにいたファイが荷物をあさりはじめた。

 太く短い赤色のひもを二本と、赤い三角形が描かれてある白い紙を二枚、さらに赤い糸を取り出したファイは、ひもを一本ずつ紙に包んで糸でしばった。その一つをイオタに渡す。

 地底湖の縁へ行った二人は、たいまつでそれに火をつけた。そしてそれを地底湖へ投げ込む。

 湖がざわめいた。イオタの放ったひもは、シータたちのいる岸の手前でめちゃくちゃに回転し、ファイの投げたもう一つのひもは、水面を走るようにしてラムダのいる台座とは反対側の岸へ向かう。水面を飛び跳ねるひもを目指していくつもの波頭が立ち、ぶつかり合った。

 あまたの鰐が身をおどらせて水上に姿をさらす。鰐はひもに食らいつこうとして互いに争い、あちこちで激しい水しぶきがあがった。しかし燃えるひもは生きているかのごとく動き回り、鰐たちのかみつきをたくみにかわしている。群がる鰐たちを小馬鹿にしているようにさえ見えた。

 と、少し離れたところで別の水音がした。湖に飛び込んだラムダがすさまじい速さで泳いでいる。動くひもに鰐たちが気をとられているすきに、向こう岸に行くつもりなのだ。

 何匹かが気づき、ラムダのほうへ流れはじめた。なかなかしとめられない奇妙なひもより、ラムダのほうが確実に腹に入るとふんだに違いない。

 賭けに出たのか、ラムダは気配を殺すことなく岸へ急いでいる。派手な水音を聞きつけてラムダへ意識を向ける鰐が増えはじめた。水の中では本気の鰐にはかなわない。隣でミューが杖をにぎる手に力をこめているのを見て、シータは唇をかんだ。

 ラムダの手が対岸の縁についた。しかし慌てているせいか段差がけわしいのか、なかなか陸に上がれない。

 ついに一匹が追いついて襲いかかった。シータの隣でミューが悲鳴まじりの息を吸い込む。鰐が頭を大きく横振りにしながらひとかみした。

 ザザァッ、バッシャーンッ

 だめか、と顔をそらしかけたシータは目をみはった。

 しぶく水の向こう側で、ラムダの足が宙を蹴っていた。前転する形で陸に転がり上がったラムダはそのまま体勢をたてなおし、扉へ走った。

「水の紋章石をはずして大地の紋章石を!」

 ローの叫号にふり向きもせず、ラムダは水の紋章石を抜き取ると入れ代わりに大地の紋章石を扉へはめた。そしてきびすを返して水の紋章石をそばにある台座へ置く。

 ドドドドドドッと縦揺れの地震が起きた。水辺にいたイオタとファイが湖に落ちそうになり、タウとシータが二人の腕をつかんで連れ戻す。

 地底湖の水が減りはじめた。最初はゆるやかに、途中から一気に水位が下がっていく。そして長い大揺れの後に残ったのは、完全に水が引いて大地がむきだしになった地底湖と、いまだ元気に跳び回る二つのひもだけで、あれほど群がりのたくり回っていた鰐たちの姿はどこにもなかった。

「法術の産物……?」

 地底湖の急な変化に皆が息をのむ中、シータの傍らでファイがつぶやいた。あの大量の鰐は幻だったというのか。あれほどはっきりと、現実味をもって自分たちをおびやかした存在が。

 ミューがその場にへたり込んだ。対岸からラムダが涸れた地底湖を駆けてくる。

「いったいどうなってるんだ?」

 さっぱりわからないと首をかしげるラムダに、ローが答えた。

「扉に水の紋章石だけがおさまっていたから、この湖はそのせいかもしれないと思ったんだ。もし大地の紋章石と入れ替えたら、水がひいて大地だけになるんじゃないかって。さすがにあの鰐たちが法術で作られた物だとは予想していなかったけど」

 それで最初に大地の紋章石を取りに行くよう指示したのかと、シータは納得した。もし全部の紋章石を扉にはめていれば、今頃は四つの力が重なり合って手がつけられない状態になっていたに違いない。

 ラムダがミューに手を差しのべる。腰が抜けたのかミューはすぐに立ち上がれず、目に涙を浮かべていた。特に急いで立ち去らなければならないほどの危険もないので、ミューが落ち着くのを待ってから七人は出発した。

 涸れた地底湖の端では、ファイとイオタが命を吹き込んだひもがまだ活発に動いていた。ボオッと勢いよく燃えながら好き勝手に跳ね歩いている。シータは気になってファイに尋ねた。

「あれって何でできてるの?」

「レオニス火山に生息する火の馬の尻尾をよってひもにしたものだ。注意をそらすために使うものだから攻撃はできないけど」

「難点は、一度火をつけると最低一日は跳び回ることね。だからせまい場所では危なくて使えないのよ」

 暴走し続けることで有名な火の馬の一部なので、作り手の言うことをまったく聞かないらしい。イオタが言うそばから、二つのひもはくるりと向きを変え、七人を目指して突進してきたので、シータたちは慌てて地底湖を渡って逃げた。

 大地の紋章石だけをはめた扉には、鍵はかかっていなかった。七人はタウを先頭に、いよいよ最奥の間へと踏み込んだ。





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