(1)
「あー、もう! 大会堂ってどっちよ!?」
ゲミノールム学院中央棟の長い長い廊下を、シータは必死に駆けていた。後頭部で一つにくくった濃紺色の髪はざつにまとめてあちこちはねていたが、気にしているひまはない。
学院から支給された式典用の正装は、ここに来るまでにすっかり乱れている。詰襟の白いシャツは汗まみれだし、腰帯はずり落ちそうになっている。何より、とにかくマントが邪魔だ。重すぎるのだ。
入学前は、この学院色の黄色いマントを目にして興奮したのに。これを着て颯爽と歩く自分の姿を想像し、うっとりしていたのに。
入場はたしか本鈴が鳴る時刻だったはず。足には自信がある。絶対に間に合う。寝坊のせいで食べそこねた朝食への未練を頭から追い払いながら、シータは走りに走った。
一番に入場するのは教養学科で、次が神法学科。自分の在籍する武闘学科は最後だからまだ大丈夫。必ず滑り込んでみせる。
やっと中央棟の出口が見えてきた。大会堂に通じる渡り廊下の手前に机が置かれ、新入生の胸につける花が一輪、ぽつんと残っている。さらに受付らしい細身の生徒が一人、片づけを始めようとしていた。
青銀の髪が陽射しを浴びてきらめいている。くるぶしまである白い長衣の上に左肩から黄色い布を斜めにかけているその上級生は、遅れてきたシータを青い瞳で見返した。
「すみませんっ、遅れまし……!?」
全速力の勢いがとまらない。シータは受付机に両手をついて踏ん張ろうとしたものの、身を乗り出す形で上級生に頭突きを食らわせた。
はね飛ばされた上級生が、後ろの壁に頭をぶつける。ゴンッと響いた鈍い音にぎょっとして駆け寄ろうとしたシータは、机の脚につまずいて派手に転んだ。
ガガガガッ、ガシャーン!
「いったあ……あの、大丈夫ですか?」
机が横倒しになり、新入生の名簿が宙を舞う。じんじんする左足に涙ぐみながら這っていったシータは、上級生が目を閉じたままぴくりともしないのを見てあせった。生きているのかと頬をたたいてみたが反応がない。
「どうしよう……治療室……治療室はどこ!?」
ついに本鈴が鳴った。しかし周囲に人の気配はない。シータは自分よりも少し上背のある上級生を引きずりながら、泣く泣く治療室を探して回った。
国立であるゲミノールム学院が創立されたのは約六十年前。セプテム王国の未来を担う人材を育成する場として、カロ市の町フォーンに建設された。入学は十三才になる年からで、生徒数は現在三百七十人。身分による差別はなく、農家の子供から貴族の子弟まで幅広く受け入れている。
学院内は中央棟を中心に、右手には大きな闘技場が、左手には太く高い法塔が力強く腰を落とし、敷地内の四隅には四神の礼拝堂が学院を守るように建てられていた。他にも大きな図書館や乗馬場、食堂、そして式典や集会で使われる大会堂が設置されている。
何とか途中入場を許されたシータが大会堂の扉を開くと、入学式は終わり、代表戦が始まろうとしていた。椅子はすべて片づけられ、生徒たちは大会堂の中心をあける形ですみに寄っている。どうやら全校生徒が集まっているらしく、二階部分に渡された細い通路にまで人があふれていた。シータは剣専攻一回生の集団にもぐり込むと、一人だけ鎧を着用している生徒に近づいた。
「パンテールが代表戦に出るのね」
「シータ! いないから試験に落ちたのかと思ったよ」
パンテールはシータの顔を見ると、こわばっていた頬を少しゆるめた。
ゲミノールム学院では入学式と卒業式の後、行事の一つとして武闘学科剣専攻生と槍専攻生による代表戦がおこなわれる。卒業式では三回生が打ち合い、入学式では一回生が戦う。
今回の剣専攻一回生代表はパンテール・リトス。受験番号が前後だったことで、入学試験のときに知り合った生徒だ。ややふんわりとした褐色の髪に濃い青緑色の瞳の彼は、町では名の知れた貿易商人の息子で、見るからに礼儀正しそうな雰囲気をもっている。話してみると変にすましたところもなくむしろ親しみやすかったので、試験が終わるまで一緒に行動していたのだ。お互いに合格を信じて別れたので特に連絡先も教えあわなかったが、パンテールが代表になっていたとは。
