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宿に戻ると、庭先に少女が立っていた。『宿』といっても、人の好さそうな中年夫婦が営む民宿だから、きっとその娘なのだろう。薫と同い年くらいに見える。
亮が近寄ると、彼女はぱっと顔を上げた。くりくりとした大きな目が可愛い、快活な印象の子だった。
「良かった。どこかで迷っているのかと思いました。」
「あぁ、すみません。良い場所がなかなか見つからなくて。」
中年夫婦には宿泊の交渉の時点で来訪の目的を伝えていたが、少女は知らないようだった。場所、ですか?と目をぱちぱちさせている。
「俺、絵を描きにここに来たんです。スケッチするのに丁度良い場所を探しているんですが、なかなか上手くはいかないものですね。明日、またチャレンジしてみます。」
少女がどこまでぐいぐいくるタイプなのかは分からないけれど、万が一、一緒に行きたいと言われたら困るから、場所は見つからないことにしておく。薫には、誰も会わせたくないから。勿論、薫の交友関係を制限するつもりはないけれど、わざわざ自分で仲介するのは嫌だった。薫とは、二人で話していた方が楽しいと思う。
幸いにも、少女はさほど突き詰めてくることなく、軽く頷いた。
「へぇ、そうだったんですか。頑張ってください。」
「ありがとう。」
「あ、あたし、ここの看板娘目指してます、翼です。」
「翼ちゃん。」
看板娘、という言葉の響きは、さん付けや呼び捨てよりもちゃん付けが一番しっくり来る。
看板娘を『やっている』ではなく『目指している』というのは少しひっかかるが、亮はあえてそこには触れずに自己紹介を続けた。自分にとっての薫がそうであるように、誰だって触れられたくないことはあるだろう。
「俺は、東雲亮といいます。ここには一月ほど滞在させてもらう予定です。どうぞ、よろしく。」
「亮さん、でいいですか?」
「勿論。俺も、翼ちゃん呼びしちゃいましたし。」
翼がからからと明るい声を上げて笑った。
「確かに、そうですね!」
翼はゆっくりと数歩歩いて、振り返った。長めのポニーテイルが揺れる。
「しっかり自己紹介までしといて何ですけど、ずっと立ち話っていう訳にもいきませんし、どうぞおあがりください。」
今度は、亮が笑う番だった。翼の自虐を含みつつもお茶目な言い方が個人的にツボなのだ。
「それじゃ、お邪魔します。」
田舎の家は、玄関と床の段差が高い、という話を昔社会科教師がしていたことを、亮はちらりと思い出した。ご近所さんが座って話しやすいようになっているらしい。それを聞いた時は、そんだけ段差があったら上がれないじゃないか、と密かに馬鹿にしていたものだが、実際はその高い段差の間に一段踏み石があって上がりやすいように工夫されていた。
どうも、そんなことも思い付かない自分の方が馬鹿だったらしい。
亮が感心して玄関で立ち止まっていると、先に丁寧にスニーカーを揃えてあがっていた翼が首を傾げた。
「どうかしましたか?」
「あぁ、いや、何でもないです。」
しかし、翼は亮の考えを悟ったかのように、ぽんと手をたたいた。
「珍しいですよね、こういう玄関。」
「へぇ、ここらへんでもそうなんですか?」
「そう、ではないですね。うちの近所はどこもこんな感じです。けど、あたしはここに引っ越してきたばっかなんで、そう思っちゃいます。」
だから、看板娘を『目指している』。
亮は納得して相槌を打った。
「それで民宿って大変ですね。俺、迷惑でした?」
翼は慌てたようにポニーテールをぶんぶん揺らして横に首を振った。
「いえ、全然そんなことないですよ?むしろ、ここらへんって本当に何もないから退屈しちゃって。変化が増えて嬉しいです。」
「変化って……」
亮は思わず吹き出す。やっぱり、この子の話し方は結構好きだ。
翼が不満そうに頬を膨らませた。
「何で笑うんですかー。」
「すいません。『変化』って言葉のチョイスが大げさで、ちょっとツボだったんです。」
