1
「暑っ!」
東雲亮は少し洒落た厚手のシャツを着てきたことを後悔しながら、草むらを足早に歩く。こんな田舎に来るのに、わざわざ恰好つけるんじゃなかった。
久しぶりの旅だから、とるんるん気分で服を選んだ昨夜の自分を絞め殺したい。
しかも、道が整備されていないかなりの獣道だったおかげで、到着時刻も予定より大幅に遅れ、あたりはすっかり薄闇だった。街灯の明かりもないから、足元も見えないというほどじゃないにしても、かなり歩きにくい。
初日に一通り見回っておきたかったので、暗くても行かないよりはいいだろうと、荷物だけ宿においてスマホ片手に一人散策だ。
大学三年生の亮にとって、これが就活前最後の夏休みになる。当分は自由な時間もないだろうと思って一人旅に出た。趣味の絵を描くための旅だ。
インターネットやガイドブックをフル活用して、自分が描きたいと思える景色があり、予算を抑えめにできる場所を探した。そして見つけたのが、こののどかな田舎町だ。
山らしき高みから見下ろす田圃の緑と少しくすんだ街並みは、亮の琴線に触れた。おだやかな時がずっと続いていきそうな、見ているだけで心が休まるその景色を切り取った一枚の写真が、パソコンのディスプレイに映し出されたその時、亮はこの無名な田舎町への旅を決めた。家族や友人には奇異の目で見られたが、亮は意志を曲げなかった。
自分に与えられた夏休みにほとんどの期間……一か月をこの田舎町で過ごす予定になっている。本当は全てをここに費やしたかったが、美大生でもない亮はレポートなどの課題との兼ね合いもあって、それが限界だった。
亮はため息を吐いて辺りを見回す。周り中が、木……木……木……
この町は無名すぎて、いくら調べても一つのブログに上げられたその写真以外に細かい情報はわからなかった。 ”moment” というタイトルのそのブログも開設者が途中で飽きてしまったのか、たった一つ、その写真とそれに関する情報の投稿以外何も書かれていない。ブログの主の意図はわからないが、”moment” すなわち、『一瞬』というタイトルと、たった一度の投稿で終わっている内容の皮肉な因果関係に少し笑ってしまった。記載されていたメールアドレスに一応メールは送ってみたが、反応はなかった。
これだけ言うと、無謀な旅のようにも思われるかもしれないが、亮にも一応勝算はあった。
この町全体をあの角度から見下ろせるような場所は、今亮がいるこの山だけだ。
そんなに広い山でもないし、ブログの主の上げていた写真は、実は一枚ではなかった。同じ場所から、様々な季節に、時間に、同じ写真が撮られていたのだ。その枚数から考えて、ブログの主はその場所を相当気に入っていたようだった。かなり頻繁に足を運んでいたに違いない。そこに至る道筋は、今自分が通ってきた道のように、踏み固められているはずだった。
月灯りはあるものの、そろそろ足元さえ危うくなってきたので、亮はスマートフォンのライトをつける。
その時、右斜め前くらいから鋭い声がした。声変わりの途中のような、不安定な声。
「誰か、いるんですか?」
声の方向を見るが、そこに道はない。戸惑いながら亮は頷いた。
「はい。ここ、立ち入り禁止だったりしますか?だったら、すみません。」
相手の声に少し焦りが滲んだ。
「いえ、全然違います。」
「なら、そちらに行ってもいいですか?」
亮はそう問いかける。何故か、そうしなければいけない感じがしたから。
しばらくの沈黙のあと、どうぞ、と返事があった。
「ありがとう。」
亮は草を分け入って、声の方向に歩み寄った。
思わず、息を呑んだ。
そこにいた少年の美しさに。
開けているせいか、月明かりがよく通り、彼の容貌を柔らかな月明かりが映し出していた。
亮は慌ててスマホの灯りを消す。
高校生くらいだろうか、テレビの中の人々のような完成された美ではなく、成長途中の不安定な『美』。
”moment” あのブログのタイトルが反射的に頭に浮かんだ。『一瞬』という言葉が彼ほど似合う人にはなかなかお目にかかれない。
前髪は目にかかり、後ろ髪はうなじを半分ほど隠す、長めの黒髪。高校生くらいの癖にして、ニキビ一つないすべらかな肌。半袖のTシャツから伸びる、不健康な感じはしないけれど、細い腕。シャツの裾をいれたズボンにきゅっとしめられたベルトが華奢な腰を強調している。足を伸ばしてだらしなく座っている割には、背筋はぴんと伸びていた。
アンバランスだけど、何故か美しい。
彼を、描きたい。
強く、強く、そう思った。
