提案の末
(……どうやら、本当に吸血鬼ってやつはいるみたいだな)
銀の十字架を首から提げている男――黒彩赤斗は文字通り血の気が抜け、青ざめた顔をしながら街の裏路地を歩いていた。久しぶりに味わうこととなった血が抜けていく感覚は、彼が生前通り魔に刺された時と同等のもので気分が悪かった。
(でもあの様子なら、交渉の余地はありそうだ)
ただそれと同時に赤斗は確かな手応えも感じていた。突然近くの少女が叫びだしたのには驚いたが、それが血の抜ける感覚とほぼ同時だったことからしてあれが噂に聞く吸血鬼であることは間違いないだろう。
正直なところ、吸血鬼なんてものはこの世界でも御伽話のようなもので存在しないと思っていた。だがようやく今日その存在と巡り会えたことで、この世界に来てから一切差さなかった光明がようやく見えた気がした。
通り魔に刺され病院に運び込まれるも結果的には出血多量で死んでしまった赤斗は、唐突にこの世界の地面に頬をついた形で目を覚ますことになった。
赤斗の目覚めたすぐ近くにあったこの街は、時代でいえば中世に似た文化圏で、そこに住んでいる人たちも服装こそ和服だが外国人のような面持ちの者で何処か文化がちぐはぐとした者ばかりだった。だが不思議なことに言葉だけはすんなりと通じたので、コミュニケーションを取ること自体は容易だった。
だが良くも悪くも普通に生き、流れに身を任せるようにそこそこの大学に入って会社に就職していた赤斗が突如として着の身着のままで異世界に連れてこられても、困惑するばかりで効率的に一人で動くことなど出来はしなかった。
その結果としてこの地域では馴染みのない日本人の顔立ちと服装も相まって、街中で徐々に差別を受けてしまうことになり、ろくな仕事に就くことも出来なくなってしまった。
そして一ヶ月もしないうちに自分の持ち物を売ったことで得た僅かな金も尽きてしまった。そこでようやく危機感を実感して頭が回るようになった彼は、まず誰もやりたがらないような仕事をこなして何とかして日銭を稼ぎ始めた。
しかし中世文化での底辺生活は日本育ちの彼には耐え難いものだった。日本での生活に比べればとにかく全てが不衛生で、病気にならないのが不思議なくらいの環境だった。
何とか食べてはいける程度の給金で安い屋台の料理は買えるが、それを食べると大体腹を壊す。だがそれでも食べなければ働きに出られないので、その後はこの世の終わりみたいな臭いのするろくに整備されていない仮設便所に籠るしかない。
日常的に腹を壊している状態だった赤斗が受けられるような仕事は、各家庭にある汲み取り式トイレの清掃と、その汚物を所定の場所に運搬することぐらいだっだ。ろくな道具も支給されないのでかなりの重労働であると共に、その悪臭と周囲からの汚物を見るような視線で精神を蝕まれるような仕事。
それを朝早くから日が暮れるまで行った後は、腐った木材を壁に立て掛けただけの住居へと帰宅する。当然風呂になども入れずフケだらけの頭はシラミの住居になり、かび臭いぺらぺらの布を纏って就寝する毎日。
こんな心身共に疲弊した状態では将来に向けた活動など出来るわけもなく、その日暮らしから抜け出せる未来はない。仮に一念発起してこの街から出るにしても日本のような移動の自由がそもそも存在せず、野生の獣が蔓延る道を単身では歩けずに野垂死ぬだけ。
地獄のような日々を送るにつれて自殺の文字すら浮かんだが、一度死んだ自分に与えられたこの機会を無駄にするのもどうかと思い、それでも死んだ方が幸せなのではという押し問答の中で地べたを這いずりながら生きていた。
「北からキオラミに吸血鬼が何匹か流れ込んだって聞いたから、気を付けていってらっしゃいね」
「あぁ、いってくる」
そんな彼がいつものように狭い穴倉に入って汚物の汲み取りをしていると、微かな声でそんな夫婦の話し声が聞こえた。
吸血鬼。初めは御伽話とでも思っていたが、一般家庭よりは裕福な家の汚物汲み取りをしているとそれからもたまにその話題を耳にすることがあった。
(もし本当にいるんだとしたら、もしかしたら、俺の血が役に立つかも……)
