吸血鬼狩りか吸血鬼か
「む、起きたか」
「……え?」
そんなマガツの呆れ返ったような声で赤斗は唐突に目を覚ました。およそ一年ぶりに食べたまともな果物を食べ尽くしたところで記憶が途絶えているところからして、そのまま気も抜けたこともあって寝てしまったのだろうか。
ひょいと彼女の背中から下ろされたことに驚いたが、その後これが初めてあの監獄のような街から踏み出した一歩なのだということに赤斗は少し感慨深くなる。自力で出ようと思ってもそもそも自由な移動が認められておらず、仮に無理やり出たところで狼に喰い殺されるようなあの街から、こんなあっさりと出られるとは。
(……いくらこき使われてたとはいえ、何も言わずに抜けてきたのは忍びないな。状況が落ち着いたら、改めて謝罪には行くか)
吸血鬼が自分の血に価値を感じて保護してくれるかは不明だったので、事前に仕事を辞めるようなことはしていない。ただ気付けば既に街から出ているような状況だったので、慢性的な腹痛持ちだということを理由に理不尽な額の給料を差っ引いてくるような仕事場だったとはいえ、バックレるような形で辞めるのは申し訳なかった。
「まぁ、気絶しておいて貰った方が運びやすかったからよいがの。ほれ、あそこが妾の屋敷じゃ」
「…………」
そんな胸にしこりが残るような罪悪感を抱えているとマガツに後方を指差された。
振り返ってみると、その先にはしだれ桜で隠されるように建築されている大きな朱色の屋敷が鎮座していた。その横にある大きな池にはまだ建設途中である大橋と、そこで働いているであろう人々の姿も見受けられた。
マガツの住んでいるという屋敷にここまで多くの人がいるということに赤斗は驚きつつも、着物を引きずるように歩く彼女に付いていく。人が数人横に並んで歩けるほどの小規模な橋で池を渡ると、大橋の工事をしていた男たちは彼女に向かって各々お辞儀して挨拶した。
「あっ、どうも」
「構うな。ゆくぞ」
そんなマガツの傍にいる自分にもついでに頭を下げてくれたので、少し浮足し立った様子で挨拶を返す。そんな赤斗を彼女は急かしながらも大きな赤門の小脇にある扉を開け、屋敷の中に入った。それから洒落た草履を脱いだマガツに倣い、赤斗は靴とすら呼べないボロボロのそれを脱いで備え付けられていた雑巾で足を拭いてから上がった。
その大きな屋敷の内部にも人々はちらほらと見受けられた。ほとんどの者はこの大きな屋敷の清掃をしている者のようで、マガツには喋りかけるのも恐れ多いといった具合で頭を下げていた。それから気の遠くなるほど長い縁側の雑巾がけや、使い古された畳を丁寧に乾拭きする作業をその者たちは再開する。
そんな者たちが念入りにこの屋敷を管理しているおかげか、内庭や池も綺麗に整えられていて室内も清潔感があった。そして掃除している者に構わず我が物顔で掃除された縁側を進んでいくマガツの後ろを、赤斗は申し訳なさげに歩く。
「あぁ、マガツさん。この間注文して頂いた桜鯉ですが、今日納品させて頂きました。是非内庭でご覧になってみて下さい」
「おぉ、そうかそうか。ご苦労じゃったな。あとで餌でもやりにいくかの」
「ところで、隣のお方は……?」
「あぁ、こやつは妾の客人じゃよ。しばらくこの屋敷に移り住むことになるじゃろうから、お主にも入り用があれば何か頼むやもしれぬ。その時はよろしく頼むぞ」
「おぉ、そうでしたか! それでしたら、私に出来ることがあれば何なりとご申しつけ下さいませ」
「よ、よろしくお願いします……」
屋敷内にいる人間はほとんどが清掃人のようだったが、時折マガツと取引している商人らしき者も見受けられた。そんな者たちと赤斗は何度も自己紹介を重ねながら屋敷内の奥へ奥へと入っていく。
「ここが妾の部屋じゃな。お主はここの隣を使うといい。恐らくこの屋敷で一番安全なのはここじゃろうしの。人が住むための物はこれから使用人たちに運ばせるから、それまでは妾の部屋で待っていてくれ。その間に皆へ客人が来たことを知らせておきたいしの」
「わかりました」
「ではしばしここで待っておってくれ。すぐ戻るから出るでないぞ。その代わり部屋の物は好きにして構わんからの」
マガツはそう言って親切の押し売りをするかの如く赤斗を部屋に押し入れて扉を閉めると、早足だということがわかるほどの足音を立てながら去っていった。
赤斗が押し込まれた彼女の部屋は、典型的な和室といえる内装だ。開け放たれた雪見障子から流れる風は真新しい畳の匂いがした。床の間には殿様辺りが好んでいそうな掛け軸が下げられ、その下には鞘に収まったものと抜き身の刀が二つ掲げられている。
その他にも古めかしい壺などの骨董品に、生け花が飾られていたりと随分手がかけられた部屋であることに間違いはないようだ。何だか修学旅行の時に博物館などで見たことがあるような光景をぼんやりと思い出しながら、赤斗は重ねられて置かれていた座布団を一枚取って敷き、恐る恐るといった様子で腰を下ろす。
(あの人、習字の練習でもしてるのか?)
