後編
星の海、あの中に入れたらどんな気分なのだろう。キミとあの宙で泳げたらどんなに気持ちいいだろう。
そんな叶うはずもないことを願いながら僕は星を見上げていた。
夏那は自分のベッドでスヤスヤと眠っていた。
さて、僕も寝るかな。
そう思って僕は布団の中に潜った。夏那の横顔は可愛くて、愛おしくて、なぜか切なくて。
その日から僕達は恋人同士になった。友達にそれを言ったらすごく驚かれた。「夏那ちゃんがお前みたいな奴と!?」と。失礼な奴らばっかりだ。
もちろん夏那の人気は落ちることなく、未だにファンがいるらしい。夏那はそのことをあまり気にしていないようだ。
「私はもう××くんのモノだから気にしないよ」
嬉しいが少し恥ずかしい。夏那は本当に僕のことを好きでいてくれた。
ある日、僕は夏那にあるところに連れていかれた。そこは少し遠い所で、ある花が満開に咲き誇っていた。
────向日葵である。
一本の土の道とその横にある沢山の向日葵。絶景だった。夏にしか見れない最高の風景。
「私、ひまわりが好きなんだ〜」
先の長い麦わら帽子を被った夏那が言った。握った手のひらにはじんわりと汗が滲んだ。
僕達を照りつける太陽、耳障りだが夏の風物詩である蝉の声、どんなに暑くても最高の笑顔を持つ向日葵、何処からか聞こえる微かな風鈴の音。
これまでにこんなに最高な夏を過ごしたことがあるだろうか、いや、あるはずが無い。
微かにそよぐ風が濡れた頬をかすめる。その風が心地よい。でも少し、ほんの少しだけ僕の心が締め付けられた。僕らのこの恋が向日葵のように夏で終わってしまうのではないか。そう思うと胸が苦しくなる。
「どうしたの? 何か悲しそうだよ?」
夏那は心配そうに顔を覗く。彼女の顔を見ると少しだけ落ち着く。
ううん、なんでもないよ。ちょっと考え事してた。
夏那はそれを聞くと喜んで前に走った。
「そっかー! 良かったー! 私、キミのことになるとホントに気になっちゃってさ。何か困ったことがあったら言ってね、何でも相談に乗るよ!」
純白のワンピースを揺らして走る。このまま、ずっと写真に収められたら。この時間が過ぎなければ。僕はどれだけ幸せであれたかな。麦わら帽子の影から覗く君の笑顔がとても可愛かった。
「ねぇー、写真撮ろ? 思い出になるよー」
少し背の低い夏那は僕の肩の横でニッコリと笑う。その笑顔を見て僕も笑顔になる。その時に撮った写真は僕の思い出の写真だ。
そして、時は過ぎて。夏の暑さも和らいできた9月の前半。
それは急に訪れた。僕はいつものように昼休みには屋上にいって昼ごはんを食べようとした。夏那が屋上が好きだからと言う理由で。
でもその日は違った。夏那は思い詰めたかのような顔をして僕の前に立った。そして下唇をかんだ後にこう言った。
「ごめん、別れよ?」
急な別れの言葉だった。その言葉は僕にはよくわからなかった。
え? どういうこと?
引き止めたいからとかそういう理由じゃない。ただ純粋にその言葉の意味が理解出来なかった。
か、夏那? ねえ、なんでそんな、急に……。
動揺を抑えられるはずなかった。今までこんなに仲良くしていたのに、急にわかれようだなんて。理解できるはずがない。
「……ごめんなさい」
でも、彼女の、夏那の顔を見て気が付いた。何か別に好きな人が出来たとか、僕のことが嫌いになったとか。そんなことではなかった。何故なら……。
夏那の目には大量の涙が溜まっていたから。泣くことを我慢していたから。別れを切り出す人の顔ではなく、別れを切り出された方の顔だったからだ。溜まりに溜まった涙はこぼれ始め、夏那の綺麗な頬を伝う。僕は無意識に彼女を抱きしめた。
何が……あったの?
夏那はついに我慢が出来なくなって、泣き出してしまった。
「ごめん、な、さいぃ……」
途切れた言葉は、嗚咽が混じり、徐々に掠れていく。涙は地面へと落ちて、やがて息継ぎも苦しそうになっている。
「わ、私……う、キミ……と、っ」
掠れた声は聞き取りにくく、でも何が言いたいのかは自然と理解できた。
落ち着いて、息を整えて。僕は絶対に離れないから。
そう言うと彼女は少しづつ息を整えていく。喉に詰まらせたような泣き声は徐々に収まっていった。
「ごめん、ありがと」
落ち着いてはいたが目に溜まった涙はなくならない。まだ掠れた声で言った。
「……引越し。することに……なったの」
急なことだった。今まで付き合ってきた中でそのような素振りはなかった。普通ならもっと早くに知らせるはずだが、どうして? 気になることは沢山あったが僕は黙って彼女の話に耳を傾けた。
「ここから、もっと遠い場所に行くの」
でも、なんで……?
