前編
僕はあの夏を忘れない。蝉が五月蝿く鳴き、風鈴の音が心を静めるあの夏を。
──キミがいたあの夏を。
あの、ひまわりによく似た笑顔のキミを。
僕は忘れない。
ある初夏のことだった。まだ梅雨も終わりきってないのか雨が酷く降っていた。その時学生であった僕は傘を忘れてしまい、濡れながら帰るしか無かった。
また随分と降られたな。
そう思いながら僕はあるバス停の屋根で雨宿りをしていた。
僕は雨が好きだった。雨が落ちる音や紫陽花を濡らす雫。見ていて心が安らぐ。重く垂れ込んだ曇天の空を見て僕は何かを考えていた。
その何かを思い出すことは出来ない。恐らく使用もないことだったのだろう。暇だったのだから仕方ない。
そんな何かを考えているとパチャパチャと雨に濡れた地面を走る音が聞こえた。僕はそれを聞いてその音の鳴る方向を見る。
すると僕と同じように傘を忘れたのだろう女の子がこっちに向かって走っていた。
「うわぁぁ、濡れちゃったぁ」
僕の隣に来て服を絞っている。透けた服を気にせずに水をきるのに必死になっていた。
流石に目のやり場に困った僕は目を逸らして、また雨の音を聞く。するとその女の子が声を掛けてきた。
「あはは……降られちゃいましたね」
雨に濡れた綺麗な髪に綺麗な瞳。弾けるような笑顔。僕と同じ学校の校章は雨粒によってキラキラと光っている。
そうだね、いきなり降られちゃったね。
僕はそう返した。その時は彼女の方を向いたがすぐさま視線を逸らす。
「? どうかしたんですか?」
自分の服が透けていることに気が付いていないのか、僕が視線を逸らしたことを気にする。余りにも気付いていないので彼女の服に指を指す。
それに気づいた彼女は わっ! と声を上げて胸を隠す。彼女は濡れた身体を拭くものを持っておらず、慌ててハンカチで濡れた所を拭く。流石にハンカチだけでは全部は拭ききれない。僕は運良く二つのタオルをもっていたので使っていない新品のタオルを彼女に渡した。
寒いでしょ? これで少しでも水滴を取った方がいいよ。
そう言うと彼女は喜んで、
「いいんですか?ありがとうございます!」
余り人が来ないバス停だった為、そこにいたのは僕とその女の子だけだった。
「私と同じ学校……ですよね?」
そう聞かれた僕は
多分、〇〇高でしょ?
そう言うと彼女は頷いて、
「はい! 私は夏那って言います。あなたは?」
夏那と名乗るその女の子は髪を拭きながら僕に尋ねた。
僕は✕✕だよ。よろしくね。
夏那はニッコリと笑い
「はい、よろしくお願いしますね」
その可愛らしい笑顔をこれから先も忘れる事は無いだろう。僕の心に染み込んだ彼女の笑顔は未だ色褪せない。
そして僕等は他愛もない会話をし続けていた。いつの間にか雨も止んで、太陽が雲の隙間から顔を出していた。濡れた紫陽花はその光によってキラリと光っていた。
「雨、止んじゃいましたね」
少しだけ寂しそうに夏那は呟いた。
何故、夏那がそのような表情をしたのかこの時の僕には理解出来なかった。でも今なら解る。
夏那と僕の家は正反対だった為、夏那は僕に別れを告げて濡れた地面を歩いていった。
僕は夏那が見えなくなるまで見送って、その後水溜りが反射する光を浴びながら家に帰った。
これが彼女との初めての出会いだった。そしてこれから始まる長くて短い夏の物語の幕開けとなった。
それから数日たった日のことである。ちょうど昼頃にクラスの男子が話しかけてきたのだ。
「なあ✕✕。隣のクラスの夏那ちゃんが呼んでるぜ」
彼は異様にニヤニヤしながら話しかけてきたので不気味に想い
なんだよ、何かあったのか?
