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六芒星が頂に~星天に掲げよ! 二つ剣ノ銀杏紋~  作者: 嶋森航
躍進と動乱の幕開け

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凶報と新戦力

松の内の正月気分が抜けてすぐ、横殴りの風雪が荒地の草々を仰け反らせるように激しく揺らす、そんな殺伐とした光景が眼下に広がる飯盛山城に激震が走った。



ーー巨星、三好修理大夫長慶、墜つ。



三好家の当主は精神を病んだまま快復することはなく、うわ言のように呟いた言葉が遺言となった。


「弾正よ。これからはお主が三好家を支えてくれ。義興のことを頼んだぞ」


と最期には三好家一の重臣・松永久秀に言葉をかけ、小さく掌を広げて虚空を掴むような仕草をした後、力尽きたように亡くなったという。


天下人・三好長慶の死は、史実と同じように畿内に大きな影響を及ぼすだけでなく、戦国乱世の日ノ本全体の勢力図をも大きく塗り替えることになるだろう。


宿敵の長慶の死を知った将軍・足利義輝は当然のごとく狂喜乱舞し、畠山高政はこれを好機と見るや、雪解け後に全軍を以って攻め込もうと三好領を虎視眈々と狙っているようで、春の田植え以降の畿内は大きな戦乱の嵐が吹き荒れそうである。


三好家は長慶の遺言どおり嫡男の義興が後を継ぎ、長慶の弟の安宅冬康ら一門衆や松永久秀ら譜代家臣が、まだ23歳と若い義興を支える体制になるようだが、三好家中は史実では長慶による統制がなくなって好き勝手し始める三好三人衆や独立心旺盛な摂津の国人衆との派閥の対立が深まっていくことになるので、畿内の情勢は複雑怪奇な様相を呈することとなりそうだ。


一方、長慶の訃報を聞いた俺の最初の感想は「やはりついに起きてしまったか」というものだった。そして、これまで三好家という巨大な存在によって畿内進出の芽を封じられていた寺倉や蒲生にとっても、三好長慶の死によって近い将来に畿内に進出する扉が開かれようとしており、これからはまさに激変の時代を迎えそうな予感がしている。


三好長慶は結局は管領・細川晴元との恩讐に祟られ続けた人生だったが、細川家の家臣に過ぎなかった三好家を一代で将軍家を圧倒し、「日本の副王」とも呼ばれるまでに大きくさせた人物だ。三好長慶がどれほどの傑物だったのだろうかと考えると、死ぬ前に、いや、精神を病む前に一度会って話をしてみたかったなと残念に思う。


寺倉と三好は敵対関係という訳でもなかったが、お互い京から程近い位置に本拠を置きながら、長慶の姿すら一度として見ることができなかったことへの後悔の念が、暫くの間俺の心の中で燻り続けていたのだった。



◇◇◇



1月下旬、統驎城の城下に新たな寺が建立された。東福寺から瑶甫恵瓊をスカウトした際に、住職の竺雲恵心と約束したとおり、寺倉家の菩提寺となる寺であり、恵瓊が初代住職、すなわち開山となる寺だ。


寺の開山を経済的に支援したスポンサーを開基と呼ぶそうで、開基である俺が寺の命名をしていいらしく、俺は山号を「顚海山(てんかいざん)」、寺名は「薮麟寺(そうりんじ)」と命名した。


山号の「顚海山」の由来は「淡海乃海の畔に高く聳え立つ山」という意味であり、薮麟寺の由来としては、「草木が乱れて咲いている乱世において、寺倉領に舞い降りた麒麟が守護する寺」という意味だ。麒麟は統驎城の名にも使っているが、泰平の世に現れると伝わる伝説の神獣なので、「寺倉家が天下泰平を成し遂げた後、麒麟が凱旋できるように」という願いを込めて名付けた。