そのとき、パンテールの名が呼ばれた。いよいよ出番らしい。
兜をかぶるパンテールに、周りの一回生から激励の声が飛ぶ。パンテールはぎくしゃくした動きで大会堂の中央へと進んだ。
向かい側にいた槍専攻生も人ごみから出てきた。やはり鎧をまとい、兜をつけている。パンテールは一回生にしては背が高いほうだが、相手も同じくらいの体格だ。しかもその深緑色の瞳には、自信とともに闘志がみなぎっていた。
大会堂の中心で向きあう二人に、神法学科生や教養学科生からも声援が送られる。そして二人が武器を構えると、合図のない試合開始に周囲は静まり返った。
しばしのにらみあいの後、ついに二人が動いた。実力はほぼ互角――いや、技を繰り出す速さは槍専攻生のほうがほんの少しだけ上だ。しかもパンテールは槍相手に間合いをはかるのに苦労しているようで、ほぼ防戦一色だった。気迫の面でもおされ気味だ。このままでは負ける。
「左!」
すきのできたパンテールにシータは思わず叫んだ。同時に、槍専攻生がパンテールの胸元に槍先をぴたりとつける。一瞬の沈黙後、大会堂内に歓声と拍手がはじけた。特に槍専攻生は一回生から三回生までが大喜びだった。
互いに離れて一度胸の前で武器を立てた二人が、それぞれの専攻生のもとへ帰る。自分たちの代表が敗れたことは悔しかったが、肩を落として戻ってきたパンテールをシータはねぎらった。
代表戦後もしばらくざわめきはやまなかったが、新入生たちは退場し、そのまま同じ専攻の三回生から学院内の案内を受けることになった。シータはパンテールと一緒に、バトス・テルソンという名の三回生について歩いた。
同じ正装なのに、三回生ともなるとさすがに着慣れている感じがした。シータが重いと思ったマントも、何の苦もなくひらめかせているように見える。だが茶褐色の髪に鳩羽色の瞳のバトスは、見るからに遊んでいそうな外見をしていた。三回生では実力は常に二番だとの自己紹介だったが、あやしい。そう疑うシータたちにバトスは気を悪くしたふうもなく、「そのうちわかるさ」と笑った。
中央棟の一階は学院長室をはじめ、教官室や生徒会室、各専攻の更衣室などが並んでいた。また中央棟の真ん中に置かれた中庭には噴水池があり、水が心地よい音を奏でながら噴きこぼれている。周囲には常緑樹が植えられていて、しげった青葉が風を受けて涼やかに鳴っていた。愛の告白場所としては三番目に人気のあるところだと説明するバトスに、シータはパンテールと顔を見合わせた。やはりバトスは軽いようだ。
シータたちは連れて行かれた剣専攻の更衣室で、自分の棚を確認した。更衣室は男女別になっていて、今年の武闘学科新入生は、女子はシータ一人だけだという。
扉付きの木製の棚は剣を立てて収納できるほどの高さがあり、着替えもかけておけるようになっている。名前の貼られた棚に触ると、自分が本当にこの学院に入学したのだという実感があらためてにじみ上がってきた。
それから三人は二階に上がったが、今度は教科名の札がかけられた教室がずらりと連なっていた。とても一度では覚えきれそうにない。あきらめてふと中庭をはさんだ反対側の中央棟二階廊下を見やったシータは、はっとした。
「あっ、あの人……!!」
受付でぶつかった生徒が人波に押されながら歩いていた。隣の生徒と話しているが、時々後頭部をなでている。
「どうかしたか?」
「受付で会った上級生があそこにいて……」
打ちつけたところがまだ痛むのだろうか。男子生徒を目で追いかけるシータに、バトスは何か勘違いしたらしい。興味深そうに瞳をすがめると、「気になるほどの美男子だったのか?」と尋ねた。
「剣専攻の受付はアルスだったな……枯草色の髪のやつか?」
「いえ、あの人です。青銀の髪の」
シータが指さした人物に視線を向けたバトスは、眉をひそめた。
「君が言っているのは、ファイのことか?」
「知ってるんですか?」
「有名人だからな。名前はファイ・キュグニー。神法学科二回生で風の法専攻だ」
そう答えてから、バトスはにやりと笑った。
「君はああいうのが好みなのか」
「違います! そうじゃなくて、頭は大丈夫かなと思って」
「どういう意味だ?」