亮の頭の中はその想いでいっぱいで、ここに来た本来の目的なんて、とんと忘れていた。
「俺に拒否権はないですから。」
捻くれた一言が付け加えられ、それと不安定な声を併せて、亮は自分にもそんな時代があったな、と懐かしく思った。じっと少年を見つめると、彼は眉を寄せて、露骨に嫌な顔をあした。
「何ですか?」
「いや、懐かしいなって思って。」
正直に答えるが、少年の表情に浮かぶ不審のいろは濃くなるばかりだ。
亮はどうにかしなければと焦り、何を思ったのか自分でもわからないが、少年の隣に同じようにして座り、自分の思春期の思い出を語りだした。
亮の思春期は人一倍周りに迷惑をかけた。自殺騒ぎを起こしたことだってある。そのことに対してだけはしこたま怒られたけれど、その他に関しては何も言わずに受け入れてくれた両親には感謝している。
前に、何でそんなに寛容でいてくれたのか聞いたことがある。彼らの対応は亮にとってはとてもありがたいものだったけれど、一般的な指標から考えれば、良く言えば『放任主義』、悪く言えば『放置』だ。
そう言うと、母は笑って肩をすくめた。
「だって、あんた、ぐれたって言ってもせいぜい家に帰ってこないとか、学校行かないとか、その程度だったじゃない。」
父も雑談するときと同じ、至って軽い口調で頷いた。
「人様に迷惑をかけるのならば怒ったが、その程度ならお前が困るだけだからな。俺たちが何か言ってもどうにかなるもんじゃないだろうし、ほっとくのが一番だと思ったんだ。」
ひどいぐれ方をしたと思っていた自分の所業は、両親にとって『その程度』だった。
亮はそれを聞いた時の得も言われぬ脱力感を思い出して、苦笑する。
「君を見てると、そのひねくれてた頃を思い出すんです。不快な思いをさせてしまったのなら、謝ります。すみません。」
頭を下げながら、亮は何でこんなことを話してしまったのだろう、と激しく後悔する。じっと見つめるだけならまだともかく、こんな自分の経験をいきなり話し出すような奴なんて、ただの『うざい大人』だ。絶対に、嫌われた。
亮は絶望を感じている自分に気が付いて驚く。
自殺をしたときだって、ただ、生きることに疲れただけで、これほどの痛みはなかった。
「顔、上げてください。別に、ちょっと困っただけで、不快、ってほどじゃないですから。」
しかし、意外にも少年の声に嫌悪のいろはなかった。むしろ、さっきよりも警戒心が薄らいで柔らかい声音になっている。
亮は、恐る恐る少年を見た。
「嫌じゃなかったんですか?俺だったら、いきなり説教臭い自分の思い出話始めるような大人なんて絶対嫌だけど。」
少年はふはっと笑った。そうすると、不安定な『美』は消えて、そこにいるのはただの高校生だった。それでも、亮は彼を描きたいと思う。
「説教だったんですか?」
「いや、違います。不審者だと思われないために何を言えばいいかなって思って、思い付いたのが……」
「思い出話って訳ですね。」
「今思えば、逆にめちゃくちゃ怪しいですけど。」
「ユニークで俺はいいと思いますよ。」
少年が、また、笑う。今度は皮肉るような、少し斜に構えた笑顔。
どんな顔だって、絵になるけれど。
「それはどうも。」
少年が顔を覗き込んできた。そうすると、前髪に隠れて見えなかった、長い睫毛に縁取られた瞳が見えるようになった。いかにも思春期らしい、様々な感情が煌めく複雑ないろをしていた。
亮はその瞳に吸い込まれるような錯覚を覚えて、慌てて目を細めて笑顔を作った。
「どうかしましたか?」
「そういえば、名前、聞いてなかったと思って。」
「確かに。言われてみればそうですね。俺、東雲亮です。東の雲で『しののめ』、『りょう』は、吉沢亮と同じ字です。」
「俺は、西宮薫です。西に宮殿とかの宮で『にしみや』、薫風の薫で『かおる』と書きます。」
薫、かおる……
亮はその響きをかみしめて、少年によく似合っている、と感嘆する。
けれど、口では全く違う感想を言った。
「『西』と『東』ってなんかセットぽいですね。俺、『西』がつく苗字の人って初めて会ったかもしれないです。」
「俺も、初めてです。」
「方角がつく苗字の人ってそんなに多くないですもんね。」
「はい。」
生産性のない話題を選んでしまった。
亮は頭を抱えたい思いで、気まずい沈黙のなか笑顔を凍り付かせる。
沈黙を破ってくれたのは、薫だった。
「東雲さんって、おいくつなんですか?」
「俺?ですか?」
「社会人、ではないですよね?」
「20歳ですよ。まだ大学生です。」
