RAN FOR YOUR LIFE
「忙しいときにごめんなさい。ヒデ君お久しぶり、タカコです」
秋口のある日、出張の名古屋で商談中の丸田秀春のケイタイが鳴る。
マツとディスプレイに表示される。最近はめったに連絡しないので、珍しいな、と会話ボタンを押すと聞こえてきた声は女性であった。
「タカコさん? 久しぶりです。どうしたんですか?」親友後藤松太郎の下の姉タカコの声に思わず声が華やぐ。しかし、聞こえてきたのは予想外の話であった。
「マッチャンがもう長くないの。末期ガンで危篤状態」
あまりのことに言葉を失う。
「今は意識はあるけど、誰にも会いたくない、誰にも教えなくて良いって……ヒデ君にも? って私が訊いたら先にいくって伝えてくれって」
「ありがとう、……でも、信じられない。どうしよう、タカコさん」
「私も何をしたらいいのか分からなくて……ごめんね」
すぐにでも駆けつけようかと頭のなかでスケジュールを考えたが、今回の出張は店舗開設に伴うもので、キャンセルは出来ない。
「出来るだけ早く仕事済ませて帰って、顔を出します。多分、明日になると思うけど」
「うん、ありがとう。むりしないでね」と最後は涙声で会話は終わった。自分の父の死に際を思い出し、やはり家族以外は居なくていいような気がした。電話を切っても現実感はなかったが商談に戻るにはやはりうろたえており頭が回らなかった。
秀春とマツとは高校卒業後はあまり会わずに三十年近い月日が流れていた。秀春は大学を出て大分本社の企業に勤め、別府から通った。マツは東京のゼネコンに就職し、三十才で結婚した。その五年後、会社を辞め別府に帰ってきた。時折、同級生達の飲み会などがあったのだが、秀春はアルコール類が全く飲めず、酔っぱらいも嫌いであまり参加しなかった。狭い町なのでよく顔は見ることはあったが、ゆっくり話すことのないまま時は過ぎ、危篤の電話の翌日にマツは逝ってしまった。本当に仲の良いつもりでいたので、いつでも昔のように付き合える気がしていた。車なら一五分程度の距離に住んでおり、その気になればいつでも会えると思い込んでいた。お互いに忙しくなった仕事を優先させていた。秀春にはいつか、マツにだけは話してしまいたいことがあった。遠い昔のことだが、時が解決はしない話を。お互い家庭を持って子供たちも育ちあがって仕事も一段落ついた頃かなぁと漠然と想像していた。
秀春は大車輪で動き出張を早めに切り上げ、翌日の昼過ぎの便で大分空港に着く。朝一番か夜の最終しか大分空港を利用することがなかったので、空港を囲む海の美しさにびっくりした。上空から見る空港と滑走路は海と寄せる波に包囲され頼りなく、そのうち海に引きずり込まれそう。見とれる間もなく着陸した機は相変わらず大きな音と大げさな振動をたてて止まった。
連絡通路を歩きながら秀春は携帯に電源を入れた。やはり、あちこちで電源を入れている。秀春にも見覚えのある男性が携帯で喋りながらこちらに向かって頭を下げた。思い出せないがとりあえず、会釈をして画面を見る。たちまち、伝言とメールの表示が現れた。仕事関係の伝言を聞き、メールを開ける。家族や友人は多分マツの件だろうと後回しにする。急ぎの要件から電話で片付けた。どうでもいいような件を眺め削除する。内心ではメールとかあるからこんなこといちいち連絡してくるんだろ? と罵った。大切な友人が亡くなった時にオーダーシート提出の確認? 来月の定休日、来季の予算書の未提出の件、なんだ、そりゃ。
手荷物が廻ってくるのを待っていると、ビートルズのIN MY LIFEが流れていた。あの美しい楽曲を何の目的でこんなアレンジしてつまらないものに仕立てたのだろう。空港ということで外人受けを狙ったか、琴の音色とオーケストラという凄まじいもので誰の演奏かアレンジかもわからない。マツが一緒に聞いていたら、すげぇな、どうしたらこんなセンスの悪いアレンジが出来るんか、教えちくりぃ、などと言いそうだな、と彼の口調を思い出す。マツこと後藤松太郎は死んだのだろうが、秀春にはとても信じられない、というより実感が湧かない。そんなことを考えていると手荷物を取り損ない、また一周回るのを待つことになってしまった。
秀春は葬儀場に直行することにした。と、言ってもタクシーは使わず、空港バスで北浜まで行く。やはり疲れていたか一時間ほどグッスリと眠り込んだ。北浜から歩いて行く道筋は秀春が一八才まで過ごした辺りだ。小学校、郵便局が移転して、デパートになっていたり、あれほどあったパチンコ屋も映画館も姿を消し、観光地特有のお土産屋も減った。もはや、栄えていた頃の面影は見当たらない。この辺の年寄りは昔を懐かしんでは、今の衰退を嘆いて見せる。昔はもっともっと栄えていた、人とぶつからずに歩くのが困難で、お兄さん寄ってかない、と酔客に声をかけるお婆さんが街角には必ず立っており、一晩中開いているお店が何軒もあって、どのお店も一杯だった、等その他いろいろな具体例を出す。だが、よく考えたら栄えた時期も衰退した時期も期間的に変わらないくらい時間は経っている。人間は良い記憶しか残さないと言うのは本当のようだ。それでもいたるところに繁栄した頃のかけらは散っている。目抜き通りに見られる『成人映画』のポスター、何十年も営業してないだろう韓国料理店の看板、存在が理解できない広大なお土産屋、かつてのストリップ小屋を改装したイヴェントスペース等など。二次大戦時に空襲がなかったので古い町並みが残り、区画整理もままならない地区も多く道路も拡がらず、一方通行は街の名物化している。もしこの辺りにいきなり放り込まれれば、まるで東南アジアのどこかの街のような錯覚を覚えるに違いない。
