但馬・丹波平定⑤ 赤鬼退治
丹波国・香良。
5月22日の巳の刻(午前10時)。"丹波の赤鬼"に相応しい赤い鎧兜に身を包んだ赤井直正は、決戦を前にして将兵たちの前に立った。
「赤井家の勇敢なる精鋭たちよ! 丹波は今、存亡の危機を迎えておる! 今こそ父祖伝来の丹波を荒らさんとする浅井に、鉄槌を下すのだ!!」
「「「応ッッッーー!!!」」」
直正の檄に応じて地響きのように野太い将兵たちの喚声が丹波の山々に響き渡ると、数瞬後に木霊となって返ってくる。
(ふっ、戦の前に身震いするとは、初陣以来だな)
直正は将兵たちの闘志の高さに満足気に頷きながら、身震いするのを隠せなかった。
「本隊を欠く浅井軍など、恐るるに足らず! 垣屋越前守、一色式部少輔なぞ凡将に過ぎぬ! 丹波の赤鬼たる我が負ける道理などない! 皆の者、かかれぇーぃ!!」
北但馬と丹後の2方向から攻め入ってきた垣屋家と一色家の1万弱の軍勢は、足止めにより進軍が遅れている浅井軍本隊との合流は叶わず、既に赤井軍が布陣する香良の地に到着していた。
北西から侵攻してきた北但馬の垣屋軍に対する赤井軍本隊を率いるのは赤井忠家だった。赤井家当主である忠家は内政面の才能は至って平凡だったが、こと戦においては赤井家でも叔父の直正に次ぐほどの猛将であった。
さらに、赤井家を武の面で支えるのが筆頭家老の余田為家である。黒井城の北に位置する余田城を守る余田家は槍術や弓術に優れた一族であり、抜きん出た剛勇さでその名を知られていた。赤井忠家と余田為家が率いる赤井軍本隊の将兵の士気は高く、兵数では倍の垣屋軍に対しても互角の戦いを見せていた。
余田為家の存在により若い忠家の安否を気にすることなく、赤井直正は残る部隊を率いて、北東から侵入する丹後の一色軍との戦いに臨むことができた。
一色家当主の一色藤長は稲富家による半ば傀儡だと丹波では知られている。しかし、実際には藤長は内政においては非凡な才能を発揮し、稲富直秀が藤長を補佐する体制が整っているのだが、直正がそんな内情など知る由もない。
「一色なぞ、我が朱槍により粉砕してくれよう!」
騎乗した赤井直正は自ら先陣に立ち、槍を振るった。そして、大将の奮戦に負けじと赤井軍の精鋭たちも続く。直正はさながら修羅の如く傷一つ負うこともなく、槍を一閃する度に1人、2人と切り捨てていく。
まるで討ち倒した敵兵の血飛沫を己が糧とするかのように、返り血を浴びた直正が槍を振るう様はもはや人のそれではなく、正しく"丹波の赤鬼"の異名に相応しく、鬼神が憑依したかのようであった。
赤井直正は圧倒的な力を“持ち過ぎていた”。直正を止められる者など、この丹波では、否、日ノ本でもお目に掛かれないほどの傑物だった。直正の朱槍の餌食となった将兵は少なくとも幾百にも上ったと、敵が認めるほどの豪胆無双ぶりであった。
戦が始まって一刻ほどが経過し、太陽が中天に昇った頃には、数に勝るはずの一色軍は明らかに劣勢となっていた。
しかし、そんな直正の元へ急報が届く。
「南から浅井の本隊が現れました! その数、約7千!」
本隊を分けて南に迂回した浅井長政の率いる浅井軍本隊が、赤井軍との決戦の最中に何とか間に合い、援軍として駆けつけたのである。
「くっ、7千だと!」
長政は本隊を2つに分けると、垣屋軍と互角に戦う赤井忠家が率いる赤井軍本隊と、一色軍相手に優勢だった赤井直正の部隊の背後から襲い掛かった。これにより前後から挟撃される形となった赤井軍は動揺し、たちまち劣勢に追い込まれる。
「貴様が"丹波の赤鬼"か! 我こそは浅井家臣、磯野丹波守と申す。いざ尋常に勝負!」
そこへ黒槍を手に赤井直正の前に立ちはだかったのは磯野員昌であった。員昌は史実の「姉川の戦い」で「姉川十一段崩し」と呼ばれる織田本陣に迫る猛攻の逸話を残した浅井家随一の猛将である。