僕は思わず声にしてしまう。夏那は黙り込む。静かに時は過ぎていく。夏那にとって言いたくないことだったのか。そう思っていると夏那は話し始めた。
「君が知らないような遠い遠い場所なの……」
場所って……。どこのことだよ。
何か隠しているように思えた僕は強く言った。
「……言えない」
夏那は下を向きながら言った。肩が震えてる。何かに怯えてるようにも見えた。
夏那、なんで教えてくれないんだよ。何かあったんだろ?もう少し僕を頼ってくれたっていいじゃないか。
「……」
夏那は無言のまま、僕にある一枚の紙を渡してきた。そこに書いてあったのは驚くべきことだった。
な、なんで……。
その紙は病院から貰った紙だろう。その紙にはある病名が書いてあった。それは……。
「脳腫瘍……。治る確率は低いって。でも都会の病院なら治るかもしれないって言われたの」
絶望というのはこのことを言うのだろう。僕はこの時初めて神様というものを恨んだ。
「治ったとしても障害は残るって。だから君には迷惑かけたくないから」
……いつ、引っ越すんだ?
「今週末、学校は今日で最後。君と会えるのも今日で……さ、さいごになっちゃうよぉ……」
最後の方は掠れて聞こえにくかった。涙をとめどなく流し、嗚咽を繰り返しながら僕に抱きついてきた。
「せっかく、せっかく君のこと知れたのに……。やっと、好きだって言えたのに。なんで、どうして……。いや、嫌だ。まだ離れたくないよぉ……。まだキミと一緒にいたい、たくさん遊びたいよぉ……」
我慢していたが僕も我慢の限界だった。こぼれ落ちた雫は地面へと落ちて、弾けた。
夏那も本当は離れたくなかった。別れたくなかった。でもそうしないと僕を悲しませることになるから。
声にならない声が出る。涙は止められない。彼女が言った遠い遠い場所とは恐らく引越す場所じゃない。夏那自身、助からないと思い込んでる。
夏那は助かる。絶対に助かる。だからそんな悲しいこと言うな。
そう言って僕は強く強く彼女を抱きしめた。
そして、週末。僕は急いで夏那の家へ向かう。家の前には既に引越し会社のトラックが止まっていた。
夏那、夏那!
名前を呼ぶが返事はない。すると一人の男の人が出てきた。
「誰だお前。夏那に用事か?」
僕は××です。夏那の恋人です!
堂々と言った。彼女の父にそんなこと言うなんておかしい。普通なら怒鳴られるだろう。でも違った。
「君が××君か、夏那の……。なら引越すことは知ってたんだろう? なぜ来た」
僕は彼女に伝えてないことがあってここに来ました。
威厳と気迫のある夏那の父親。正直、逃げ出したい程だった。手も震えるし、膝もかるく笑ってる。でも、それでも伝えたいことがあった。
「……わかった。まだ時間はある。好きな所に連れて行ってやってくれ。ただ夕方の6時までには無事に連れて帰ると約束するならな」
僕は強くうなづいた。すると安心したかのような顔をして夏那の名前を呼んだ。
僕の目の前に現れた夏那は車椅子に乗っていた。この前よりも弱っていた。もう、時間が来ているのがわかるくらいに。
「××君といったな。夏那は明日手術なんだ。最期になるかもしれない。最高の思い出を作ってやってくれ。お願いだ」
はい。
余計なことは言わずに僕は夏那を乗せた車椅子を押した。
「××君、わざわざ来てくれたのね。ありがとう」
弱々しく呟いた夏那を見ると涙が出そうになった。泣いてはいけないと自分に言い聞かせる。
当たり前だよ。少し遠いけど大丈夫?