そんな話は汚物運びをしているような赤斗には一切関係ないように思えたが、血のことについては生前から彼の人生に大きな影響をもたらしていた。
O型Rh null、それが赤斗の持つ希有な血液型だった。世界に数十人、日本には彼含めて二人しかいない血液型であるそれは、どんな者にも輸血が可能である黄金の血として重宝されていた。
ただ、それが日本の日常生活で役に立つことなんてなかった。希有な血液型だったので献血をする際は大袈裟なほど看護師に喜ばれるし、これで助けられる命があるのだと思えば自尊心くらいは満たせる。だが、その程度の恩恵だ。
それこそ海外にでも行けばもう少し違った展望が見られたのかもしれないが、そんな勇気も自意識もなかった赤斗は普通に大学を卒業した後に会社へと就職し、三ヶ月おきのスパンで献血をする生活を送っていた。何てことのない普通の暮らしであまりパッとはしなかったが、それでもそこそこ幸せに生きてきた。
だが会社の出張で関西の方へと向かった矢先に、不幸にも通学中の子供を狙っていた通り魔からその場にいたついでのような形で刺されてしまった。ただ、他の刺されていた子供たちと違い致命傷にはならず、病院への救急搬送自体は間に合った。
しかしO型Rh nullという珍しい血液型の輸血用パックは、その病院に存在しなかった。結果として赤斗は輸血が間に合うことなく、出血多量で命を落とすこととなった。
周囲の医者や看護師やらが騒いでいるうちに自分の身体から血が抜け、段々と身体が冷え死に近づく感覚を今でも赤斗は覚えている。それも自分の血液型次第では助かったかもしれないと思うと、黄金の血だなんて御大層に呼ばれているものなんていらなかった。献血で自分の知りもしない誰かの命を救うことのできる名誉よりも、とにかく自分が助かりたいというのが本音だった。
自分にとっては実生活でもさして役に立ったことのなく、死の原因にもなってしまった血液型。だがこの世界には存在するという吸血鬼にとってもこれは、黄金の血になり得るかもしれない。
今までずっと周りの流れに沿うことだけで、一人で生きていくことなどしたことのない自分がこれからこの知らない世界で這い上がっていくためには、普通のことをしていては無理だ。自分の希有な血液型を利用することについては嫌な気持ちもあったが、こんな最底辺の生活から抜け出せるなら何でもいい。
そう決心した赤斗はこの街にいるかもわからない吸血鬼を求め、様々なことを試し続けた。
くたくたの身体に鞭打って奴隷のような肉体労働の仕事を新たに始め、それで得た僅かな金で出来る限りの身だしなみを整えた。それからは吸血鬼にまつわる話を色々と聞いてはその場所に赴いてみたり、安っぽい十字架を買って吸血鬼を挑発できないかなどの試行錯誤をした。
そして赤斗がこの世界に来て一年以上経った今日、ようやくその存在らしきものと遭遇することに成功した。
あまり騒ぎになり目立ってしまうと迫害されている身では危ういのであの場を離れはしたが、もし自分の血が吸血鬼にとっても価値があるのならまた接触してくる可能性は高いだろう。
それにもし価値がなかったのだとしても、今までの生活が更に悪くなるわけではない。自分の血に価値があるかも、という変な期待が消える分これから生きやすくもなるだろう。
「見つけたぞ」
だがどうやら、その僅かな光明に縋りついたのは悪くない選択のようだった。
少なくともこの街では一度も見たことのない紫を主体とした上等な着物を着ている、大人びた印象の強い女性。路地裏の暗がりから浮かび上がっているように見える純白の長髪と、鮮血のように赤々とした双眼。
吸血鬼と言われれば信じてしまえるほど人間離れしたその雰囲気を前に、赤斗は突如として猛獣に遭遇してしまったかのように身体を硬直せざるを得なかった。実際に彼女――マガツはその大人びた雰囲気とは裏腹に、吸血鬼の象徴ともいえる牙を剥き出しにした笑みを浮かべながら、獲物を前にした肉食獣のように息を荒げていたからだ。
「……俺の血を吸ったのは、貴女ですか?」
