切腹
「な、何をしておるんじゃぁぁぁぁ!!」
それでようやく赤斗が自殺を試みようとしていたことを理解したマガツは、思わずそう叫びながら瞬時に間合いを詰めて彼の手からそれを奪い取った。半ば弾かれるようにナイフを取られた彼はその勢いに負けて地面を転がる。
「何を早まっておる! 正気か!?」
「し、正気かって……?」
「自分の価値をわかっていての所業か!? お主は妾の血袋になり得る存在なのだぞ!? それで何故、切腹など起こそうとするのじゃ! というか、よくそんな古臭い儀式を知っておったな! 妾も実際に切腹などしようとした者は初めて見たぞ!」
先ほどまでの圧倒的強者のような雰囲気から一転してそう力説し始めた彼女に、赤斗は呆気に取られながらも身体を起こす。
「扱いは家畜と変わらないんだろ? 今よりもっと酷い状況になるなら、もう死んだ方がマシ――」
「……確かに家畜とは言ったがなぁ、少なくとも今のお主よりは扱いは良いじゃろう。それを切腹までして断るようなことでもあるまいて。お主にとってそこまで吸血鬼に飼われることは苦痛を伴うものなのか? 介錯人をつけない切腹すらも厭わないほどに?」
「……?」
少し話が噛み合っていない気がしたので、赤斗は取り敢えず無言を貫いた。確かに彼はマガツからの武力行使によって自身が人質にされてしまうことを防ぐため、自分の命に価値がないことを証明するように自殺を試みた。それをしなければ改めて交渉のテーブルに座ることが出来ないと考えたからだ。
ただ、彼女はどうも自分が切腹しようとしていたと大袈裟に勘違いしているようだった。そもそも吸血鬼が切腹という行為を知っていることが驚きだが、この街の人々は顔こそ西洋寄りであるにもかかわらず和服に似ているものを着ていたりするので、それを知っていたとしてもおかしくはない。
しかし、自分もそこまで考えて切腹しようとは思ってもいなかった。そもそも初めから首にナイフを向けて、武力行使による脅しには屈しないことを証明するつもりだった。しかしいざそれをしようとしたところ首に刃先を向ける恐怖の方が勝ったため、まずはお腹を刺そうとしてみた。しかし服が邪魔で全く刺さる気配がなかったので、仕方なく覚悟を決めて首にナイフを向けただけだ。
だがマガツはどうも切腹に随分と重きを置いているようで、それと同時にまるで切腹シーンを見た時代劇ファンかのように高揚してもいるようだった。そもそも切腹の知識など大して知らない赤斗は彼女がそこまで言葉を続ける意味がわからなかったが、下手なことを喋れば事態が良くなるとも思えなかったので神妙な顔のまま黙っているしかなかった。
するとマガツがそれをどう受け取ったのかはわからないが、地面に片膝をつけて視線を合わせてきた。
「少なくともお主には血袋、いや、眷属にしてやるだけの価値を妾は見出しておる。先ほどは人間が生意気にも妾に交渉事のようなことを仕掛けてきよったから立場を理解させてやったが……自身のみで切腹するほどの覚悟で臨むのなら、お主の望みも少しは聞き入れる度量を見せねばなるいまい。じゃから、もう昔の者たちのように血を流すようなことはするでない。過ちを繰り返すことはないぞ」
「……そう、ですか。そこまで言って頂けるのなら、こちらとしてもありがたい限りです」
恐る恐るといった様子で赤斗がそう言うと、マガツはわかってくれたかと言わんばかりに顔を明るくした。
「よい、よい。では、付いて参れ。妾の屋敷にてお主を歓待しようではないか。悪いようにはせぬぞ」
(なんかよくわからないけど、上手い方向に転がった気がするな……)
しかしそんなことをわざわざ口に出すはずもなく、赤斗は身を翻して歩きだしたマガツに付いて行った。水すらまともに飲めないようなこの世界で血と引き換えに保護を受けられるのなら願ったり叶ったりだ。それも搾取されるだけでなく、多少は対等の立場であるに越したことはない。
それに吸血鬼自体に遭遇したこと自体初めてであるが、マガツと名乗った彼女はその雰囲気と言動からして只者ではないように思える。ひと悶着はあったものの希有な血と引き換えに保護を求める相手としては悪くない相手ではあるだろう。
そんな赤斗が路地裏を抜けるまで素直に付いてきたことにマガツはご満悦の様子で頷くと同時、表通りの屋台から香る匂いを嗅ぎつけた彼のお腹がぐぅと鳴った。
「なるほど、絶食も自ずと出来ていたわけか……」
何やら一人で納得している様子のマガツはそんな赤斗に好きな物を買うといいと言って、彼が早々目にすることのない銀貨などが入った財布を手渡した。
「妾の屋敷にも人が食えるものはあるじゃろうが、些か距離がある。その前にこの街で腹ごしらえをするとよい。これぐらいあれば足りるか?」
今の自分の命より重そうな財布を戦々恐々とした様子で受け取った赤斗は、申し訳なさそうに尋ねる。
「すみません。僕はどうも、この地域の水を口にするとどうしても腹を壊してしまうようで……。なので少し高価な食品を買うことになってしまうのですが、それでもよろしいですか?」
