偽装離婚
「なんだこの米は! こんな飯が食えるか」
リビングのテーブル、夫婦で夕食をとっていると、夫の慎司が食べかけのお椀をテーブルに戻した。妻の梨奈は不安そうに夫の顔を覗き込む。
「米の粒が潰れてベチャッとしている。米本来の味や甘みも弱い」
「ごめんなさい……」
「僕の母は洗った米をちゃんとザルで水を切って、季節によって浸水時間と水の温度まで変えてたんだ」
ちっと舌打ちをし、今度は箸で焼き魚を持ち上げた。
「焦げすぎじゃないか。焦げたタンパク質は癌の原因なんだぞ。俺を死なせるつもりか!」
イライラしたようにビールを呷り、グラスをテーブルに叩きつける。
「さっと注げ!」
「は、はい」
梨奈がビール瓶を傾け、グラスに琥珀色の液体を注ぐ。
「夫のグラスはいつも見ておけ。ビールは注ぎ足しをすると味わいが落ちる。グラスが空になったのを確認してからお酌をしろ」
酒で赤く濁った目で睨み付けられ、梨奈は震える手でビールを注ぐ。
「そうじゃない。ビール瓶のラベルを上にして、ラベルを隠さないように右手で瓶を持て。左手は瓶の下を軽く支えるように添えろ。その程度のことも知らないのか」
緊張で酒を注ぎすぎ、白い泡がグラスからこぼれ、夫の手に垂れ落ちた。
「ごめんなさい」
瓶を置き、あわててティッシュで夫の手を拭く。その手を慎司が振り払った拍子にグラスが倒れ、液体がテーブルに広がり、さらに被害が拡大した。
梨奈は床に膝をつき、こぼれた液体をティッシュで拭き取っていく。その手を夫のスリッパの足が踏みつけた。
「粗相を詫びるのが先だろ」
「申し訳ありませんでした……」
「もっと頭を下げろ! 謝罪の気持ちを見せろ」
額を床にこすりつけ、すいません、と謝る。あまりの屈辱に夫を睨みつける。
「なんだその反抗的な目は!」
髪の毛を掴んで強引に立ち上がらせ、窓辺に引きずっていく。
「痛いっ……お願い……あなた、やめて!」
窓を開け、妻をベランダに放り出した。冷たい夜気が梨奈の首を撫でる。スカートにカットソー、薄手のセーターという格好だったので外の寒さが肌を刺す。
妻をベランダに出し、夫が窓に鍵をかけた。
「お願い、家に入れて!」
窓にすがりついて訴えるが、慎司は無視して食卓に戻る。
「……家に入れて……お願いです……」
マンションのベランダで訴えると、他の家の窓がガラガラと開く音がした。悲痛な声を聞いて何事かと思ったのだろう。
やがて夫が窓辺に戻ってきた。静かにするように目顔で伝え、鍵を外し、窓を開けた。梨奈が家の中に戻る。
「ちょっとやりすぎたかな?」
慎司がポケットからスマホを出し、録音ボタンを止め、「今の声は編集でカットしておくよ」と言った。
梨奈はキッチンペーパーを手に、テーブルや床の汚れを拭きはじめた。夫も隣に膝をつき、掃除を手伝う。
「通報されてないよな」
「大丈夫だと思うけど……万が一、通報されたとしてもいいわ。警察に記録が残るから」
かれこれ一ヶ月近く、この「DV夫婦ごっこ」をやっていた。夫の慎司は妻の食事がまずいと言ってはキレ、掃除や片付けがなってないと怒鳴りつけた。
話はその三ヶ月ほど前にさかのぼる。夫が経営するソフト会社で開発中のアプリが頓挫し、経営が厳しくなった。このままでは不渡りを出すのは時間の問題だった。
夫婦の話し合いのさなか、夫が提案した。
「このままじゃ家も貯金も債権者に差し押さえられてしまう。俺に考えがある。おまえに財産を譲って離婚をしよう。会社が倒産しても、離婚している以上、おまえはもう俺の妻じゃない、他人だ。他人の財産は差し押さえできない」
「そんなことができるの?……」
「ただ民法では、相手方と通謀してなした嘘の行為は無効になる。ようは債権者を欺くために財産を移して離婚をしたことが明らかになったら、財産転移そのものが無効になるんだ」
「じゃあ、ダメじゃない」
「だから〝偽装〟じゃなく、本当に別れたことにすればいい。夫婦の不仲の証拠を積み上げるんだ。俺がおまえにモラハラやDVをしている声を録音し、動画にも残すんだ」
こうして夫はDV夫を演じるようになった。とはいえ、ワンマン経営者の夫は、もともと家でもモラハラ体質だったので、演技なのか素なのかと言えば微妙なところで、楽しんでやっているようにさえ見えた。
「家も貯金もぜんぶ私に移転させるの?」
「そうだ。ただ財産分与や慰謝料があまりに過大で、債権者に返済ができなくなれば、債権者は財産の移転を取り消せる。民法424条の債権者の詐欺行為取消権というやつだな」
「過大って? 具体的な金額の上限とかがあるの?」