シータはしまったと思ったが、遅かった。バトスに追及され、受付での出来事をしかたなく説明する。
「急いでいたから、受付の前で勢いがとまらなくて、その……」
「まさかファイに体当たりしたのか?」
「……気絶させてしまいました」
バトスの大笑いに、周囲の生徒たちが何事かとふり返る。パンテールにまで笑われたシータは、やはり言わなければよかったとうなだれた。
「ただいまあっ」
「お帰り、シータ」
シータが帰宅すると、祖母は縫い物をしている最中だった。結婚前は別の学院で裁縫の先生をしていたが、退職してからは町の仕立て屋で時々手伝いをしている。入学式はどうだったかと聞かれ、シータは一気に今日の出来事を報告した。
感激したことから最悪だったことまで、身振り手振りをとりまぜてしゃべるだけしゃべったシータは、すっきりしてそばの椅子にどさっと腰を落とした。
大きく息を吐き出すシータに、祖母が微笑んで近づいた。
「ずいぶん汗をかいただろう? 早めに洗わないと、汗じみがついてとれなくなってしまうよ」
祖母に促され、シータは座ったままもたもたと礼服を脱いだ。そのとき祖母がシータの頭のてっぺんに視線を投げた。
「そろそろ染めなおす時期かねえ」
「ああ、うん」
シータもそっと自分の頭をなでる。
濃紺色の髪は本当の色ではない。シータが生まれ育ったネーロ王国ではごく一般的だった黒髪は、この国では暗黒神に通じるとしていい印象を与えない。だから祖父母と一緒にこの国で生活すると決まったとき、よけいなもめ事を避けるために染めることにしたのだ。そしてもし色が落ち始めてもすぐに気づかれないよう、色は濃紺にした。
祖国では、黒い瞳ばかりの中でシータの薄緑色の瞳は少し浮いていた。それでもうとまれる色ではなかったから、気にする必要はなかったのだが。
素のままでいられないのは、やはり少し悲しい。ずっと身につけている母の形見の短剣に指をはわせながら、シータはひそかにため息をついた。
授業が始まってからは新入生も学科服で過ごすことになった。武闘学科生は白い服に薄手の黄色いベストを着用し、太股まである革靴を履く。武器は無理に持ち歩かなくてもいいことになっていたが、剣専攻生はほぼ全員長剣をいつも腰にさしており、槍専攻生は演習のとき以外は槍を更衣室に置き、短剣のみを身に着けている者が多い。また教養学科生と神法学科生は規制のない自由服だが、神法学科生は上に長い法衣をまとう決まりがあった。しかも専攻によって色が異なるので、赤、青、黄、銀色と、廊下は目がちらちらするほどにぎやかだ。
登校してきたシータは、さっそく一限目の授業である植物学の教室を探すことになった。教室は全部二階にあるとわかっているが、どの階段から上がるのが一番近いかわからない。迷ってうろうろしていると、運よくパンテールに会った。「案内のときにちゃんと聞いていないからそうなるんだよ」とパンテールは小言を言ったが、それでも一緒に行ってくれた。その途中、階段をのぼるために生徒会室の前を通ったシータは、生徒会の掲示板に群がる上級生にあやうく押しつぶされそうになった。武闘学科生だけでなく、神法学科生も後から後から寄ってきている。何とかすきまをぬって上級生の集団から抜け出したものの、いったい朝から何を騒いでいるのかと首をかしげるシータに、『冒険者の集い』の広告が出ていることをパンテールが教えた。
「何それ?」
「虹の捜索隊の入隊審査だよ」と言われても、何のことだかわからない。シータの反応にけげんな表情を浮かべたパンテールは、「ああ、そうか」とぽんと手を打った。
「シータはよその国から引っ越してきたって言ってたっけ」
それからパンテールは詳しく説明をしてくれた。
虹の捜索隊とは、神法院に公認された冒険集団のことだ。
設立された当初は国内の神事を司り、必要とあらば神の託宣を国王に伝える役を担っていた神法院だったが、国王の相談役として重きを置かれた結果、今では政治を左右するほどの発言力をもっていると聞く。その神法院が虹の森を目指す冒険集団を後押しする目的で作ったのが、虹の捜索隊だという。