このままでは殺されかねないという緊張で乾き切った口を何とかこじ開けるようにしてそう尋ねると、マガツは少し驚いたように丸っこい眉を上げた後、にんまりとした笑みを浮かべた。
「ほう、妾から血を吸われたことに気付いていたのか」
「血のことについては、普通の人たちよりは詳しいつもりです。それに、ご覧の通り今の僕の健康状態はあまり良くない。血を吸われた実感こそなかったですが、身体が弱ったから気づけただけです」
自虐を交えながらそう言うと、彼女は興味深そうな目で見つめてくる。
「その様子からするに、貴様は既に他の吸血鬼に飼われているのか?」
「……飼われていません。以前は人へ定期的に血を提供する形で契約を交わしていましたが、それもなくなってしまったので」
「人に?」
「僕の血は、どんな人に輸血しても拒否反応が起きないものなんです。なので血液を大量に失ってしまった人への緊急的な処置に使われていたそうです」
「ふぅん」
マガツはその話に興味がなかったのか欠伸を噛み殺していた。
「それと――」
「あぁ、もうよいぞ? 無駄に喋らなくとも」
その様子を見て内心焦った赤斗は更に自分の血がいかに有益であるか説明しようとしたが、彼女はそれを止めた。
「何か勘違いをしておるようじゃが、お前の些細な事情など妾の知ったことではない。お前が妾の血袋となることは既に決まっておることじゃ。そもそも……そうじゃなぁ、わかりやすく言ってやると、お前。お前は人間でいうところの家畜じゃ。家畜がもし言葉を発したとして、人間がそれをまともに聞くと思うのか? それも、一人前に交渉しようなど、思い上がりが過ぎるのではないか?」
吸血鬼にとって人間は家畜同然。その圧倒的な立場の違いを聞かされた赤斗は、眼前に銃を突き付けられたかのように身体を硬直させて目を見開いた。そして自分の命は彼女の手の上にあることを本能的に理解し、ぶわりとした冷や汗が湧いた。
自分の希有な血液型を利用すれば、吸血鬼と交渉できると思っていた。だが、考えてみれば銃を持っている者と持っていない者とで対等な交渉など、そもそも出来るわけがない。武力を持っている方が有利な交渉を出来るに決まっている。
普通に考えれば事前に想定できるようなことだ。だが吸血鬼にさえ出会えればこの最悪な環境から抜け出せるのだと、心身ともに疲弊しきっていた赤斗は妄信するしかなかった。そうでもしなければこんな状況を耐えきれなかった。
しかし自分が光明だと信じて疑わなかった希望なんてものは、そこにはなかった。その現実をまざまざと見せつけられて絶望している赤斗の様子を見て軽く鼻を鳴らした彼女は、一歩、また一歩と近づいてくる。
(……くそっ、ふざけるな、ふざけるなよ。結局何も変わらないのか? それどころかこのままじゃ、ここよりも酷い生活になるのかもしれない。それじゃあ、俺は何のために……何のためにこんな生活をしてまで生き延びたんだ! まるで意味がない、こんなこと!!)
ここで下手に叫びでもしたら本当に殺されるかもしれないという恐怖で、赤斗は心の中で叫ばざるを得なかった。だがそう叫ぶうちに頭の中は冷えていく。そんなことを嘆いたところで現実は変わらない。
ここからどうすればその最悪を回避できるのか。その考えが走馬灯のように頭の中を駆け巡った。
そして赤斗は近づいてくる彼女に構わず、懐に収めていた小振りの錆び付いたナイフを抜いた。そんな赤斗をマガツは追い詰められた鼠のように眺めながら迎撃しようとしたが、彼の起こした行動は想定外のものだった。
「ぐぅぅぅぅ……」
赤斗は拾い物であるちっぽけなナイフで、自分の腹を突き刺さそうとしていた。だがそもそも彼はナイフなど扱ったこともないのでその一撃はとても稚拙で、恐怖も混じっていたので深く食い込んだだけだった。
「……一体何をしておるんじゃ?」
まるでバターナイフを服の上から無理やり力だけで腹に突き刺そうとした形になり、赤斗は苦悶の混じった呻き声を漏らすだけだった。そんな彼の謎な行動にはマガツも困惑した。
だがそれで服の上からでは到底突き刺せないことを学習した赤斗は、そのナイフを自分の首へと向けた。