「ホントに暇なんですってば!」
「うん、すごくよく伝わりました。いやぁ、素晴らしいと思います。」
「……からかってるんですか?」
「まさか!本気だよ。」
「笑った癖に。」
テンポが良すぎる会話に、お互い口調が砕けていく。
顔を見合わせて、亮と翼は同時に笑い出した。
なかなか戻ってこない二人を気にして様子を見に来てくれたらしく、いつのまにか小母さんが呆れ顔で立っていた。
「随分、仲良くなったのね。」
翼が無言で肩をすくめ、亮が答えた。
「気が合うみたいです。」
「東雲くん、滞在長いものね。翼と仲良くしてくれると私たちも嬉しいわ。」
亮としても、薫に会えない昼間は暇を持て余していたから、もし翼が『仲良く』してくれるとありがたい。
翼がそんな亮の意向を知ってか知らずか、挙手するように肩の高さに右手を上げた。
「亮さんがよければ、あたし、明日案内するけど?お絵描きスポット、探してるんでしょ。」
お絵描きスポット……相変わらず、言葉のセンスが秀逸だ。
幼稚園児にかける言葉みたいで、今回は気に食わないけれど。
ただ、翼の提案は渡りに船だった。
亮は余所行きの笑顔を作って答えた。
「全然いいよ。むしろすごく助かる。よろしくね、翼ちゃん。」
「任せて!」
翼はどんと胸を叩いて、
「げほげほっ……!」
盛大にむせた。
どうやら、強く叩き過ぎたらしい。
小母さんが仕方ないわねぇ、と背中をさすってやっている。
「せっかく手伝うって言ってくれたけど、民宿の仕事は私たちだけで十分でも回るし、あなたはおとなしくしててくれないかしら?」
「ドジだから足手まといって?ひっどーい!」
「そうは言ってないじゃない。ちょっと面倒くさいなって思っただけよ。」
「むしろそっちのがひどくない?ねぇ、亮さん。」
翼に同意を求められたが、亮は声を殺して笑うのに必死でそれどころではなかった。
翼ちゃん、面白過ぎるな。
翌日はお昼過ぎから翼にあたりを一通り案内してもらった。来る前に想定していたよりも意外と町は広く、それなりに楽しかった。
日が暮れる少し前くらいに、適当な場所でここが気に入ったからスケッチしてから帰る、と翼を先に帰して亮は上手いこと自由時間を手にした。
楽しそうに案内してくれた翼には申し訳なく思わないでもないが、今の亮の最優先事項は薫なのだ。許してほしい。
足早に、昨日薫と会ったあの場所に向かうと、既に薫はそこにいた。昨日と同じように半袖のYシャツの裾を制服と思しきズボンにいれた服装で、昨日と同じように足を投げ出して座っている。
亮は大きく息を吸って心を落ち着かせてから、声をかけた。
「薫!」
「っ!?亮……」
素早く振り返った薫は強張った顔をしていたが、亮の顔を見てほっとしたように微笑んだ。
今は笑っているけれど、初めに見せた不安げな表情が気になって、亮はおどけて笑った。
「何、俺じゃ不安?」
「そんなことないけど。」
薫はぷいっとそっぽを向いた。何故か、黒髪の間から覗く耳が赤い。
「むしろ、俺が来て嬉しいって?」
「そんなこと言ってないでしょ!」
薫が勢い良くこちらを振り向いたけれど、その顔は真っ赤に染まっていて、発言に全く説得力がない。
可愛いなと亮は思ったけれど、これ以上からかうとそろそろ本気で怒りだしそうなので、によによ笑いをひっこめた。
「俺は、薫がいてくれて嬉しかったけどな。」
「え……」
薫は戸惑ったように瞬きを繰り返した。頬の赤みと一緒に怒りも引いてくれたようで何よりだが、亮としても薫を困らせたくはない。
「いきなり絵のモデルになってほしいとか、ちょっと急ぎすぎたかなって思ってたから。」
「あー……」
そういうことか、と薫は納得したように頷いた。
本当は薫に会えるということそのものが嬉しいのだけれど、まぁ、それはおいおい伝わればいい。まだ、一か月近くも滞在期間は残っているのだ。まだまだいっぱい会える。
薫がゆっくりと立ち上がった。
