ヒモ故の苦悩
赤斗がマガツの屋敷に迎えられてから一週間が経った。ここに来て彼はようやく日本でいうところの健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を手にすること出来ていた。あの街ではとても手が出なかった清潔な服が支給され、見るからに豪華な食事が毎日三食も出され、自分だけの広い生活スペースに寝床まである。衣食住に関しては以前に比べると見違えるほど良くなった。
それによってこの世界に来てから一年ほど悩まされてきた慢性的な腹痛も解消され、赤斗はみるみるうちに元気と気力を取り戻し始めた。
それもこれも自分の血が吸血鬼にとってたまたま価値があるという、ほぼ生まれ持った運だけで手に入れられたということ。それはこの世界に突然放り込まれて成す術もなく追い詰められていた彼にとっては素晴らしいことであったが、同時に大きなプレッシャーでもあった。
(ここにいる人たち、滅茶苦茶働いてるんだよなぁ……。僕だけ何もしてないの、結構申し訳ないんだが……)
一週間この屋敷に住んでみてわかったが、ここにいる人々は誰しもが複数の高度な技術、もしくは一点に突き抜けたものを持ってマガツに貢献している。無駄な人員は赤斗が見る限り一人も存在しないほどで、それは便所掃除にしても変わらない。
一日に数回は必ず利用する便所で赤斗は掃除をしている者に一度遭遇したことがあるが、彼の仕事ぶりは一年近く糞攫いをしていた自分が情けなくなるほど洗練されていた。勿論便所掃除など彼にとって仕事のほんの一部でしかなく、他にも屋敷の掃除から庭の手入れまで多岐に渡る技術を兼ね備えていた。
恐らくこの世界の中でも各分野で上位に位置する者しかいないような屋敷。そんな中自分はその主であるマガツに希有な血液を見出され、ここに客人として招かれた。そもそも栄養失調気味で余裕がない時には大して考えもしなかったが、ある程度潤った今となっては自分の価値がO型Rh nullの血しかないこの状況はかなり引け目を感じた。それにまだ赤斗はマガツが自分の血を吸って狂喜乱舞している姿は直接目にしていないため、そんな不安は日が立つごとに増していった。
しかし今の自分がこの屋敷に仕えている者たちのように何か仕事が出来るかといえば、そんなことはない。自分がこの世界で一年間やってきた掃除さえ、屋敷の清掃人からすればむしろ邪魔に思えるほど稚拙だろう。現に何度か自ら便所や部屋の掃除をしてみたものの、やんわりと止められてやり直されるだけだった。
それからも食事の終わった食器を片付けやすいよう揃えてみたり起きた後に布団を整えたりなどはしているものの、精々使用人たちからの心証が少しだけ上がっているくらいのものだろう。これで役に立っているとはいえない。
それに周りの人々も自分がマガツにどのような価値を見出されてこの屋敷に招かれたのかあまり判断がつかず、様子を窺っている節がある。
勿論、マガツが使用人たちに客人にはよきにはからえと言ってくれたので、何か要求すれば人々はそれに応えてはくれるだろう。ただマガツにとって赤斗の価値は一体何なのか、屋敷の人々も測りかねている様子ではあった。
実際に赤斗の予想通り、元から屋敷に仕えていた人々も彼の価値を測りかねていた。奥の部屋にまで通される客人など今まで一人もいなかったので、初めは余程の文化人なのではと使用人からは噂されていた。
しかし彼の日常での立ち振る舞いを見るにどうもそういうわけではなさそうだった。ならばマガツの夫、もしくはその年齢にしては若々しい童顔からして愛玩用の側室か。しかしそういった異性関係については今まで欠片も興味を示さず東の文化に傾倒していた主が、何故今になってというのが正直な感想だった。
その中で祖父母の代から続いている取引を今もなお続けている商人や文化人などは、少なくともマガツが人外であることには気付いている。そのため一芸に秀でているわけではなさそうな赤斗が何のために連れて来られたのかは想像するに難くない。しかし彼がどれほどマガツに気に入られているのかはまだ不明のため、付かず離れずの位置を崩さぬまま様子を窺っていた。
そのため赤斗は生活に余裕が出てきて時間を持て余し始めたものの、周りの人々とそこまで深く交流は出来ず一人で過ごさざるを得なかった。しかし功を焦って行動したところでそれらは空回りし、大した結果は得られなかった。
それからは取り敢えずマガツが読んでいるという書物や巻物を読解するよう努力し、それが煮詰まってきたら最近納品されたという珍しい鯉に餌をやるという何とも煮え切らない日常を過ごしていた。
「そろそろ頃合いかの」
だが翌日の夕食を食べ終わった時、突然部屋に訪ねてきたマガツの一言でそんな日常も終わりを告げた。
「……そう、ですね。お陰様で体調も戻りつつありますから」
「何じゃ、まるで屠殺される寸前の家畜のような目をしおって。そういえばお主は、吸血鬼に吸われる経験はなかったか」
「はい。元々は血が足りなくて困っている人のために提供していたものですから、吸血鬼と出会ったこと自体が初めてです」
「少なくとも吸血する際に痛みはない。むしろ人にとっては心地良いとさえ思えるようじゃから安心するとよい。それに、今日は改めて味見をするだけじゃ。まだお主の体調も万全ではないようだしの。あぁ、腕でよいぞ」
吸血する際に長い白髪が邪魔になるのか、マガツは髪留めで後ろに纏めながらそう言った。そして赤斗も慣れた様子で腕を捲ると同時に、生前に献血していた時のことをふと思い出した。
(……そうか。献血の時にやってきたことを、ここでもやっておけば血の質とかは上げられたかもしれない。しまったな、何か行動しなきゃって思いだけで空回りして、単純なことに気付けなかった……)
希有な血液型だと幼少の血液検査でわかってから、赤斗は献血可能な年齢である十六歳から八年間欠かさず献血施設に足を運んでいた。ただ献血といっても健康状態が悪いと採血が不可能なため、赤斗は看護師や医者から健康維持については指導されてきた。それに待ち時間での医療関係者との世間話で少なくとも一般的な人より血に関しての知識は得ていたし、健康的な血を提供するためにやるべきこともよくわかっていた。
そもそもマガツに血を吸血されることと献血も、よくよく考えてみればさして変わりはないのではないか。ならば変に焦って慣れないことをするよりも、生前のように献血の準備でもするように過ごした方がむしろ自分にとっても良かったのではないか。そうならば今周りにいる人々へ正式に頼めることも多くある。
そんな考えが腕を捲った頃に浮かびはしたが、もう時は戻らない。マガツは自分の腕に今にも牙を突き立て、血を吸おうとしていた。
(あんな状況でも、血は有益だと判断はされたんだ。頼むから、まだマガツにとって美味くあってくれよ……)
あそこまで健康状態の悪かった血でも見初められたことに違いはないが、いざ再び味見と言われるとあまり自信はない。献血現場ではかなり重宝されていたにせよ、それが吸血鬼にとっても有用かどうかは彼からすればまだ確定的な情報でもない。
そんなことを神に願うように赤斗は目を閉じ、自分の血が吸われていく感覚を味わった。確かに痛みこそなかったが、それは自分が死ぬ際に血の気が抜けていった感覚と同等のものだったので彼からすれば心地良さの欠片もなかった。
そして十秒以上は血を吸っていたマガツがようやく腕から口を離したので、赤斗は固唾を飲みながら目を開けて彼女の様子を窺った。