【ショートショート】命の花
月の少女は、硝子細工の箱庭に住んでいた。
そこは永遠の夜だ。凍る夜空にはりつく月は青ざめている。冷たい灯りを受けて、硝子の花園はかすかにゆらぐ。透けた花弁のふれあう、その音だけがこの箱庭に時を刻む。
たたずんだ少女はひときわ透明だ。きゃしゃな身体は月影にあいまいに融け、細い髪は夜の闇になかば消えている。
――――このまま終わろう
月の少女はそう願っていた。
少女の透けた心臓がゆるく鳴る。いまにも止まりそうに。
けれど不意に、セカイが砕ける音がした。
――――ガシャンッ
箱庭が、破壊音で震撼する。
硝子の花はきしみ、さえずりを止めた。
「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!」
おそろしい叫びが少女をつらぬいた。
野太い男の声だ。鬼のような形相の男だ。その目は怒りでくすぶっている。
突然の侵入者は硝子の花園を踏み砕き、激しく荒らした。その素足を硝子の花は拒む。破片は無数に突き刺さりずたずただ。それでも男は箱庭を蹂躙する。
「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!」
声にならない声だ。硝子の花は騒音にもはや耐えられない。
男を中心に崩壊が始まる。
ひび割れ、ひずみ、花はその形を失くす。
少女はひるみ、目を固く閉じた。自分も砕けるような思いで立ちすくむ。しかし、崩壊は少女を素通りしたようだ。
次に目を開けたとき、そこはもう硝子の砂丘だ。
花園を壊した男は肩で荒く息をはく。男の体躯はすり切られ、糸引く血が無数にからんでいる。
「どこだ?」
少女は身体をこわばらせた。男は虚ろな目で砂丘をにらみつける。身体をひきずる動きはにぶい。もうぼろぼろだ。
「どこにある!」
男は砂を蹴り、まき散らした。
息もたえだえに、男は言う。
「命の花……」
男はとうとう倒れた。にじむ赤が砂を染める。
それでもなお、切れて血ぬれたくちびるで、男はつぶやく。
「娘が」
男の瞳からひとすじ涙が流れた。
沈黙が下りた。
箱庭には、ふたたび少女だけだ。
少女は歩いた。踏みしめる砂は、少女の足を傷つけない。ただ柔く、足を差し入れるごとに少し弾んだ。
真っ赤な砂地で、少しためらってから、少女はしゃがみこんだ。無数の傷は痛々しく、男の骸は見るにたえない。少女はその肩にそっと手をふれた。おどろくほど冷えていた。
少女は頭を垂れた。何故だか少女は無性に悲しかった。箱庭を壊した男であるというのに。
――――かしゃん
不意に、澄んだ音が響く。驚いて顔をあげると、その光景に目を見はった。
少女がふれた部分に、小さな亀裂が走っていた。そこから何かが伸びる。それは芽だ。男の骸から芽吹いて育ち、たちまちつぼみをつける。あわく色づく花弁がこぼれた。ほんのり赤く、しかし驚くほど透きとおった硝子の花だ。
――――ちがう、これは
唐突に悟る。
――――命の花
花弁がほどけて、見る間に真っ赤に染まってゆく。花がすべての血を吸っているようだ。やがて、男の死体はまったく色あせ、鮮血の赤が咲く。
目を刺す色彩だ。
月の少女は、思わず手を伸ばす。ふれずには、いられなかった。指先が花弁をかすめる、その刹那。
夜が弾けた。
少女は目覚めた。荒い息が口をつく。
――――ここは。自分は。いったい。何が。
吐き気と頭痛が少女を襲う。天井がぐるぐるとまわった。その回転がようやくおさまるころ、ばらばらな記憶のかけらが、少しずつ噛み合い、意味を持ちはじめる。
そして、少女は思い出した。
――――わたしは、確かに
死んだのだ。
いや、死んだと少女は信じていた。
少女は、医者に匙をなげられた子供だったのだ。
どの医者も告げた。割れた硝子から、命が抜け落ちる。少女はまるで壊れた器のようだ。原因不明、病かどうかさえ疑わしい。
――――もはや呪いである。
断罪するような、医者の凍る言葉だった。
みなが諦め、少女をおそれた。少女も諦め、おそれた。
だから少女は箱庭を創った。
自身を皮肉るような、もろい硝子細工の空間。
おそれを忘れさせる美しいセカイ。
少女は透明な月の少女になった。
独りきりでいた。
そして、死ぬ
――――はずだった。
少女は鉛のような身体をやっと起こした。
そうして、初めて、となりを見た。
男だ。
少女の寝台へ身体を半ばあずけて、うずくまっている。顔は血の気を失くし、真っ白だ。しかし穏やかに微笑んでいる。
男の手は少女の手をかたく握りしめていた。まるで、少女を独りにするまいと、そんな風に。
少女はそれに、今初めて気がついた。
その手は、ひどく冷たかった。
「おとうさん」
つぶやいたのは、もう月の少女ではない。
朝日をあびる、ただの少女だ。
少女はようやく思い出したのだ。自分が独りではなかったことを。自分をおそれなかった、諦めなかった人の存在を。
男が望んだのは、ほかでもない少女の命だ。
少女は聴く。
自らの嗚咽と、確かに響く鼓動。
そして、色付く身体の、その奥で。
硝子細工の箱庭が、死への恐怖が。
自分自身を縛る強い、強い呪いが。
壊れ砕けたその音が。
――――――確かに響いた、そんな気がした。