別府の人々は山側が上、海側が下、山に向かって右とか左とか表現し、東西南北で行き道を教えない。秀春とマツもこの通りを上に下に何百或いは何千回も歩き回った。当時はレコード屋が三軒あって、どちらかがレコードを買うとなると一緒に行ってあれこれ試聴した。今は無くなったビルの二階の喫茶店はミニスカートのよく似合うお姉さんがいてよく行った。お姉さんとの少しの会話でときめく。初めて入ったパチンコ屋では高校の教師から玉をもらった。少ないお金で長時間遊べる雀球屋の方がよく行った。どこもマツと一緒に行ったことを思い出ばかりだ。駅前通りを歩いていると見知った顔に会い、挨拶をする。道の向こうから手を振る同級生に手を振りかえす。今夜の通夜で会うはず、わざわざ立ち止まってまで話さなくていい、と足は止めない。南高架商店街に入ると意外なくらい人が多い。マツもこの街では有名人だから顔見知りの人間が、通夜かと訊いてくる。早くも夕食の買い物をする人々とすれ違い商店街を抜けると葬儀場が現れる。町中の古くからある葬儀場でマツのお父さんも秀春の父・祖母もここで葬儀を行った。マツの家族や二人のお姉さん、お母さんに挨拶をするために階段を上ろうとする足が少しずつ重くなる。先日から気を許すと頭の中に湧くマツとの思い出を振り払おうと首を左右に振った。
マツの家族や両親、二人のお姉さんにつらい挨拶が済むと、お棺に入ったマツのところへ奥さんのしおりが案内する。彼女も同級生で高校時代に知り合った。しおりがはっきりとしたもの言いで闘病の様子を話す。秀春にはそこに寝かされているのがマツだとはどうしても思えない。その顔は苦しんだ名残が消しようもなく窺え、いつも思い浮かべる人懐こい顔ではなかった。腰が痛いと頻繁に訴えていたのだが仕事が忙しく針やマッサージに通ってやり過ごし、すい臓がんの発見が遅れてしまった。それでも、生きる意欲は失わず手術を望み、大手術が施された。術後も苦しみ、結局はがんが見つかってから三ヵ月で逝ってしまった。最期はさすがに諦めたか、家族以外誰にも会いたくないとしおりの手をずっと握っていた。
とうていマツの家族と一緒にいることは出来ない秀春は受付を買って出た。受付に居ると中学・高校時代の友人・知り合いが次々にやって来る。学校を出てからほぼ三十年経とうというのに、やはりマツはみんなの中心に居て、頼りにされ好かれていた。みな彼を惜しみ、驚きを口にした。秀春は昔みたくマツが後ろから首を絞めてきて、「コラ、なにしよんか」と言ってきそうな気がしてしようがなかった。同級生が何人か居ると、マツをつい探してしまう。
通夜も終わり参列者がおおかた退出して、遺体を畳の間に移した。親族が食事するのに秀春も誘われたが、出張帰りを口実に断る。葬儀場を出ようと階段を下りたところで玄関にタクシーが止まり、ドアが開き背の高い女性が降りてきた。彼女がエリア、旧姓は布原。高校時代秀春と付き合っていたが別れ、その後東京で就職・結婚し、関東に住んでいる。彼女ともほぼ三十年、やはり葬式くらいでしか顔を合わせていない。その場に立ち彼女が入ってくるのを待つ。手足の長いスラリとした体型は昔のままに、髪は短くいっそう美しい。
「ご苦労様、マツはもう二階の広間に運ばれたよ。しおりさんと子供達、お母さんもお姉さん達もいる。僕はいたたまれないので、逃げてきた」
「ご愁傷様です。……帰るの? お参りしてくるから待っていてくれない、久しぶりだし……」
互いの携帯のナンバーを交換して秀春は実家へ向かう。流川通りをくだり、西法寺通りを左折する。いつからか西法寺通りと言い出したようだが、昔は旧国道と言っていた。実家といっても、父親はすでに亡くなり、母は大分の姉のところで暮らしている。昭和の香りあふれる古い家だがそのままにしており、法事の集まりに利用したり、時々秀春や彼の子供たちが朝早い出勤や通学に使ったりしている。自分の育った界隈と縁を切るのが嫌なのだ。隣近所も古い空き家だらけで五十年も前から再開発のなんのと言われている時代錯誤の家並み。五分程度の道のりに妻へ連絡する。友人に会って食事に行くから今夜は実家に泊まる、明朝は会議で昼からは葬式でまた手伝う云々。嘘は何も言ってない。
秀春は実家で使っていた部屋だった離れを覗いてみた。ほぼ、物置になっているが、今はもうかける事のないレコードを押し込んでいる棚から数枚のレコードを取り出した。エリック・クラプトンのドミノス時代のライヴが目に留まる。これはマツのものではないか。マツはギター小僧だったのでクラプトンはよく聴いていたが、秀春は歌が好きなのでクラプトンやギター中心のロックバンドは積極的には聴いてなかった。他にもマツのではないかと思われるレコードを探してみる。テンイヤーズアフターやロリー・ギャラガー、ピーター・フランプトン等など。足元にあった紙袋を覗いてみると、エロ本が無造作に放り込まれている。結構あるなぁ、と手を入れて何冊かページをめくろうとしたところへ携帯の着信音。意外に早くエリアからだ。秀春は実家の降りたままのシャッターの前でエリアを待った。
魚屋だった秀春の実家では、秀春の子供時代は何人もの従業員を雇い、あちこちの旅館やホテル、料亭と取引をするかなり大きな商売をしていた。しかし、それも中学生くらいまでで、別府自体の景気が悪くなり、取引先の旅館やホテルが倒産してかなりの額の掛け倒れが発生した。スーパーの進出の影響も大きく秀春や姉は家業を継がず、国中景気がよくなり、魚屋で働こうという若い人も居らず、父親が死んだおりに廃業した。エリアの家も酒屋だったがこれまた、個人の店としてはずいぶん大きな規模で商売をしていた。が、安売り店の進出や取引先の倒産あおりで、やはり何年か前に廃業した。もっとも、エリアのところも秀春のところも、良い時代にそこそこに蓄えをしていたので、どちらの両親も生活に困ることはなかった。
やって来たエリアと遅くまでやっている近所の海鮮の店で遅い夕食をとることにした。店の端の小テーブルに着く。二人の後輩である店主と、挨拶とマツの話を少ししてから注文を済ませた。向かい合わせに座っているのでお互いに目を合わせ、何を考えているのやらしげしげと眺める。十年ほど前の彼女のお母さんの葬儀の際に型どおりの挨拶して以来だ。まずは変わらないなぁ、いえ、あなたこそ、きみこそをやって、今夜顔を見た連中の近況や見た目の話、明日は夜に集まれる人間だけでも集まろうという話になっている由を話した。
「私はお葬式終わり次第、五時半の飛行機で戻るから、行けないな。……ひで君に会ったから別にいいや。今夜は二人で弔おうね」