「どの程度を〝過大〟と見なし、移転を取り消せるかは、その夫婦の生活状況とか、財産を主として築いたのはどちらかとかによる。ただ……会社を創業した頃は、おまえはウチで経理として働いていた。会社の発展に寄与したと主張できるはずだ」
とにかく、モラハラとDVの証拠を積み上げ、妻が請求する慰謝料をなるべく多く見積もれるようにするんだ、と夫は力説した。
「会社の方は大丈夫なの?」
「なんとか踏ん張ってきたけど、そろそろ厳しいな」
離婚をする前に倒産してしまっては、資産は債権者に差し押さえられてしまう。あくまで〝離婚後〟に倒産しなければならない。
「くそっ……こんなことになったのも山城のやつのせいだ……」
山城裕太は夫の部下で、優秀なプログラマーだった。アプリの開発チームのリーダーだったが、突然、会社を辞めてしまい、その影響でプロジェクトが頓挫したのだ。
「ウチにも何度も呼んで、飯も食わせてやったのに……なんて恩知らずなやつなんだ……」
山城は学生時代からアルバイトで会社で働いていた。天才肌のプログラマーだったが、夫は学生上がりの山城を安い給料でコキ使っていた。
社員になった後も、無理な納期を押しつけ、サービス残業もかなりやらせていたようだ。逃げられて当然とも言えるが、すべて後の祭りだ。
「いいか、債権者は財産移転無効の申し立てをしてくるだろうが、おまえはDVやモラハラがあった証拠を見せろ。会社の経営が傾くとかは関係なく、離婚をしたがっていたと裁判所に信じさせるんだ」
こうして離婚の証拠作りは積み上げられ、一週間後、夫婦は予定通り離婚をした。DVやモラハラの証拠をもとにマンションや多額の現金が慰謝料として彼女に支払われた。その後、無事にというと語弊はあるが、会社は倒産をした。
◇
「マンションを売った? どういうことだ?」
喫茶店に夫の声が響いた。
離婚以来、久しぶりに慎司と再会していた。それまでは離婚した夫婦が二人で会うのは怪しまれると、あえて連絡をとらないようにしていた。
「ごめんなさい。やっぱりあなたとはやり直せません。私、これからは一人で生きていこうと思ってます」
「ま、待て……金はどうするつもりだ? あれは俺に戻すつもりでおまえに渡した預金や不動産だぞ」
「女ひとりで生きていくわけですから、財産分与でいただいていきます」
「約束が違うだろ! 俺たちは偽装離婚を――」
「証拠はありますか?」
冷たい顔で梨奈は言った。
「証拠?……」
「私があなたと共謀して偽装離婚をしたという証拠です」
そんな録音は残していなかった。一方、彼女のもとには慎司がモラハラやDVをした数々の記録が残っている。
「最初からそのつもりだったのか?……」
「何の話ですか? 私はあなたの日頃のモラハラやDVに耐えかねて離婚したんです」
梨奈は黙って喫茶店の伝票を取り、椅子から立ち上がった。
「じゃあ、これで失礼します。お元気で――」
元夫を店に残し、梨奈はその場を離れた。店を出てしばらく歩いた後、人気のない場所に停めていた高級外車の運転席に残り込む。
助手席にはサングラスをかけた若い男が座っていた。夫の会社で働いていたプログラマーの山城裕太だ。
「ぜんぶ終わったわ」
「これで僕と梨奈さんは一緒になれるんですね」
「まだもう少し我慢して。すぐに再婚したら夫や債権者に目をつけられるわ」
「そうですね……梨奈さんと夫婦になれる日が待ち遠しいです」
「私もよ」
梨奈は男の手にそっと自分の手を重ねた。
夫はたまに一人暮らしの山城を自宅に招いて、恩着せがましく食事をとらせた。そのうちに莉奈と裕太は親しくなった。
彼女が夫の横暴さを訴えたところ、裕太も社長である慎司のパワハラで、何人もの社員が辞めていると伝えた。
似たような境遇の二人は意気投合し、やがて愛し合うようになった。梨奈はどうすれば夫と離婚し、財産を手にできるかを考えた。
まずは天才プログラマーの山城に会社を辞めさせる。経営が傾いたところで、梨奈が財産移転のアイデアをそれとなく夫に授ける(あくまで夫が思いついた形をとらせた)。
その上でモラハラやDVの証拠を積み上げ、夫の過失で離婚する。あとは復縁をせずに、そのまま別れてしまえばいい。
「梨奈さん、僕、起業しようと思ってるんです」
「あなたならできるわ。資金は私が出すから安心して」
手に入れた金を元手に裕太と一緒に会社を興す。経理や経営は自分が担う。天才プログラマーの裕太がいれば、不可能なことは何もない。
モラハラ夫と体よく別れ、前途有望な若いパートナーを手に入れた。バラ色の未来を思い描きながら、梨奈は艶やかに微笑んだ。
(完)