夏那の体調ではあの場所に行けるかどうかわからないけど、それでも夏那に見せたい。
「大丈夫、だよ」
彼女はこちらを向いて微笑んだ。つきりと胸が痛む。
そして、目的の場所に着く。夏那は驚いて口を押さえていた。
「う……そ……」
……あの向日葵畑だった。まだ、向日葵は残っていたのだ。まるで奇跡を示すかのように咲き誇る向日葵。
夏那にこれを見せたかった。奇跡はあるんだって。それを見せたかったんだ。
夏那はポロポロと泣き始める。それを僕は止めなかった。
僕は夏那の前に移動してしゃがむ。
大好きだよ、夏那。僕はいつでも応援してるから。
笑顔で言おうとした。でも涙が自然とこぼれ落ちた。
あれ、あれ。涙が、止まんないや……。
笑おうとする。夏那に笑顔を見せたい。だけど止めることは出来なかった。
すると夏那は車椅子から降りて、膝を地面につけた。
「私も大大大好きだよ、××!」
僕は彼女と手を繋ぐ。指と指を絡ませて。二人向き合って、目と目を見つめて。涙で濡れた頬を見て。二度と会えなくなるかもしれない彼女への贈り物。夏那の好きな向日葵に囲まれて、甘くて少ししょっぱい、キスをした。今までで一番長いキスをした。
「手術、頑張るから。もし私が記憶喪失になっても、絶対にキミのことは忘れないから。だから待ってて、この向日葵の咲く道で」
僕は彼女の頬に触れていった。
うん。いつまでも、いつまでも待つよ。
僕達はこの向日葵の中で再開を誓った。
────それから一年が過ぎて。
僕は夏那のお父さんに呼ばれた。夏那は手術が終わり、リハビリも済んだらしい。
そして、あの約束の場所へと向かった。
今年の向日葵は去年の夏よりも綺麗なものだった。胸が高鳴り、僕は地面を踏みしめながら夏那を探した。
探していると向日葵の間に小さな小道があるのが見えた。
僕はそこをゆっくりと歩いていく。その先には向日葵が咲いていないが、ほかの花が満開に咲き誇る場所だった。
そこに夏那はいた。
夏那……?
すると彼女は振り返ってこう言った。
「……誰ですか?」
グシャリ、と胸が潰れたような感覚に襲われる。
覚悟はしていた。脳腫瘍が無事に治るなんてある筈ないと。何か命の代償に失うはずだと。
それでも僕は淡い幻想を抱いていたんだ。僕のことを忘れるはずがないって。約束通りまた会えるって。
でもそんなに現実は甘くなかった。
夏那は忘れてしまったのだ。僕との思い出を。
どうしようもないほどの絶望と悲しみが僕の胸を蝕んでいく。
そっか……。そうだよね……。
小さく呟く。僕はそれで諦めようとしていた。だって夏那は助かったじゃないか。それは素晴らしいことだし、喜ばしいことだ。死ぬかもしれなかったのに、二度と会えなくなるかもしれなかったのに、それでも会えたのだ。それ以上望むのは強欲だというのだろう。
でも、言い聞かせようとしても、大きくなっていく気持ちは抑えられなくて。悲しくて哀しくて、大切なものを失ったようで。僕は絶対に見せないと誓った涙を夏那の前で流してしまった。とめどなく流れゆく涙を止めることなど出来るはずがない。夏の暑い地面へと落ちて蒸発するだけの淡くて儚い気持ち。それなのに僕は、僕自身ではもう抑えきれなくなった。
声に出して泣いた。夏那は優しい声を掛けてくれた。
「大丈夫ですか? 悲しいことでもあったんですか?」
夏那は誰にでも優しくて暖かい。でも今の僕にとってはそれは冷たくて刃のように鋭く僕の胸に刺さった。
それは僕を忘れたという揺るぎない証明。変えようのない事実。
忘れた、という過去は変えることは決して出来ない。でも、僕には出来ることがある。彼女のために、僕のために。僕は泣きながら夏那に言った。
うん、悲しくて一番辛いことがあった。でもそれは変えることが出来なくて、しかもキミはいつも優しくて。でも僕にはそれが痛くて痛くて仕方ないんだ。
夏那は不思議そうに答えた。
「もしかして、キミは私の知り合いだったの?」
胸を抉られたかのような感覚。でも僕はもう諦めない。キミと、夏那とずっと一緒にいたいから。
そうだよ、僕はキミの恋人だったんだよ。
夏那は凄く申し訳ないような顔をする。彼女は悪くない。だから、あの言葉をもう一度言うんだ。あの時は満天の星空の下だったけど、今回は満開の花に囲まれて。
僕は夏那のことが大好きです。だから付き合ってください。
今までの思い出は無くなったっていい。今までのキミの気持ちはなくなってしまったけれど。
でも僕は思うんだ。それよりも、この悲しみや辛さよりもさらに大きな思い出をこれから作ってそんな感情を塗りつぶせばいいんだから。またキミが僕のことを好きって言ってくれるようにキミと一緒に居ればいいんだから。
涙をふいて、ひまわりのようなキミの笑顔をまた見れるように願って、また一から積み立てていこう。君との夏の思ひ出を。そしてあの時のキミの匂ひを忘れぬように。またいつかそのことも思ひ出になって、そしてそれを笑って君と話す未来を望んで。
僕達の消えた夏の思い出に、新しい僕達の未来の夏の思い出を。
そして大好きな夏那にまた、この気持ちが伝えられる日を望んで。
よろしくね、夏那。
はい、××君。
~END~