「今ね、実家の僕の使っていた部屋でマツのものないかなと探していたら、数枚のレコードはともかくエロ本が出て来たよ。あの頃、マツは買っては僕のとこに置くんだ。あそこの家、オフクロサンとても良い人だけど、そういうの厳しくてねぇ。もちろん、当時は有難かったけど。まさか、形見の品とも言えないよね」
「はは、いいねぇ、昭和の男の子だねぇ」
ひとしきり笑った後、秀春は、
「昭和の男の子の話をしよう。ちょっと恥ずかしいけどマツ、いいよな」と天国に行きかけのマツに断わって話を始める。
その頃の彼らの頭の中はロックミュージックとセックスで大方埋まっていた。ロックミュージックの方はレコードを買ったり、雑誌を買ったり、ラジオを聴いたりで楽しんでいれば知識は増えていったものだが、セックスの方はそうはいかない。友人からエロ本など回ってはくるが、扇情されるもののいまひとつ具体的なことが分からない。知識だけは増え、体の欲求は増大していくのに……という悶々とした日々を送っていた。今どき考えられないが中学校では男子生徒全員丸坊主だった。高校生になり髪をのばした初夏のある日、前々からの計画をついに実行した。学校の振替休日に熊本は水前寺まで出かけストリップを見たのだ。先輩に聞いたところによると、そのストリップ小屋では特出しと称して、女性性器を目の前で足を広げて見せてくれるとか。
秀春はボタンダウンのオクスフォードシャツ、ジャケットに綿パン、マツはGジャンにジミヘンのプリントTシャツとジーンズ。大人に見えるように気を付けたつもりである。二人は思い切り緊張したが難なく切符売り場は突破して、薄暗い劇場の中ほどの席に腰を下ろす。客席はせいぜい三割程度しか埋まっていない。固唾を呑み待っていると、舞台が明るくなり、歌謡曲に合わせて踊りながらストリッパーが登場。十五歳の彼らにはその女性はお婆さんに見える。その体は樽のようにウエストが一番でかく見えた。二人は顔を見合わせ、それから下を向いて笑った。しかし、曲が変わり花道の出っ張りの回転台に彼女が座り足を開くと、もう一度顔を見合わせ、立ち上がり最前列の空き席に猛然と走る。図解などでは何度も見た女性性器の実物がそこにある。彼等は息を飲み込みその部分を凝視した。回転台がおそろしくゆっくり回るのに合わせ、目が追いかけ首が追いかける。……しかし、思いもよらない器官のようなものがあった。二人は多分、男みんなの憧れの中心は乳房やお尻のように見た目の良いもののような気がしていたのだろう。唖然としたまま秀春がマツにストリッパーの股間を指差し、
「あれに入れるんか?」と驚いたように言った。顔を見合わせてマツもつぶやく。「なぁ、あれに入るんかな?」と二人は顔を見合わせた。
一瞬、エッと間があったが踊り子さんが吹き出し、客席からもクスクスと笑い声が聞こえやがて爆笑に……恥ずかしさとその奇妙なものを見た衝撃とが押し寄せ、顔を赤くしながらその部分が再び回って来るのを待つ二人であった。次からの踊り子さんにも二人のことが伝わっており、それ以降は特別によく見せてくれたり、からかわれたりの貴重な時間を過ごした。その後マツも秀春も数人の子供を持つことが出来た事とこの経験は関係があるのかないのかよく分からない。このことは誰にも語らず、二人の間でも話題にすることは無かったが、同級生達より先に一気に大人になった気がしていた。
ニヤニヤ聞いていたエリアは笑いながら
「可愛いー、可愛いわ」と大うけする。
ひとしきり笑った後、クスクスと笑いながらエリアが「十字覚えてる?」と、これまた恐ろしくくだらないことを思い出させた。
それは秀春とエリアが付き合い始めた高校年二の冬のこと。ハンサムな文学青年の木門がある日の放課後、マツと秀春が話しているところへ、「教えて欲しいことがあるんだが、いいかな?」と話しかけてきた。かなり奥手の木門が言うには、図書館で知り合ったお姉さんの部屋に招かれた、これは噂に聞くセックスを求められるかも知れない、生憎経験がない自分に何かアドヴァイスはないか?
マツは「その話からすると相手は経験者だな、間違いなく。お前、知ってるか、経験者のあそこは十字になってるんだぞ」と木門の肩を抱いて小声で話す。いぶかる木門に「女のあそこは処女のときは一文字だ、それはお前も知ってるだろ。経験すると処女膜が破れるのと同時に多少肉も切れるんだ。でなきゃ、チンコ入るわけないだろ」
木門は目をむいてホントに? と僕のほうを向いた。僕はニヤけてないか注意しながら「やっぱ知らなかったんだな。おい、エリア」と帰る用意をしているエリアを呼ぶ。いきなりエリアに「なあ、女の子は経験するとあそこが十字になるんだよな」。エリアは「もう、恥ずかしいことを聞かないで」。マツが「そうだよな」と念を押すとエリアは神妙そうにうなずいて自分の席に戻った。木門はマツと秀春を交互に見て、目を白黒させていたが、鞄を脇に抱き抱えてふらつく足で教室を転げ出していった。僕とマツが足音が去っていくのを待ち噴きだすと、すまし顔をしていたエリアも机を叩いて笑い出した。
ひとしきり笑いあった後、
「……そうだな、マツにはそのうち会うだろうって思っていたけど、こんなことになるとはな。思い切り歳とったら本当のこと言おう、とか考えていたんだけど、話さなくて良かったんだろうな。……もういいよな」と秀春が言う。エリアも無言で頷く。
丸田秀春は別府の中心街で基本的には不自由なく育った。目立つほうではないが、中肉中背のハンサムな少年だった。彼自身の記憶ではオバサン、お婆さん達からよく男前だね、とか鼻筋が通っている、とか言われたが、同世代から言われたことも、女性からもてた覚えもなかった。強いて言えば、中学三年の時に初めてラブレターをもらったが、元気の良いだるまさんのような一年生の女子に恐れおののき、見なかったこと、なかったことにし、記憶から消し去った。その頃に秀春はマツと出会い、大きく影響を受けることになる。