こうして薮麟寺の開山となった瑶甫恵瓊は、史実の安国寺恵瓊ではなく、薮麟寺恵瓊と呼ばれるようになる。


開山に当たっては東福寺から竺雲恵心を招いて、寺の表札である扁額に「顚海山 薮麟寺」と揮毫してもらうと、薮麟寺に寺倉家の墓を改葬して菩提寺とするために、先祖代々の法要を営んでもらった。きっと極楽浄土の父上も喜んでくれることだろう。それと同時に、俺は先日亡くなった三好長慶の冥福も祈ったのだった。




◇◇◇




2月初旬、沼上郷代官に就いたばかりの大蔵信安から報せが届いた。伊賀国に沼上の民の半数が移住し、沼上郷のキャパシティに余裕ができたのも束の間、100人余りの移住者が集団で沼上郷にやって来たそうだ。


それは蒲生が制圧したばかりの甲賀郡からの移住者で、「三雲城の戦い」には病気や怪我などで参加できなかったり、落城間際に逃げ出した素破が40人ほどとその家族たちの集団であった。


沼上郷は差別や迫害を逃れてきた下層民を分け隔てなく受け入れる町ではあるが、代官の大蔵信安も彼らが甲賀衆だと知って、さすがに判断に困って俺に相談してきたという次第だった。


俺も蒲生と同じく六角家の滅亡に深く関与した人間であり、甲賀衆にとっては元主家の仇である。俺の命を狙う可能性も十分に考えられるので、甲賀衆に顔が利く藤林長門守を沼上郷に送って、彼らの事情や真意を確認させることにした。


翌日、帰って来た長門守から報告を聞くと、蒲生が制圧した甲賀郡では、新たに領主となった蒲生家家臣が素破を見下し、蒲生家の定めた税率よりも重い税や賦役を課すようになったそうだ。どうやら甲賀衆の抵抗に煮え湯を飲まされた蒲生家が、甲賀衆を徹底的に弾圧しようと考えたようだ。


ただでさえ、裏切者の蒲生に対して心中で敵愾心を燻らせていた彼らは、もはや蒲生の統治には我慢の限度を超え、父祖代々の土地である甲賀を捨てるしかないと決意して、下層民を受け入れてくれる沼上郷に集団で逃散してきたのだという。


懸念していた寺倉家に対する感情については、六角六宿老でありながら「野良田の戦い」の最中に寝返った裏切者の蒲生とは違い、寺倉は戦前からの敵対者であったことから、正々堂々と戦った寺倉に対しては恨みや敵意といった感情は抱いていないという、予想外の返事が返ってきた。


六角承禎を討ち取ったことについても、勝敗は兵家の常であるために隔意はないと真剣な表情で強調していたそうだ。本当は正々堂々なんかではなく、六角承禎を待ち伏せして鉄砲で銃撃したのだが、わざわざ真実を伝える必要はないだろう。


彼らのこの言い分については正直判断に迷ったが、光秀や順蔵に訊ねると「さもありなん」との返事が返ってきた。やはり甲賀衆は武士と同じような思考パターンをする素破のようだ。俺は二人の様子からどうやら信じても良さそうだと感じ、逃れてきた甲賀衆を全員受け入れることにした。


ただ、甲賀衆は独自の秘薬の製法も知っているため、有用な甲賀の素破を40人も沼上郷で眠らせておくのはさすがに勿体ない。


そこで、伊賀衆と同じ条件で直臣として召し抱えると伝えると、全員が喜んで承諾し、寺倉家に忠誠を誓ってくれた。中にはあまりの高待遇に涙を流す者もおり、甲賀衆はビジネスライクな伊賀衆とは違って忠義に篤いという、甲賀衆の性格を間近に感じられた。


今後も「三雲城の戦い」の生き残りや逃散しなかった甲賀衆が彼らの仕官を知って、保護と仕官を求めて寺倉領に集まって来るだろう。志能便衆、伊賀衆と並んで甲賀衆にも、寺倉家の諜報部隊として大いに活躍してもらいたいところだ。




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