「それで、俺はどうすればいいわけ?」
薫が立ったのを正面から見たのは初めてだった。そうすると、薫の身長は亮の口元に頭頂部が来る程度だということが分かり、亮は薫を抱きしめたい衝動にかられるのを唇をかんで必死に堪えた。薫が不審げに前髪の奥の瞳を細めた。
「亮?」
「あー、ごめん。ちょっとぼーっとしてた。えーっと、ポーズの指定はしない。自然体の薫が描きたいんだ。楽にしててよ。」
「楽にって……逆に難しいんだけど。」
「さっきまでみたいに座ったり、寝転んだり、本当に、何でも。」
「……分かった。」
薫が何となくぎこちない身体つきで足を投げ出して座った。亮は肩にかけていた鞄からスケッチの道具取り出しながら、そんな薫に話しかける。
「まだ緊張してるでしょ?少し、俺と話してようよ。」
「話?」
「うん。話してればリラックスできるでしょ。」
「どうかな。できないかもしれない。」
薫が少し皮肉な感じの笑いを口元だけに浮かべた。器用なことするな、と少し感心しながら亮は取り出した道具を脇に置いてあぐらを掻いて座り込んだ。
「じゃあ、そこは俺の腕の見せ所だね。」
「……何の腕?」
「もちろん、画家としての腕だよ。すなわち、トークスキル!」
「すなわちって……意味が分からない。」
薫がふはっと声を上げて笑い始めた。初めて見る、屈託ない笑顔。
亮は急いでスケッチブックを開いて鉛筆を走らせる。
薫の笑顔は、目に焼き付けた。いつだって、描ける。
けれど、やっぱり実物以上に鮮やかな色彩のものはない。
目の前の薫を、描かずにはいられなかった。
しばらく楽しげに笑っている薫は、亮が自分を描いてるのに気が付いて、ぎょっとした表情になった。また少し硬い動きになってしまった薫に、少し残念に思いながらも、亮は手を止めずに言った。
「薫、笑って笑って!」
「カメラマンなの?」
「そうそう。何だっけ……あの、小学生がよくやるやつ。」
「小学生?」
「うん。えーっと、そうそう。イチ足すイチは?」
薫は嫌そうに顔をしかめたあと、仕方なさそうに答えた。
「田んぼの田。」
今度は、亮が大笑いする番だった。流石に描き続けられなくて、手を止めて、お腹を抱えて笑う。
確かに、小学生のころ流行ったくだらない言葉遊びがあった。薫の綺麗な唇が紡ぐにはあまりにも不釣り合いで、そのギャップが面白かった。
亮が遠足などで集合写真を撮ったとき、ほぼ必ずと言っていいほど、カメラマンのおじさんは『イチ足すイチはー?』『二ー!』というやりとりで笑顔を作らせようと試みていた。
それは全国共通だと勝手に思っていたが、まさか違ったのだろうか?
亮は薫が不満げに口をへの字にまげているのを見て、そろそろ笑いやむべきだと思ったが、無理だった。仕方なく、息継ぎの合間に頑張って話しかける。遠足のくだりを説明すると、薫はあぁ、と納得したように頷いた。
「やっぱ、薫のとこもそうだったんだ?」
『イチ足すイチは―?』の掛け声はやはり全国共通で、ただ薫の返答がずれていたらしい。
亮がによによ笑いながら言うと、薫はむぅ、と口を尖らせた。
亮は即座に笑い止んで、鉛筆を走らせる。
可愛い、可愛すぎる。
どんな薫だって描きたいと思っているのに、こんな可愛い顔を見せられて描かずにいられる訳がない。
「え、ちょっと、亮!?さっきも描いてたでしょ。」
「だってまだスケッチだし。いろんな構図で描かなきゃ。モネだって、同じ場所を違う時間に描いたものの完成形を何枚も遺してる。それと一緒だよ。」
高名な印象派の画家の名を出すと、薫はぐっと言葉に詰まった。その顔も描きたいけれど、今は手が放せないので、亮はしっかりと目に焼き付ける。
薫は大きくため息を吐いた。
「モデルになるって言ったの俺だしね。いいよ、好きにして。」
「ありがとう、薫。」
亮は手を止めて微笑みかける。
薫はぷいっとそっぽ向いた。
「仕方なくだし。」
いつか、照れた顔も正面から見てみたい。絶対に、可愛いに決まっている。