秀春とマツこと後藤松太郎とは中学で知り合い、同じ高校に通い、よほど気があったのだろう多くの時間を一緒に過ごした。マツは物知りで、読書も大好きで大江健三郎、江戸川乱歩、三島由紀夫、筒井康隆、アーサー・C・クラーク、レイモンド・チャンドラー、サリンジャー等を秀春に教えてくれた。秀春は少年少女文学全集から入った正しい本好きであった。二人共ロックミュージックも大好きで、彼等は百枚近くのレコードを貸し借りして、一体どれくらいのレコードを一緒に聴いただろう。二人の出会いは中学二年の新学期だ。秀春の前の席にマツがいた。その時点では秀春には顔と名前が一致する程度だったが、いきなり、「ストロベリィフィールズ貸してくれんか?」と話しかけてきた。小学生でビートルズに衝撃を受けた秀春は思い切り興味を惹かれる。彼等はそれからしばらくの間、授業もそっちのけでロックミュージックの話をした。マツが、五つ上の姉が「シー・ラヴズ・ユー」を、秀春は小学校の高学年の時に隣の三つ上のコウ兄ちゃんが「抱きしめたい」を聴かせてくれた時のことを話した。それまでは聴いたこともない音楽、ヒット曲、後にも先にもビートルズほどの衝撃を受ける音楽はなかった。ビートルズ、ストーンズ、フー、ジミ・ヘンドリクス、クリーム、ドアーズ、いくら話しても尽きることはなく、お互いの家を行き来して、お互いの部屋でレコードをかけていろんなことを話してすごした。その折にマツは、街のレコード屋で派手に買いまくっている秀春と友達になる機会を伺っていた、と明かす。彼は成績も良くクラス委員なども度々やっており、男らしい雰囲気で中学時代は剣道部の主将をやっていた。そのせいか秀春の両親や大人達にも受けがよく、丸田家ではいつでも歓迎ムードであった。マツの家は建築会社を経営しており、鉄筋の三階建て社屋の裏に両親と二人の姉と暮らしていた。知り合った頃マツは郊外に住んではいたが、もともとは別府駅より下の繁華街で育ち、近所の小学校に途中まで通った。そのせいか興味の対象や物事の感じ方、言わばセンスも似通っていた。彼等は知り合ってから本当にいつも一緒だった。当時、お互い彼女もいなかったし、回りからはホモダチと言われたりもするほどであった。マツは間違いなくイイヤツで秀春からはもちろん誰からも好かれていた。女性にも人気はあったが、結構な奥手の恥かしがり屋で、実際にもてるまでにはいたらなかった。
マツと秀春は市内の普通科高校に入学して一九七〇年の二年になった春、二人は布原エリアと同じクラスになる。以前からエリアと知り合いだったマツから、彼女の話を聞かされた秀春は、その口調に好意を感じてよく冷やかしていた。そんな秀春もマツの惚れた女やとエリアを観察してみると、なるほど好みだ、マツにも自分にもと納得する。エリアは綺麗な顔立ちとスラリとした肢体だけでも充分なのに、イタズラ好きのロシアンブルーのよう。だが、実際は容姿を鼻にかけることもない下町娘。それもこれも、二人には魅力的に映ったのは間違いない。
四月の始業式の翌日の放課後、マツは秀春とエリアを引き合わせる。
「布原エリア、ほら、うちで聴いたチープスリルの持ち主」と秀春に。彼女に向いて、
「ドアーズのファースト、セカンドとかストーンズ、ビートルズはみんなコイツ、丸田秀春です」
と二人を紹介した。エリアが、
「私丸田君のこと聞いたことがあるよ、……小学生の頃から高級レストランで一人でコース食べてたんだって? 私の友達が秋葉にあったレストランで家族でよく食事していて、その時に、ひとりでコース食べてる小学生がいたんだって、凄いね、中学になって一緒のクラスになって丸田君だって分かったって三組の朝牟さんが言っていたよ」
「……そうか、小学生の頃だったかな」
とトーンが暗くなった秀春に気がついたマツが、話を替える。
「そう言えば、エトウレコードに遠藤賢司『NYAGO』頼んでるんだ。もし今日、連絡あったら、取りに行ってくれん? 電話するから」と話をそらす。マツは育ちの良いぼっちゃんなのだが、よく気が付き、気を回すことの出来る男であった。
方向が違うマツは裏門に消え、エリアと秀春は正門から出てバス停に向かう。マツのこと、共通の知り合いの話をしながら歩いていると、夢中になったせいか、乗るつもりのバスがバス停を発車したのが見えた。顔を見合わせ、歩くか、ということになった。ずっと話し続けたが野口の墓地の前辺りで、一瞬話が途切れた。何故か、本当のことを喋りたくなった秀春は切り出す。
「さっきのレストランの話な、あれ、ひでぇ話なんだ。僕の父親が、小さい僕に昼飯に行こうって連れて行くわけ。それであのレストランに僕一人置いて、急用とか言ってどっか行くんだ。すぐ戻るからってね。女のとこ行ってんだよ。意地悪な親戚の小母さんがいて、父親の女癖の悪さを僕に教えるんだ。ありゃ、病気やね、いい女見たら仕事放って追いかけていくんやモノねぇ~、とか。そして僕を待たせた父は帰って来ないんだ、これが。子どもにはその待ち時間が異様に長いんだ。もしね、一人で帰ったら母からいろいろ聞かれて、その夜には家庭争議って決まってるから、帰られなくて。その頃は父の女性問題でよくもめていたから」神妙な顔をして真面目に話を聞くエリアを見て、慌てて冗談めかして続ける。
「それで、レストランに誘われても行かなくなったんだ。そしたら今度は映画だよ。二本立ての映画に連れて行って、自分はまたいなくなるんだな、やっぱり。二回ずつ見てもまだ来ない。最後の上映の時なんか、入り口のほうばかり見てたよ。いくら子供でも日に三度もゴジラ見れば飽きるわ。僕は今でもゴジラって見ればこの時を思い出す」
「……そうだったの、ごめんね。辛いこと思い出させたみたいね」
「イヤイヤそんなつもりじゃないよ。誰だってそんな事情分からないよ。もし、そんな事情知られてたらその方が恥ずかしいよ。……知り合ったばかりなのになんでこんな話するのかな、それこそごめんね。知らなくていいよな、こんな話」
「そんなことない、グレもせずに丸田君偉いと思うよ」
「……偉か無いけど、そんな父だけど嫌いじゃないんだ。仕事はすっごくするし、魚屋仲間や近所の人には頼りにされてるし、そんなとこは尊敬できるよ。女癖に関しても今は落ち着いていると思う」
「そっか、丸田君が好きならそれでいいか。私んとこは父は養父なの。私と妹・弟はお父さんが違うの。でも、とってもいい父よ、妹・弟と全然分け隔てないし、母のこと大好きだもの。だから、私も父も母も大好き。私の本当のお父さん、遺伝学上の父、ほとんど興味ないな。母に訊いたこともないわ」
「じゃあ、本当のお父さんのこと何にも知らないの?」