「『冒険者の集い』の締め切りは十五日後だけど、まずは前試験があって、それに合格しないといけないんだ」
天空神クルキスが守護する聖域『虹の森』は、別名『幸福の地』と呼ばれている。そこにはありとあらゆる幸せや財宝などがあると言われているが、どこにあるのか、どうすれば行けるのか、はっきりしたことはわかっていない。 過去にはたどり着いた者もいるというが、彼らはなぜか虹の森について語ることができないらしいのだ。だからこそ虹の森にあこがれる冒険者は多く、古くからある遺跡や伝説を調査している神法院も必死に探しているようだ。
現在唯一の手がかりとされているのが、
七つの星がひらく道
先に見えるは虹の森
宝の欠けることなかれ
宝の欠けることなかれ
国内にある天空神の神殿から見つかった石版には、こう書かれていた。また実際に虹の森に行くことができた者たちがすべて七人の冒険集団だったことから、神法院も虹の捜索隊の構成人数を七人に定めているという。
「虹の捜索隊として認められれば特待生になれるから、ほとんどの人は卒業までに一度は挑戦するみたいだよ」
学院卒業後に武闘学科生や神法学科生の大半が進学する武闘館や神法学院には、特待生制度がある。特待生になれば学費は免除されるし、何より技に優れていることが証明される。国王の御前で戦う武闘大会への出場権も得られるのだ。
しかし特待生試験は、 虹の捜索隊に所属しているかどうかも審査基準になっているという。つまり虹の捜索隊に名を置いておけば、特待生になれる可能性はぐんと高くなるのだ。それを聞いてシータは俄然やる気が出てきた。
「『冒険者の集い』ってどんなことをするの?」
「学院が提示した宝をくじで決めるそうだ。このフォーンの町も協力する大会だから、宝の情報は町中に散らばっているんだ。当たった宝をうまく探し出せれば合格になる。でも、大会は年に一回しかないそうだから、失敗したら来年まで待たないといけない」
「パンテールはもうどこかの集団に参加しているの?」
「まだだよ。上級生に知り合いはいるけど、たぶん入れてくれないと思う」
集団の人数が七人であることが条件づけられているため、技や知識が劣る一回生が入学してすぐ仲間に入るのはまれだという。
「それなら一回生だけで結成できないかな?」
「さすがに難しいと思う。二、三回生の集団でさえ、なかなか合格しないって言われているから」
パンテールが残念そうに首を横に振る。そういうことならなおさら一回生から仲間を集めて経験を積んだほうがいいのではと思いながら、シータは植物学教室の扉を開いた。
半分眠りながら授業を終えたシータは、二限目の授業である野営学を受けに、パンテールと一緒に移動した。教室に入ってみると、もうあいているのは前のほうしかない。一番前だけは避けたかったなとこぼすと、「真ん中から後ろのほうが案外目立つんだよ」とパンテールが笑った。そのとき、窓際付近で輪を作っていた生徒たちの話が聞こえてきた。
「もう冒険集団に入ったのか? さすがピュールだな」
「一回生で、しかも入学してすぐ加わる人なんて、そうそういないよ」
「本当は今までも参加していたんだ。でも正式な仲間入りは入学してからって約束だったからな。もちろん今度の『冒険者の集い』にも挑戦する」
中心にいるのは、入学式で槍専攻生代表としてパンテールと戦った、深緑色の瞳の少年だった。他の生徒より長身だが肩幅はそれほど広くないので、がっしりして迫力があるという感じでもないのに、やけに存在感がある。自信に満ちた顔つきのせいだろうか。
「すごいなあ。虹の捜索隊になれば将来はほぼ安泰だよな」
「ピュールの口利きで俺たちもどこかに入れてもらえないかな?」
「まず無理だな。武闘学科は入学前に実技試験があるから、それに合格したお前たちに素質がないとは言わないが、たいした技術も知識もまだない並の一回生など、足手まといになるだけだ」
えらそうな言い方に、シータはむっとした。でも本当に冒険集団に入ったのなら、確かにすごいことだ。一回生は入れてもらえにくいようなのに、どうやって参加したのだろうと思っていると、目があった。とたん、ピュールが口元に薄笑いを浮かべた。