すると彼は笑って
「男子の中で一番人気のある夏那ちゃんがお前如きに用事なんてさ、笑えちゃって」
コイツ失礼な、と思いながら席を立って廊下に出る。そこにはニコリと笑っている夏那がいた。
「こんにちは、✕✕君。今日の放課後空いてる?」
急なお誘いだった為少し驚いた。しかも周りの男子からは嫉妬の目で見られる。その目を気にしつつ、
大丈夫だよ。
と言って少し引きつった笑顔を返す。僕は余り女子には興味が無かったためそんな事はまったく気にしていなかったが、こんなにも夏那は人気だったとは。いっておくが男子に興味がある訳じゃない。
彼女は万遍の笑みを浮かべて
「やったー! ありがとう! じゃあ放課後、またね」
すると夏那は手を振りながら自分の教室へと戻っていった。廊下にまだいた僕は男子からの痛い視線を浴びながら教室へと戻った。
勿論、午後の授業は爆睡してあっという間に放課後になった。
何処にいるんだろう? 一応、夏那の教室に行くか。
と、思いながら廊下に出て隣の教室を覗く。だがそこには夏那は居なかった。すると後ろから声がした。
「あの、✕✕君ですか?」
知らない女の子が声を掛けてきた。
そうだけど。
すると女の子は夏那からです。と言って
「屋上で待っています、と言っていました」
それを聞いて僕は
ありがとう
と言って階段へと向かった。
屋上の扉を開くとそこから光が溢れ出た。目が眩み一瞬何も見えなくなる。徐々に見えるようになるとそこには外を見ている夏那がいた。少し悲しげな顔をした夏那はずっと外を見ている。
おーい、夏那。
声を掛けると僕に気付いて笑顔に戻る。
「来てくれたんだ、ありがとね」
さっきの暗い顔を見た僕は胸が締め付けられるような気持ちになった。何でかはこの時の僕にはわからなかった。
「えっとね、はい、これ」
夏那が僕に渡したのはクッキーだった。
「この前のタオルのお礼なんだけど、これで良かったかな」
僕はすぐに頷き
わざわざありがとうね。
すると
「えっとねそれ、手作りだから今度感想が欲しいな」
少し、いやかなり僕は動揺した。
え? え?!
女の子に手作りクッキーなんて貰ったことは1度もない。勝手に僕の心臓は高鳴る。
「おかしかったかな…?」
悲しそうな顔をする夏那。
全然だよ、でも僕は女の子とかにそういうの貰ったこと無いからさ。ごめんね。凄く嬉しいよ。
夏那は安心した様子で
「そうだったんだ、よかった〜喜んでもらえて」
まただ。彼女が笑顔になる度に僕の胸はドキッと跳ねる。
風がさぁっと吹く。わっ、と言って髪を抑える夏那。夏那の匂いがふわりとこちらに来る。君の匂いは甘くて優しいものだった。今でも忘れない。
そのクッキーの感想だって? それはもう今までで一番美味しいクッキーだったよ。それを彼女に言ったら顔を真っ赤にして照れながら喜んでくれたよ。
それからは夏那とよく喋るようになった。相変わらず男子からの視線は痛いものがあったが。
その日から更に日が経った。夏休みに入り、学校も無くのんびりしていたある日のことだ。蝉がうるさく鳴き叫ぶ。日差しが照りつける昼頃だった。僕の携帯が鳴る。
はい、✕✕ですけど。
すると携帯からは聞き慣れた声が聞こえた。
「もしもし、✕✕君なの? 今日暇?」
その日は何もすることが無く暇していた。
うん、暇だけど。
するとよし! と小さく喜ぶ声が聞こえた。
「今日一緒に遊びに行かない?」
別に断る理由も無かった。
いいよー。でもどこに行くの?
すると携帯からびっくりすることが聞こえた。
「えっとねー、私の家」
あの時の驚きは今でも忘れない。
……は? え?
「だーかーらー私の家だってば!」
彼女が何を言っているのか分からなかった。
冗談……じゃないの?
「もち! 私の家はわかるでしょ? 早く来てね〜」
プツッと切れる。プーっプーっと電子音だけが僕の耳を刺激する。
まじか……。
そう思いながらも無視は出来ないので準備して外へ出る。暑いあの夏の街へと。
蝉が五月蝿く鳴いている。隣の家の風鈴の音が耳を木霊する。雲一つない晴天の空だった。正直、夏那に誘われたのは嬉しかった。僕も夏那と会いたかったのだ。僕等はただの知り合いだった筈なのに今ではどういう関係なのかわからない。
夏那の家は意外と近くて、自分の家から十分くらいの所だった。僕はインターホンをポチリと押してみる。ピンポーンと音が鳴ると
「はーい」
という声が聞こえて、階段を降りる音が聞こえた。
ガチャっとドアが開くとそこには白いワンピースを着た夏那がいた。
「✕✕君! さ、入って入って!」
入って玄関で靴を脱ぐ。玄関には僕の靴と夏那の靴しか無かった。
今日は夏那だけなの?