「うん、知りたくもないわ、今のところはね。母も触れたがらないもの。今がいいからだろうね、知りたくない。……ねぇ、興味本位だけど訊いていい? お父さんの女の人って見た? 覚えてる?」
「うーん、二人は知ってる。ひとりは会計事務所に努めていた大柄な頭のよさそうな女性で、もうひとりは女優さんみたいな奇麗で華のある人だった。考えてみれば、母もみんなから奇麗って言われるし、父の好みは良いと思うけど、女の人がよく相手にするよね。すごい、そこも尊敬するワ」
「もてていたってことよね。丸田君もその血が流れてんじゃないの?」エリアはいたずらっぽく笑う。
「だと、いいんだけど、今のとこ、拾われてきたんじゃないかと思うくらい、モテモテの血は無いようだな」
とぼけたように頭をかく秀春にエリアは微笑んだ。それを見た秀春は照れ笑いし、また並んで歩き出した。二人は富士見通りを肩を並べて下って行った。
彼等三人とも別府の繁華街で育ったせいかませていた。まだスーパーなどなかった時代で、いずれの家も自営業で、金銭的にも比較的恵まれていて、どの家庭も子供をほぼ野放しの傾向にあった。当時の別府は本当に栄えていて、どんなに説明したとこで今を見ていると想像は出来にくいだろう。商売している親達は常に忙しく、秀春など夕食を父母と一緒にとったことなど無い。そのせいか、箸の使い方が下手で人と食事するのが苦手であった。そのかわり、親はむやみにお金をくれるし、使うところも沢山あった。幼稚園に通う頃には買い食いなど当たり前で小学校のころには回転焼きやたこ焼き、ところてんなどを食べるため、子供達だけで店に入っていたり、幼い頃からお金を使い慣れていた。
秀春が育った商店街のエピソードがある。小学校一年の春にテレビが家にきた。テレビを見に来る人たちでしばらくは家の居間は一杯だった。ただ、三ヶ月くらいで誰も来なくなった。それくらいでみんなの家もテレビを買ったのだ。また、小学校の高学年のとき、みんなで野球した帰りに氷を食べに店に入った。すると、一緒に遊んでいた他の地区の子は帰ってしまい、同じ地区の三人で氷を食べて帰った。しばらくしてPTAの折に、秀春の地区の親だけが残され、子供達だけで飲食店に出入りしてはいけない、むやみに小遣いを持たせないよう指導があった。帰った他の地区の誰かが親に小遣いをせびり、その親が学校に告げたようだ。ただ、秀春の親といえば、そんなうるさい親のいるような子と付き合うな、とのこと。
また、中学三年のときには、担任の先生が、車のある家は手を挙げて、と言い出した。先生はその時車買ったばかりで自慢したかったのだろう。四十数人のクラスで二人だけ挙がる。秀春とやはり近所のすし屋の息子だった。
「お前たちのとこはトラックだろ、商用車だろ」
「トラックは三台あるけど、乗用車もあります」
「何があるんか、軽だろ?」
「日野コンテッサとスカイラインです」
と秀春。すし屋の方は、
「フォルクスワーゲンのビートルです」
先生の車はダイハツミゼットという小さな車なもので、それから先生は機嫌が悪くなってしまった。
高校時代の彼等はロックミュージックが好きで、いわゆるサブカルチャーがクローズアップされ、アメリカ社会で何かが起こりつつあると考え、日本でも社会が変わろうとしていると感じていた。一九六〇年代はその真只中で、彼等にも良く分かってなかったが、ちょっとした躁状態だったと思われる。最初はテレビや冷蔵庫でやがて車がみんなの家にやって来た。明らかに社会全体が裕福になっていた時期である。安保闘争や学園紛争だけでなく、海の向こうのヒッピームーブメントも含め経済的な背景はあったにせよ、より良い社会になるには若いやつの意見も聞け、という主張だと思った。新しい価値観の世界に到るその過程のことだと思っていた。高校生になると大人たちだけで何でも決めるなと、そんな気分で大学紛争を理解したつもりだった。
高校一年のホームルームの時間で日米安保条約の討論などもあった。一九七〇年は日米安保条約の批准の年でもあり、前年から秀春等の高校にも、隣の大分市から学生運動のセクトの連中がオルグにやって来たり、民青に勧誘されたりもした。安保闘争や大学紛争は左翼の分裂や過激さが一般の人たちはもちろんマツや秀春のような高校生からも敬遠されていった。当時は親戚とか知り合いの大人と大学受験の話題になると二言目には過激派に入るなよとか学生運動するなとあちこちで言われるのが常であった。
エリアとマツと秀春、三人は急速に仲良くなっていった。マツは帰る方向が逆なのに週の半分は二人と一緒にバスに乗り、秀春の家に来たり、北浜界隈の喫茶店に入ったりして、遠回りして自分の家に帰った。秀春の部屋は家の裏のガレージの二階にあり、出入りが自由だったので、友達はよく集まっていた。マツも度々泊まって行った。彼が学業優秀ということで、勉強と言ってはレコードをかけて、バカ話ばかりしていても、秀春の両親には何の問題もなかった。エリアはさすがに男友達の部屋ということで長居はあまりしなかった。
ゴールデンウィークを過ぎた頃、隣町の大分にマツに秀春、エリアの三人で遊びに行った。それぞれが洋服を買い、本屋、レコード屋回りを終え、カフェにでも入ろうと駅前辺りを歩いていると駅前広場から時折ハウリング音が交じるアジ演説が聞こえて来た。日米安保条約の批准前であり、大分の駅前ではおそらく大分大学の学生らしき若者が五十人くらい集まってアジ演説を拡声器でガナっていた。ヘルメットにスカーフのような布切れで口元を隠すお馴染みの過激派スタイルで本当のところ素性はよく分からない。「ベイコクゥテイコクシュギノソウクトナリィ、ベェトナムゥセンソウニィカタンシテイルゥゲンジョオォヲジコヒハンセヨォー」とか言っている。それを機動隊の一団がジュラルミンの盾と棍棒を持って眺めていた。武装したヤクザのような機動隊とデモの学生達を見較べる。どう見ても、お代官様に歯向かった百姓一揆よりは迫力も気合も装備でも負けている。別府では見かけたことがなかったので、遠巻きに見ている人に混じって四人も眺めていた。エリアがあっと声をあげた。過激派の群れから目を離さず、「しおりさんよ、一番後ろ、あの赤のトレーナーの背の高い人」その集団の最後尾に立つ、明らかに周りの男女より線が細くきゃしゃな雰囲気を醸し出す女、過激派スタイルではあるが間違いなく彼女――しおり、元野しおりであった。アジ演説がいつのまにか終わりジグザグにデモ行進が始まった。「アンポー」「ハンターイ」と声を上げながら駅前からメインストリートに向かっている。