「でもまあ、心配しなくてもそのうち声がかかるさ。今年の一回生は、槍専攻生のほうが剣専攻生よりも上だからな」
周囲の剣専攻生たちがいっせいにざわめき、数人が立ち上がった。その中でもシータは真っ先にピュールに詰め寄った。
「どういう意味よ?」
並べばピュールのほうがぐんと背が高かった。姿勢がいいのでよけいにそう見えるのかもしれない。シータは負けじと力いっぱいピュールをねめつけた。
「言葉どおりだよ。一度聞いただけじゃわからないのか? 剣専攻生は頭の悪い奴も多いらしい」
槍専攻生の半分が失笑した。パンテールの制止を振り切って、シータはピュールの胸を突いた。
「訂正して」
「嫌だね」
「たかが一回勝ったくらいで、いいかげんなことを言わないでよっ」
「たかが、だと? 剣専攻生は代表戦を何だと思っているんだっ」
激高するピュールに、シータは反論をのみ込んだ。確かに、一戦一戦を大事にしてこそ武闘学科生だと言える。
意外と真面目なのかもしれない。悔しいが、話はここで終わらせようときびすを返しかけたシータを、ピュールは鼻で笑った。
「どうせ剣専攻生は冒険集団にさえまだ誰も入っていないんだろう。ま、せいぜい気楽に遊んでろよ。威勢のいいのが女一人っていう今年の剣専攻生様がどれだけすばらしく活躍できるか、楽しみだぜ」
怒りが爆発した。シータはピュールの腹にひざ蹴りを食らわせた。
「つっ……このチビが!」
腹を押さえて前かがみになったピュールの瞳に剣呑な光が宿る。胸ぐらをつかもうと手をのばしてきたピュールから飛びのいたシータを、槍専攻生が取り囲んだ。
「何の手違いか知らないが、武闘学科生として入学してきたんだ。女だろうが容赦はしなくていいってことだよな」
ボキボキと指を鳴らすピュールに、シータもまた腰に手を当てて口角を上げた。
「容赦なんていらないわ。あんたたちにそんな余裕があるとは思えないもの」
「みんなで囲まないと安心できないなんて、代表戦で勝利した偉い偉い槍専攻生様もたいしたことないわね」と肩をすくめたシータに、ピュールが机を蹴飛ばした。雪崩を打ってきた机を回避したシータにピュールのこぶしが飛んでくる。早い!
ギリギリかわしてさらに後退したシータは、背後にいた槍専攻生二人に両腕を押さえられた。
「シータ!」
パンテールが一歩踏み出す。しかし助けに入ろうとしたパンテールの前に槍専攻生たちが立ちふさがった。
「お前たち、卑怯――」
抗議しかけたパンテールがかたまったのは、シータが自分を取り押さえた二人の槍専攻生に肘鉄を食らわせたからだ。拘束からするりと抜け出したシータはそのまま回し蹴りで二人を転ばせると、机を踏み台にして跳躍し、ピュールに飛びかかった。
シータの蹴りをピュールは腕を交差して防ぐ。足場の悪さをものともせずに着地点を見極めて降りようとしたシータは、はっとした。
ピュールがシータの右足をつかんだ。そのまま引っ張られ、重なり合っていた机の山に落下する。
「いっ……!! 」
ささくれていた机の角で頬を切る。打ちつけた背中と右腕に痛みが走った。
「ずいぶん足癖の悪い女だな」
ピュールに右足を踏まれ、シータはうめいた。
「わかってるなら……油断するんじゃないわよっ」
嘲笑するピュールに、左足で蹴りを入れる。よろめいたピュールの顔に続けざまに体をひねりながらもう一発蹴りを追加した。尻もちをついたピュールにさらなる攻勢をしかけようとしたそのとき、シータの襟を誰かがつかみ上げた。邪魔をした相手をふり返りにらみつけたシータは、まずいとあせった。剣専攻担当で野営学も受け持っている、ラーヴォ・ウォルナット教官だったのだ。
「馬鹿者!! 闘技場以外での組み合いは、どんな理由にせよ規律違反だっ」
大柄なウォルナット教官の怒鳴り声に教室内が静まり返る。二人を取り巻いていた生徒たちは慌てて机をもとに戻し、次々に着席していった。
「専攻、名前!!」
「剣専攻、シータ・ガゼルです」
シータが姿勢を正して答えると、ウォルナット教官の眉がひくついた。次にウォルナット教官はピュールを見下ろした。
「どうした? その口は飾り物か?」
「槍専攻、ピュール・ドムスです」