別に答えない理由もないから、亮は何でそんなことを聞くのか不思議に思いながらも回答する。薫はそうですか、とただ頷いた。
「西宮くんは?何年生なんですか?」
「高一です。」
薫は上目遣いに亮を見上げて、指を2本立てた。
「二つ、お願いしてもいいですか?」
内容次第、冷徹な言葉が飛び出しかけたのを慌てて飲み込む。何故かはわからないけれど、せっかく信用してくれたのだ。そんな答えをするわけにはいかない。
「何でもどうぞ。」
「ありがとうございます。まず、敬語外してくれませんか?5つも年上の方に敬語を使わせてると思うと、どうもやりにくくて。」
お安い御用だ。亮は迷わず頷いた。
「了解。二つ目は?」
薫は言いにくそうに顔を歪めた。
「その……せっかくセットって言ってくれたのに申し訳ないんですけど、苗字呼び、やめてくれませんか?そんなに好きじゃないんです。すみません。」
心底申し訳なさそうに眉をさげる薫の頭を、亮はがしがしと撫でた。
「気にしないで。俺こそ、無神経なこといってごめん。」
「でも……」
亮はしばらく考えて、じゃあさ、と明るく言った。
「俺の頼みも二つ、聞いてくれない?」
「勿論です。むしろ、三つでも四つでも聞きます。お詫びもこみなので。」
ちょっときりっとした顔でいう薫が面白くて、亮は吹き出しそうになる。本人は至って大真面目だから何とか堪えたけれど。
「じゃあ、三つ。」
「はい。」
「まず、一つ目。俺のことも名前で呼んでよ、薫。」
「亮さん、ですか?」
「呼び捨てで。」
薫は戸惑ったように目をぱちぱちさせた。可愛い、と亮は思う。
「り、亮?」
「そうそう。んじゃ、二つ目。薫も敬語なし。」
「え!?」
「俺さ、ここに一か月近く滞在する予定なんだ。どうせなら、薫と対等な関係で仲良くなりたい。」
「対等……」
薫はこれまでの比較的はきはきとした口調とは打って変わって、どこかたどだどしく呟く。
「嫌?」
目を覗き込むと、薫はぶんぶんと勢いよく首を振った。
「嫌じゃない!」
「ならよかった。これからよろしく、薫。」
亮が突き出した拳に、薫が自分のそれを合わせる。
「こちらこそ、よろしく、亮。」
亮はこっそり深呼吸して、早鐘を打つ胸の鼓動を落ち着かせようとするが、無理だった。仕方なく、極度の緊張状態の中、三つ目の、本命の頼みを口にした。
「三つめは、俺のモデルになってほしい。」
「モデル?」
「そう。俺、美大生でも何でもないんだけど、絵、描くの好きでさ。ここにもそれ目的で来た。薫を描きたいんだ。」
「俺を……」
薫はこれまでの戸惑いとは違う表情で顔を曇らせた。
亮としては、できれば薫を描きたかったけれど、この短い時間で薫と会話することにも価値を見出していたから、薫が嫌がるのなら強制するつもりはなかった。
と言いつつ、『頼み』でそれをいうのは我ながら性格が悪いと思うけれど。
「嫌なら、無理にとは言わない。」
薫が断りやすいように、考えて先を続けた。
「嫌がるモデルを描いても良い絵は描けないからさ。」
しかし、薫はゆっくりと首を横に振った。
「嫌な訳ではない。けれど、俺、夜しか外に出られないんだ。この暗さじゃ、絵は描けないだろ?」
亮は月が明るく光る夜空を見上げて、肩をすくめた。
「簡単だとは言わないけど、できないこともないよ。俺は、ちょっと面倒くさくても、君が嫌じゃないのなら、薫が描きたい。」
薫は暗闇でもわかるほどに顔を真っ赤にして、そっぽを向いた。
「なら、いいよ。好きにして。」
「ありがとう!!」
亮は薫に抱き着きたくなる衝動を必死に堪える。
ただ、幸か不幸か、そう長い間我慢する必要はなかった。
薫が立ち上がって別れを告げたからだ。
「じゃあ、俺、そろそろ帰るね。明日も暗くなり始めたらここにいるから。」
「了解。また明日、薫。」
「うん。また明日、亮。」
薫の姿が亮が通ってきたのと同じところから消えていき、亮はほっとして無意識のうちに力をいれていた全身の筋肉を弛緩させた。
ぼーっとまっすぐ前を向いて、初めてここが探していた場所であることに気が付いた。
暗くてよく見えないが、確かにあの写真の場所だ。
けれど、ついさっきまで感じていた、そこを描きたい気持ちはどこを探しても残っていなかった。
今は、薫を描きたい想いでいっぱいだ。
亮は景色をじっと見つめて、苦笑する。
今まで、自分は割と頑固な方で、そう簡単に移り気などしないと思っていたのに。
勢いをつけて立ち上がる。
流石に、長旅で疲れている。明日も夜に活動するのなら、今日はなるべく急いで寝なければ。