この街の水は日本人である赤斗の身体には絶望的に受けつけられない。普通に売っている水を飲もうものなら全身から冷や汗が吹き出て、その場から動けなくなるほどの腹痛に襲われる。それどころかその水で洗われた包丁で切られた食材ですら、食べれば翌日には腹を壊す。念入りに火を通そうがそれは変わらないため赤斗がこの街で食べられるものは非常に限られていて、それらはこの街の一般的な食事に比べると高かった。
「それでは足りぬのか?」
「いえ、十分すぎるほどです。ですが普通よりは多めに使ってしまうことになるので、一応確認を」
「屋敷に帰れば金銀なぞいくらでもある。それよりもまずお主の体調を整えることの方が重要じゃ。むしろ買いすぎるくらいでよい。好きに使ってまずは食え。話はそれからとしよう」
「ありがとうございます!」
一年の試行錯誤を得て自分が腹を下さずに済む食べ物についてはある程度把握している。とにかく水が一滴でも付着していたら腹を壊すので、庶民的な屋台はほぼ全てアウトだ。そのため中に水が介入しようのない皮付き果物を自分で剥いて食べるのが一番安全である。
しかしこの街の果物は庶民からすれば高価な部類のため、単純な肉体的な労働でしか稼げない赤斗はその中でも一番安いみかんばかりを食べているにもかかわらず、資金難に陥らざるを得なかった。
だが、今はどうだ。自分の血と引き替えにマガツから貰った金があれば、中流階級の者たちが行くようなレストランにだって行けるだろう。まだ一度も行ったことはないので確実ではないが、恐らくそこなら腹を壊すことなくまともな食事にありつけるかもしれない。
ただ、今はとにかく腐りかけの安いミカン以外のものを口にしたかったので、赤斗は自分の月給ぐらいの値段がするスイカやメロンを両脇に抱えて購入した。そんな果物をまるで獣のように貪り始めた赤斗を、マガツは満足そうな目で見ていた。
――▽▽――
「ぐぅぅぅぅ……」
目の前の男が一体何をしようとしているのか、マガツは始めわからなかった。だが腹に小太刀を突き刺す絵を書庫の奥底に仕舞われていた巻物で見たことがあることを思い出したところで、彼が切腹をしようとしていることに思い至った。
切腹は東の果てに住まう民の伝統的な文化のようだが、それはマガツが唯一尊敬している吸血鬼の始祖について語られている古い物語の中で確かに記されていた。いわく東の民の中でも生粋の実力を持つ吸血鬼狩りは、始祖との戦いに敗れて血袋に誘われるや否やその場で正座して自らの腹を刀で斬り、漏れ出た五臓六腑を投げつけながら呪言を吐き散らして死んでいったという。
それはあまりにも凄惨な切腹として世に記されていたが、それからも数世代に渡ってその文化は東で根付いていたという。吸血鬼の手に落ちるくらいならば自死をも厭わぬ。それが東の吸血鬼狩りに伝わる文化だった。
だが切腹というのはその潔さこそ清々しいが、死に方として凄惨さを極める。そもそも腹を斬ったところですぐに死ねるわけではない。現に一番初めに切腹をした吸血鬼狩りは数十分は呪言を口にし続けながら果てたという。そんな東の民を憐れんだ始祖はそれから切腹した者が苦しまずに死ねるよう、介錯人となって東の民の首を飛ばして見送った。
そんな姿が絵と共に描かれてたりしていた物語を長年の修行の際に読み込んでいたマガツは、その東文化にも詳しかった。ただそれは今となってはこの東の地ですら野蛮な文化といわれ形骸化していたし、既にそれを知る者も数少ない。
ただそんな切腹についてまだ年若い人間にもかかわらず知っていて、しかもそれを行おうとしたことがマガツにはかなり衝撃的だった。よりにもよって自分が欲する人間に、そこまでの覚悟を持たれているのは不味い。
だからこそマガツはただの血袋ではなく眷属として赤斗を迎え入れるよう譲歩した。すると人間もまた譲歩の姿勢を示してきたので、始祖と吸血鬼狩りが決別した物語を知っているだけに、それとは違う道を歩めたことにマガツは一人感激した。
「なるほど、絶食も自ずと出来ていたわけか……」
切腹の際は事前の食事はあまり食べないようにする。切腹する際に胃袋も斬るので内容物がみっともなく出ないようにするためだ。ただ生活に困窮していることが一目でわかるような身なりをしている彼がそのような状態であることは、恐らく本当に意図して行ったものではないだろう。しかしマガツはそれにも一種のエモを感じていた。
それに彼が切腹について多少の知識はあることは間違いない。これほど果物を食べさせてしまえば斬った後がみっともなくて切腹が出来ないだろうと思い、マガツは彼が貪るように食べていたところもしめしめといった様子で眺めていた。
(身体的に追い詰められていたことが功を奏したか。今のうちに屋敷へ運んでしまおう。そして贅沢の限りを尽くさせてしまえば、切腹するような考えも浮かぶまい)
それから赤斗は久しぶりのまともな食事で気が抜けたのか都合よく眠ってくれたので、マガツはそんなことを考えながらほくほく顔で彼を背負ってその街を去っていった。