そう聞くとニコリと笑い
「そうだよ〜、親は二人とも仕事中。明日まで帰ってこないんだよね」
僕は動揺した。年頃の男女2人だけが家にいるなんて。顔が赤くなっているのは自分でもわかった。
それを見た夏那はクスリと笑い
「大丈夫だよ、変な意味でもないしさ〜」
普通なら女の子の方が顔を赤くする場面だろう。僕はどれだけ女の子に免疫が無いのだろうか。
二階にある夏那の部屋へと向かう。彼女の後を追って階段を上る。白いワンピースは彼女が動く度に揺れる。とても似合っていた。
彼女の部屋に入るといい匂いが僕の周りを囲った。それだけで僕の胸はバクバクと鼓動を高めた。
「さあ、入って〜」
夏那は僕の心の中など知らないかのように背中を押す。僕は緊張しながらもクッションの上に座っていた。
「何か飲み物でも持ってくるね」
夏那が出ていくとシーンとした空間に取り残されたような気分になった。あまり暑くないと思ったらエアコンがついていた。部屋を涼しくしているエアコンの音だけが僕に聞こえた。部屋を見渡すとやはり女の子らしいものばかりだった。見てはいけないのは解るが好奇心は抑えられない。周りをキョロキョロと見るが、化粧品はあまり無く肌の手入れ用のものしかなかった。
まさか化粧してないのにあの可愛さなのかよ……。
彼女は多分化粧をせずとも綺麗な女の子なのだろう。確かに思えば彼女は何一つ飾ったところが無く、まさに自然の可愛さ美しさを醸し出していた。
そりゃ男子からの人気も高い訳だ。
そう思いつつ待っていると夏那がジュースを持ってきてくれた。氷が入ってキンキンに冷えたカ〇ピスだった。
それをゴクッと飲んで
はぁ〜、生き返る〜。暑い時には冷たいものが美味しいよね。
それを聞いた夏那は笑って
「生き返る〜。って! おっさんみたいだよ?」
夏那の笑う姿を見ていると自分も楽しくなってくる。
僕等は色んなことを話し合った。友達のことや最近のこと。世間話もした。楽しい時間はあっという間に過ぎてしまう。気がつくともう夕方だった。
「えぇ〜、もうこんな時間なの?」
夏那は寂しそうに言う。本当に楽しい時の時間の流れは早いものだ。
結構長い間お邪魔しちゃったね。僕もそろそろ帰るね。
すると彼女はそれを引き留めるかのように僕の袖を引っ張る。ドキッと胸が跳ねる。
「ねぇ……、今日家に泊まっていかない?」
夏那は悲しそうな顔をしながら僕に言う。
べ、別にいいけど。でも大丈夫なの? 僕なんか泊めちゃって。
夏那は
「君だからいいの。今日はたくさん、お話しよう?」
結局僕は夏那の家に泊まることにした。僕達は順番に風呂に入り、その後また夏那の部屋で話をしていた。
夏那はいきなり真剣な顔になって僕に言う。
「ベランダで夜空を見ようよ」
僕はその提案に乗ってベランダへと出る。手すりに腕をのせて僕と夏那は並んで星を見ていた。満点の星空だった。その日の夜は少しだけ涼しく思えた。風がそよいでとても気持ちが良い。
夏那は僕の方を見て話す。
「……これから話すこと、嘘じゃないからちゃんと聞いてね」
僕は わかった。といって夏那の言葉に耳を傾けた。
「今日ね、本当は最初から泊まってもらおうって思ってたの」
僕は無言で聞く。
「あの……ね、実はね、私……」
夏那は少し俯いて話す。僕はそれを静かに聞いた。
「私……✕✕君のことが好き…です。最初に会った時から好きでした……」
僕は内心びっくりしたが表情には全く出さなかった。
僕の答えは決まっていた。
……僕も夏那と過ごしている内に君のことが好きになっちゃったんだ。だから僕に言わせて……?
夏那は静かに頷き、僕をじっと見る。
僕は夏那の事が好きです。付き合ってください。
彼女の答えは聞く必要も無い。
「……はい」
僕達は互いに初めてキスをした。満点の星空の下、僕達は恋人となった。
夏那の鼓動が聞こえる。とくん、とくんと。多分僕の鼓動も聞こえているだろう。互いに互いの鼓動を聞きながら僕達は静かなキスをした。
流れ星が瞬く。それを見て僕等は笑いあった。この瞬間がいつまでも続けば良いのに。そう思った。
……続く