「ほぅ、噂に聞く磯野丹波守か。相手にとって不足なし。受けて立とう!」
46歳の磯野員昌と赤井直正との一騎打ちならば、本来は6歳若い直正に軍配が上がるべきところである。しかし、既に一刻ほども戦い続け、幾百もの敵兵を討ち倒した後であり、直正と言えどもさすがに体力の底を突きかけようとしていた。
「むぅ、口惜しいが、勝負はまたの機会としようぞ。御免」
磯野員昌と何合か槍を交わして己の不利を悟った直正は、手綱を握ると馬首を巡らせた。直正にとって武士の誇りのために討死するのは犬死であり、泥を啜ってでも生き残り、捲土重来を期すのが真の武士だというのが直正の信条であった。
「逃げるのか、卑怯者め!」
「ふん、何とでもほざくがいいわ」
直正は員昌の罵声を無視し、手薄な一色軍との乱戦を突破して黒井城に逃げ込もうと馬を駆けさせる。
しかし、直正が先陣に立って戦ったことは、一色軍にとっても悪いことばかりではなかった。この丹波侵攻が初陣となる17歳の稲富直家(後の稲富祐直)が、父・直秀と共に一色軍に従軍していたのである。
直家は亡き祖父・直時から鉄砲術の薫陶を受け、直時が亡くなる前にもはや教えることはないと言わしめたほどの砲術の才能の持ち主であり、史実では稲富流砲術の開祖として鉄砲方として徳川家に仕えている。
稲富流砲術は後に「天下無双の寺倉流砲術に、日ノ本一の秘術芸術は稲富の砲術なり」と、寺倉流砲術と並んで評された。寺倉流砲術が圧倒的な威力と飛距離に優れるのに対して、稲富流砲術は針に刺した蚤を撃ち抜いたり、夜中に鳥の囀りを頼りに撃ち落とすなど、正確無比な緻密さに優れていた。
故に、赤井直正は一色軍の陣内に深入りし過ぎたのだ。そのために直正は稲富直家の鉄砲の射程に入ってしまう。
――ダダーン!
精密さにおいて直時の鉄砲に敵う者はいない。直家は大勢の兵たちの僅かな間隙を縫って、直正の心臓を見事に撃ち抜いた。
「ガッ、グハッ……!」
直家の放った銃弾に心臓を貫かれ、直正が力なく馬から崩れ落ちると、周りの赤井軍の将兵から悲鳴が上がる。
「「「悪右衛門様ぁぁーー!!」」」
「「「"丹波の赤鬼"を討ち取ったぞぉぉーー!!!」」」
その数瞬後、今度は一色軍の将兵から歓喜の咆哮が響き渡った。赤井軍の精神的支柱である赤井直正の討死が知れ渡ると、間もなく赤井軍は総崩れとなる。
余田為家が討死し、黒井城に退却しようとした赤井忠家も追撃によって討たれたと知ると、黒井城を守る赤井直正の弟・赤井幸家は抵抗せずに開城した。
こうして赤井家はついに降伏し、丹波国と但馬国はようやく浅井家により平定されたのだった。
◇◇◇
丹波国・黒井城
その日の夕方、入城した黒井城の大広間に座る浅井長政の前に、一人の男が蹲っていた。
「……村雨雲四郎晴久にござる」
その男は、囮役として鐘ヶ坂峠越えの山道に残った内藤貞勝が捕らえた村雲党の棟梁であった。
「鐘ヶ坂峠で我らを足止めした技は敵ながら天晴れだ。どうだ、浅井家に仕えぬか? 武士待遇で召し抱えるぞ?」
「……我らは波多野家に仕えた身にござる。折角のお言葉なれど、波多野家を滅ぼした浅井家に仕える訳には参りませぬ」
村雨雲四郎に仕官の誘いを断られ、長政は残念そうな顔を浮かべるが、やがてある考えを思いつく。
「そうか。残念だが、已むを得ぬか。だが、お主たちほどの力を捨て置くのは誠に惜しい。浅井家に仕えるのが無理ならば、"六雄"の盟友である蒲生家に仕える気はないか?」
「……そこまで我らを買っていただけるのならば、仰せに従いまする」
蒲生家は領内の甲賀衆が寺倉家などに逃散してしまったためにお抱えの素破集団がいなかった。長政の粋な計らいにより、蒲生家は待望の素破集団を獲得することとなる。そして蒲生家と浅井家は互いに信頼関係を強め結束し、中国地方の平定に足を踏み入れるのであった。