中央にある座卓の上には赤斗からすれば懐かしい物が置いてあった。文鎮で留められた半紙に墨の入った真っ黒な硯、小学生の時に使った記憶のある道具の数々だ。しかも恐らく一般的に見ても書かれた字は達筆といえるものだった。
赤斗がいた街の字は漢字が主体に使われていたので、多少は読めたし書くことも出来た。ただその意味合いについては日本語と違うところも多々あったので、彼からすれば中国語を見ているような印象だった。そのため会話こそ何故か自然と出来たが、文に関してはかなり曖昧にしか意味を把握できない。
それから赤斗は半紙に何枚も描かれている字の数々を見て時間を潰した、というよりは少し目を奪われていた。まさにお手本ともいえる達筆な漢字から、書道家を思わせるように立体的なものまで幅広く書かれている字は素人の彼から見ても中々面白かった。
「……あまり人に見せるようなものでもないんじゃが」
そうこうしているうちに部屋へ帰ってきたマガツは、半紙を見つめていた赤斗を見てそう呟いた。彼女が部屋に帰ってきたことに慌てて半紙を机に置き、立ち上がろうとしたところを手で制される。
「お主の部屋については手配した。家具の搬入も夜には終わるじゃろう。それと、妾の客人だということもじきに広まる。そうなれば多少の融通は利かせられるじゃろうから、屋敷の奴らは好きに使うとよい。お主の役に立つじゃろう」
「……そこまでお気遣い頂き、ありがとうございます」
ここまで大きな屋敷を維持しているだけあってか、突然人が一人来ようともそれを養えるくらいの力をマガツは持ち合わせているようだ。だがどうも想像していた吸血鬼の力の方向性が違ったので赤斗がどう尋ねようが思い悩んでいると、それを察した彼女は腰を下ろしながら話し始めた。
「確かに妾は吸血鬼であるが、それと同時に吸血鬼狩りでもある。それに東の文化は好きじゃからの。吸血鬼を狩った報酬で人間とも取引をするし、こうしてこの屋敷で雇ったりもしておる」
「なるほど……確かに、僕の想像していたものとは違いました。噂に聞く限りでは、力づくで人間を奴隷のように従えて搾取しているものだと」
「そこらの吸血鬼とは一線を画しておるということよ。そもそも、人間を刀で脅したところで文化的な活動など出来るわけもあるまい。勿論、脅す方が効率的だというのならそれも厭わぬ。しかしそんなことは稀であるしの」
「だからこそ人間との取引にも応じてくれるわけですか。……かなりの覚悟はいるようですが」
雇われている者たちはまだしも、先ほどのようにマガツと直接取引をしている者たちも自分と同じような修羅場を潜ってきたのかと思い赤斗はそう言った。するとマガツはうーむと腕を組んだ後、真っ白な髪を要領なさげにくるくると指先で弄った。
「いや? そもそも彼奴らとはこちらから声をかけて取引をしておるに過ぎんよ。妾は文化を望み、それを持ち合わせている奴らは金を望む。ただの正当な取引ではないか。その間に覚悟などいらぬじゃろ?」
「……えーっと、それなら何故僕はあそこまで詰められたんでしょうか?」
「そりゃあ、奴らは吸血鬼狩りである妾と取引しているだけじゃからのぅ。勿論、長年取引している者は妾が何であるか勘づいているじゃろうが、あちらから何か物申してこない限りは吸血鬼狩りとして取引は続ける。じゃが、お主は吸血鬼である妾に取引を仕掛けてきた。ならば覚悟の一つは必要じゃろうて。まさか切腹で応じられるとは思いもしなかったがの! くくく……」
「そ、そうですか……」
それなら初めから素直に取引してくれてもいいじゃないかと思いもしたが、どうも吸血鬼狩りと吸血鬼の認識違いで対応が変わるらしい。結果的には良い方向に転がったからいいものの、若干の理不尽さを感じながら赤斗は小さくため息をつく。すると彼女は思いついたように言った。
「部屋の準備が出来るまでの間に、風呂にでも入ってくるが良い。お主、臭うからの」
「……すみません。お借りします」
そうして赤斗はマガツの屋敷の客人として一先ずは迎え入れられることとなった。