元野しおり、その名前は別府において、とんでもない美人の上に性格、成績、スタイル、声、しゃべり方、等など全て一級品の高校生としてさんぜんと輝いて眩しいばかりであった。一度彼女と言葉を交わせば、その瞬間から彼女のとりこになる、と言われていた。そのしおりが日米安全保障条約に反対するデモに参加している。高校生がデモ参加するのも無いわけでは無かったが、彼等にとってはあのしおりのイメージではなかった。
秀春等三人が立っている歩道のガードレール沿いに機動隊達が立ち並ぶ。その前をデモ隊はジグザグに進もうとする。歩行の邪魔になると機動隊員が両側から挟みこんでジグザグ行進の妨害しようとする。デモ隊も逆らって押しくら饅頭状態になった。デモ隊の指導者らしき覆面が「手を出すなぁ」「前進しろぉ」と叫ぶのが聞こえる。見ている秀春等四人の目の前でついに小競り合いは乱闘に発展した。最後尾でデモ隊を押していたしおりを後ろからきた機動隊員が肩を掴んで引き倒した。マツと秀春は反射的にその場へ走る。転がるしおりを秀春が抱き起こそうとしたとき、機動隊員が蹴ろうと足を振る瞬間をとらえて、軸足にマツが足払いをかけた。見事に決まり機動隊員が仰向けに倒れる。走れぇーと逃げだそうとした三人を別の機動隊員が追いかけ、マツのTシャツを掴んだ。生地の裂ける音がしたその時、エリアがその機動隊員の背後を指さし、あらん限りに声を張り上げ「きゃあ~」。機動隊員が振り向く僅かな間にエリアとマツは二人を追って走りだし、逃げた。四人は、日曜で少ないとは言え走る車を除け、止めて国道を渡り、公園に飛び込んだ。すぐに追いついたエリアはしおりのヘルメットと覆面を剥ぎ取り、ゴミ箱に放り込む。そのまま手を引いて女子トイレに二人で消えた。すぐに一人で戻って、アンタ達も着替えておいで、と促す。マツのTシャツは無残に袖がちぎれていた。とても、大分駅に戻る気になれず、路面電車で帰ろう、と西大分まで歩くことにした。すっかり犯罪者気分になった四人はカップルになって別々のルートでいくことにした。しおりはマツと歩いた。ずっと黙っていたしおりがやっとありがとうと口にした。ひょっとしたら、いらんおせっかいをやってしまったかな、と思い始めていたマツは安堵する。しかし、それからも口数は少なくうつむき加減でひたすら歩いた。エリアと秀春も今あった出来事の興奮からかいつものようには喋らず、ひたすら歩くことになる。
別大電車で別府に戻り、北浜で男子・女子に別れた。秀春はマツと彼の部屋に行き、エリアはしおりを自宅に連れ帰った。その夜、エリアから秀春に電話があった。大学生の恋人が学生運動をしており、共感してデモに参加した。が、とても恐かった、思い出す度に震えが来る、としおりの話が伝わり、その話を秀春は忠実にマツに電話で伝えた。
暑い夏が過ぎ冬の手前のある日、エリアが帰った後マツが秀春の部屋で彼女が好きだと打ち明ける。少し緊張した秀春はビートルズのアビーロードを引っ張り出し、ターンテーブルに乗せ針を置く。マツは続ける。しかし、どう見てもお前が好きみたいだ、お前はどうなんだ、と詰問してくる。秀春は、
「もちろん好きだけど、今みたいに三人で楽しくやって行きたいけどなぁ……」
とマツを牽制してみる。
「じゃあ、そこまで好きってわけじゃないんだな」
と、すかさずマツ。
「そこまで、ってどこまでよ?」
「俺は最近ずっとエリアのことばかり考えているよ、一緒に居れば何とか収まっているが、お前ら二人だと思うと妄想で頭がおかしくなってしまいそうだ。分かるか、この気持ち」
分かるわけがないけど、そうか、と頷く。オーダーリンとポールの声が聴こえる。
「俺がエリア誘ってもいいか? 映画に誘うぞ」
あまりの迫力にたじろいだ秀春は、つい頷いてしまった。
その夜、エリアから秀春に電話があった。
「マツから映画に行こうって誘われたんで、丸田君も行くのって聞いたら、一緒じゃなきゃ駄目かって機嫌悪くするの。秀春が好きなんだろうって。こんなに仲良くしてるのに嫌いなわけないじゃない、って答えたら、頼むから俺一人と行ってくれ、って。電話長くなると困るから、後で電話するって切ったとこ。どうしたらいいと思う?」
「……行ってあげたら……エリアのことは前から好きだったみたいだよ」
「フーン、丸田君は平気なんだ。マツと私がふたりで映画見ても、興味ないんだ。分かった」と切れた。受話器から手が離せずに思わずエリアの電話番号を回そうとしたが、何を言ってよいやら分からずにダイヤルを見つめた。
六月に安保条約の批准があり、全国で七十数万の人がデモをしたが何も変わらない。大阪万博はのべ六千四百二十一万の人が来場し九月に終わった。岡本太郎の太陽の塔は秀春にもマツ、エリアにも衝撃であった。太陽の塔は何にも影響されずそこにあるように見えた。万博では人類の未来は明るく、技術革新が地球毎幸せにするような幻想、汚いものは何もないような世界が繰り広げられていた。太陽の塔は生命の礼賛だったかもしれないが、人間そのものへの礼賛とは感じられなかった。三人に元野しおりが加わり炎天下の千里にまる二日間遊んだ。しおりは五月のデモ事件以来、エリアと仲良くなり、マツにも秀春にも学校で会えば手を振って微笑みかけてくれる。マツと秀春はそれが相当に嬉しく、誇らしかった。何時間も並んで入る人気館は避け、あまり人気のない展示館を回った。サンフランシスコ館では大好きなロックのレコードが売られていた。秀春は、当時はまだ日本では売られてなかったサンタナを、マツはクイックシルバーメッセンジャーサービスを購入した。それから東京に行き銀座でビートルズの映画レット・イット・ビーを四人で観た。ポールの横暴さに一徹なファンだったマツと秀春は悲哀を感じてしまった。四人で夕食を一緒にした折り、しおりは三人に九月からサンフランシスコに留学すると打ち明けた。