切れた唇の血をぬぐいながら、ピュールがぼそぼそと名乗る。
「後ろに立って頭を冷やせ。それから『野営の基礎』第一章から第二章までの写しと反省文を二枚、放課後までに持ってこい」
ウォルナット教官が教壇へときびすを返す。心配そうな生徒たちの視線を浴びながら、二人は教室の一番後ろに並んだ。
「十五日待ってやる」
ウォルナット教官が出席者を点呼していく中、ピュールが前を向いたままささやいた。叱られることに慣れていないのか、かなり不本意そうにむすっとしている。
「『冒険者の集い』が始まるまでにどこかの集団に仲間入りできたら、訂正してやる」
無理だろうがな、と付け加えるピュールにシータは吐き捨てた。
「十五日も必要ないわ。今週末までで十分よ」
ピュールの口元が意地悪げにゆがんだ。シータはピュールから顔をそむけると、授業終了を待った。
パンテールがウォルナット教官に呼ばれたので、先に一人で傷の手当てに行ったシータは、中央棟一階の治療室の前まで来てから、しばし扉を見つめた。入学してまだほんの数日しかたっていないというのに、ここへ足を運ぶのは早くも二度目だ。
「失礼します」
扉を軽くたたいて開けると、銀色の法衣を着た一人の女生徒が丸椅子に座っていた。肩のあたりで切りそろえられた明るい灰紫色の髪と、あたたかい光を放つ薄紫色の瞳。優しい顔立ちの少女に微笑まれ、シータは一瞬かたまった。
「どうぞ」
声がとても穏やかだ。学院内での治療は水の法専攻生がとりおこなっているが、この少女は三回生だろうか。
自分自身が幼い頃から武器を振り回していたせいで、女性らしい雰囲気の同性と話す機会はほとんどなかった。なんだか妙に気恥しくなりもじもじするシータに、少女が再度呼びかけた。
「座って」
命令口調ではなく、お願いするような響きだった。これ以上ぼうっと立っているわけにはいかない。シータはそろそろと遠慮がちに近づいた。
「専攻と名前を教えてくれる?」
シータが名乗ると、少女は卓上の書類にきれいな文字で記入していった。
「喧嘩?」
「……はい」
正直に答えたシータに苦笑した少女は、机の脇に立てかけていた杖を手に取ると、流れるように言葉をつむいだ。そして最後に杖で宙に円形の紋章を描く。するとまたたく間にシータの頬から血の跡が消えていった。触ってみたが、何事もなかったかのようにすべすべしている。打ちつけた背中や腕の痛みもひいていた。
「本当は、学院内で喧嘩してできた傷は法術で治してはいけないって言われているのだけど、一回生だし、女の子だから今回は特別。だから秘密にしておいてね」
少女が唇の前で人指し指をたてる。年上のはずなのにそのしぐさがかわいらしくて、シータはつられて顔をほころばせた。そこへ少女の友達らしき女生徒が三人、弁当を手に入室してきたので、礼を言って退室する。
ウォルナット教官の用事がすんだのか、壁にもたれて待っていたパンテールは、シータの顔から傷が消えているのを見てほっとした表情になった。
「さすがは水の法だな」
感心するパンテールに、治療の間全然痛くなかったことをシータは報告した。目の前で法術が使われたのは初めてだったが、自分にはできないことなのでよけいに不思議で、素直にすごいと思う。
「それと、喧嘩の傷は法術で治してはいけないから、秘密にしてねって言われた」
「戒めのためか。ところでピュールが言っていたが、お前、今週末までにどこかの冒険集団に入るって宣言したんだって?」
シータがうなずくと、パンテールはため息をついた。
「悪いことは言わないから取り消してこい。絶対に不可能だ」
「あいつは剣専攻生を馬鹿にしたのよ。パンテールは悔しくないの?」
「悔しいに決まってるだろう。でも剣専攻一回生の中で冒険集団に入っている人間がいないのはたしかだし、代表戦で僕が負けたのも事実だ」
パンテールがうつむく。だがシータは納得しなかった。
同じ武闘学科生なのに、剣専攻と槍専攻がこんなに仲が悪いなんて思わなかった。
いがみあうことが避けられないなら、自分のためにも、剣専攻生のためにも、負けられない。絶対に賭けに勝って、槍専攻生の……ピュールの鼻をあかしてやる。