どうやら、学生運動の恋人とも別れたようだった。「向こうでどうするの? 何をしに行くの?」「私は安保なんて今でも反対、デモに参加したことも間違っていたとは思えない。でも、何も変わらない。むしろ反対した人達まで知らん振りして、就職したり、学校に戻ったり……。自立したいの、もっと自分を強くしたいの。親がかりだけどね、一人で誰も知らない人達の中で生活して」「何か分かる気がする。自分で洗濯したりご飯作ったり、イヤご飯何を作るかを考えるとこから、何時に自分で起きたりするのを全部自分で決めるの。頭でっかちになった自分を矯正するの」「でも、それだったら、大学行ってだってできるんじゃない?」「東京とか大阪とか福岡で、同級生でまた群れるじゃないか、たいがい」「うん、それに英語学んでみたい。私映画が好きで洋画を字幕なしで楽しみたいの」「何年居るの?」「二年、最初は語学学校に行って、次の年にハイスクールに編入するつもり」「じゃあ、その間に僕たちも行きたいな。フィルモア行ってみたいよなぁ」
しおりの居なくなった十月の高校の文化祭ではエリアと秀春が中心になり公害を取り上げ展示した。マツはロックバンドを組んでジミヘンをやるため練習に忙しく、展示作業には参加しなかった。公害の展示は思いの他反響があり、地方新聞にも取り上げられ、テレビにも秒単位で出た。ホームルーム委員をしていた秀春とエリアはこの秋にあえて政治的テーマの討論会を計画するが、学校側の反対と生徒たちの冷め具合に腹を立て、交通安全教室を計画実行した。馬鹿じゃないかというくらい真面目にレジメを作ったり、警察に行ったりした。九月にジミ・ヘンドリクスが死んで、十月にジャニス・ジョプリンが死んだ。ウッドストックは遠くになった。
十一月二十二日日曜日にマツとエリアは映画デートをした。前日の土曜日からマツは秀春の部屋に泊まり込み、散々妄想を口走ったあげく、竹瓦温泉で朝風呂を浴びて緊張した面持ちで出て行った。当然、秀春は面白くなくて、手持ち無沙汰で、レコードを聴いたり、マツが置いていった三島由紀夫の豊饒の海・春の雪を読んだりで時間をやりすごす。彼の予想では二人は多分、顔を出すか、連絡してくるはずだ。で、出来れば興味のない振りして、どうした、何か用か? とやりたい。と思っていたらどちらも顔を見せず、連絡もなかった。妄想が秀春を襲い気が気でなくなる。マツがエリアに襲いかかり、エリアが秀春の名を呼びながら抵抗する。……マツはそんなヤツじゃない、と思いたいが……。エリアが秀春に当て付けるために何かしなきゃいいがと気が狂いそうになり、悶々とする一日は長い。夜になり、仕方なく勉強していると電話が鳴る。秀春の使っているこの部屋は父方の祖父の隠居部屋だったので電話があり、冷蔵庫も、エアコンでなくクーラーがあり、小さな台所さえついていた。当時は携帯のかけらさえ無く、固定電話がやっと各家庭に普及したくらい。本当は飛びつきたいが五回鳴るのを数える。マツかな、と受話器を取るとエリアだった。
今から家に来て、といきなりエリア。何で? 何ででも、いいから来て頂戴。ハイッと電話を置き、秀春は自転車に乗った。いきなり力一杯ペダルを漕ぎながら、風を全身で切り裂く気分で考えた。もう、やめた、善人ぶるのは。会ったらいきなり抱きしめて、唇を押し付けよう。ほんの数ヶ月前、年上のお姉さんに教わったばかりだが、一番したい相手とする、と秀春は決心した。
もの凄い勢いで自転車を走らせ、エリアの家の塀に突っ込むように止める秀春。その勢いで玄関に狙いを定めると扉が開き、エリアが出て来た。彼を手招きすると、玄関の中に引っ張り込み、
「今夜は誰も居ないから」
二階の自分の部屋へ行って、と自分は戸締りしながら命令する。
数分前の勢いは何処へやら、はい、と返事をしてしまう。何度か来たことのある部屋に入り、ドアは閉めずに待つ。やがてコーラのビンを二本トレイに載せてエリアは入ってくる。
秀春に椅子を勧めながら、自分は丸椅子に腰を下ろしながら話し始める。
「昨日の電話は忘れて。勘違いされたら困るから来てもらったの。あれじゃ、私が丸田君のこと好きって思うよね。もちろん好きだけど、友達としてで、恋愛感情とかじゃないから。……それだけ、言っておきたかったの」
「……いやいやそんなこと思ってないよ。エリアが僕のこと好きになるわけないじゃん。分かってるって。で、マツと付き合うことになったの? 僕が邪魔ならいつでも言ってくれ。僕は今までどおりだから」
と目を合わさずに言ったら、いきなり秀春の頬にビンタが飛んで来た。火花の向こうに吊り上った目のエリアが見えた。
「前言を撤回する。今、たった今嫌いになった、大嫌い。帰って。帰れ、帰れ、二度と顔見せないで」
一気にまくし立て、頬を押さえている秀春を力一杯押す。あまりの剣幕に、立ち上がり後ろ出にドアノブに手をかけながら、何が起こったのか秀春は理解しようとする。目は吊り上ったままで肩で息するエリアを恐々見ると……可愛いというか愛おしいというか……。頭の中が白くなった秀春は自分でも思いもしない行動に出る。ドアノブから手を離し、エリアの前に進み抱きしめる。一瞬の抵抗も強く抱くと収まり、彼は深呼吸して話し始める。背の高いエリアの顔は秀春の肩の上。
「ごめん、嘘ばかり言ってしまった。エリアが大好き。いつもいつもついお前のこと考えてしまう。今日も一日気が気じゃなかった。でも、エリアが僕のことを好いてくれるなんか、思えなくて……。マツは誰が見てもイイヤツだし、頭もいいし、何だってできるし。お前はきれいでスタイルも良くて、成績もよくてみんなの人気ものじゃん」
いきなりエリアが叫ぶ。
「その私が好きだって言ってるのに何が気に入らないの」
エッ、口説き文句のはずが……しまった、また眼が釣り上がった。エエイ、どうにでもなれ、抱いた手を素早くほどき、彼女の顔を両手で乱暴に挟み唇を押し付けた。空白の頭の中に意識が戻り始めると、何てことを……と恐れ慄く。慌てて唇を離すと、エリアは顔を上げ秀春を見すえ、
「もう一度して、ちゃんとして」
とエリアから唇を重ねてきた。ちゃんと? 言葉に戸惑う秀春に、彼女の唇が小さく開き舌がおずおずと入ってきた。秀春の頭の中では打ち上げ花火が連発され、傍のベッドに彼女ともつれ込む。
秀春の初めての経験が過ぎ、エリアが喋る。家族は妹が明日、振替休日になったから、父方の祖父の見舞いを兼ねてドライブ旅行で山口県萩に行っているの、安心して。マツとは何にもなくて秀春君の話題ばかり二人で話してた、安心して。そして二度目が始まった。
とうに夜半を過ぎた頃、彼等は服を身につけ何度もキスをして手を握り、必死の努力で帰ろうとして、何とか玄関まで降りたが、そこでも結局抱き合い触れ合い時間は過ぎる。お互いさすがに呆れ果て、送らないで、と扉の外に出る。
来たときとは別人のような気分の秀春が自転車に手をかけようとしたとき人影が動いた。警戒しながら視線をやるとマツがいる。秀春が驚いて眼を見開こうとした瞬間、こぶしが飛んで来た。かろうじて避けたものの次のボディブローはまともにくらい座り込む。そこにマツ渾身の蹴りを肋骨にくらい仰向けに倒れこむ。あまりの痛みに息も出来ずにのた打ち回っていると、玄関の開く音が聞こえた。マツは「死ね」と、もう一度秀春の背中を蹴り、自転車に乗りツバを吐き棄て走り去った。エリアがマツを見ようともせずに苦しむ秀春に駆けつける。
翌朝、秀春はまだ痛む肋骨を診察してもらうため病院に寄り遅刻して、二限目の途中に教室に辿り着いた。秀春の前の席は空いていた。マツは休んでいる。なんだか安堵した秀春はエリアを見る。目が合うと軽くため息をつき頷き前を向いた。
休憩時間に皆から秀春は遅刻、マツは休み、何だ、何だ、とやかましい。適当に答えた秀春は教室を出た。しばらくするとエリアが追いかけてきた。
「大丈夫?」
「ああ、ひびが入っただけ、二本。……マツ来てなくて良かった。どんな顔して会ったらいいか分からない」
エリアもうなずき、
「一緒に帰ろう。その時に話そう」
と離れる。その後ろ姿を見て、昨夜のことを思い出し、一瞬ベルトの下方面がうずく秀春であった。
四限目は英語だが、秀春はマツのことで悩み、エリアの裸身がちらつき集中出来ず、授業に身の入らないことおびただしく、ひたすら時間が経つことを願った。
やっとチャイムが鳴り、昼休みになる。いつもならマツが机を寄せてきて一緒に弁当を食べるのだが、今日は一人で弁当を開けた。
その日は寝不足と肋骨の痛み、マツのいない胸の痛みで勉強どころではなかった。エリアとは夜更けに長電話して結局寝不足。翌日火曜日もマツは来なかった。また、どうしたんだ、と訊いてくるやつが煩い。学校帰りにエリアが秀春の部屋に寄ったが、さすがにセックスまではしなかった。キスはもちろんしたが。そして、十一月二十五日水曜日もマツは来てなかった。欠席三日目ともなると、先生までどうした、と秀春に訊いてくる。日曜は元気でしたが(僕の肋骨二本折るぐらい)、知りません、と答える。昼休みになり、空いたマツの席を横目に弁当を半分ほど食べたとき、後ろの扉が派手な音をたて開いた。マツだ。
「三島が死んだ」
マツは叫んだ。そしてゆっくりと、
「腹切って自決した。……自衛隊でクーデター呼びかけたけど誰も相手にしなかったんだ、ちきしょう、……命かけた演説に野次とばしやがった」と最後は消え入りそうな声で。
ザッとクラスの大半の人間がマツを囲み、詳しく話を聞こうとした。市谷駐屯地、バルコニー、演説、切腹、介錯等の言葉が聴こえる。秀春とエリアは並んで囲みの外側にいた遠巻きに話を聞き、理解しようとするが、何もイメージ出来ず、時々二人目を合わせる。現実感が無かった。まるで、映画のような話で死に方は恐ろしく刺激的だが、何も動かせてない、無駄死のような気がした。三島ほどの人がなんでそんなことをして死ぬのか、理解できなかった。
食べかけの昼ごはんを食べようと人が引き始めた。文学好きで三島の文章はとても奇麗だと言っていた木門が「僕、頭痛いな、帰ろうかな」と呟く。彼と仲の良い金出が「そういや顔色悪いわ、帰れ、保健室行けよ」と応じる。木門は弁当を片付け、鞄に勉強道具を収め、教室を出て行った。一九七〇年十一月二五日はこのように早引けした高校生が全国でけっこういたのではないだろうか。
三島割腹事件について、翌々日の昼休み、弁当を食べ終わる頃、クラス一の秀才にて色男の木門が教壇に立ち、明らかに何か言いたげに皆を見回した。彼が借りた図書館の本が次々と予約が入るという現象をひき起こしたくらい木門は文学少女の憧れであった。その木門がみんな聞いてくれ、とクラス全員に三島事件のことを話し始めた。曰く、三島由紀夫は安保闘争や学園闘争で社会主義が日本を牛耳るといった不安感を持ち、古来からの日本の伝統的文化や天皇制が危ないと考えたのではないか。左翼に対抗して「楯の会」という私設右翼軍隊を作り、左翼・過激派と闘うつもりであった。ところが、安保の批准も左翼の抵抗なく、本当にあっけなく終わり、振り上げた拳はまるで行き場を失い、楯の会自体の存在理由がなくなった。三島由紀夫は思想・信条に命をかける自分自身を見せることで、時代に対して異議を唱えたのではないかと。あの闘争はなんだったのか、動かないから諦めたか、大事なものはないのか、本気で生きているのか、と我々に問いかけたのだと思う、と結んだ。クラスの全員が黙り込んだ。その沈黙の中、始業のチャイムがいつもより厳かに鳴り響く。
マツが乱入した日、秀春とエリアが弁当を片付けに席に戻ると、彼がやって来た。秀春とエリアの前に立ち交互に見ながら、言った。
「俺たちがこんなつまんねえことやってる間に、自分の思想信条のために命を棄てたヤツがいるんだ、あの三島由紀夫がだぞ」
秀春もエリアも何かよく分からなかったが、その絞り出すような声の重みに圧倒され頷く。ほんの数秒二人を睨みつけ、決心したように身を翻し教室から出て行った。女にフラれただけなのにここまでカッコつけるのもどうか、と秀春は思ったがそんなことは言えなかった。
教室のあちこちから三島の話題がボソボソと聞こえる。マツの言ったことを考えながら空になった弁当箱をしまう秀春にエリアが声をかけてきた。
「マツ元気だったねぇ。安心したよ。私等のことはしようがないよ。諦めてもらおう」
顔を寄せてきて、小声で「やっちまったからねぇ」とささやく。男の友情が壊れるのはいつも女のことって多分本当だ。
翌日からマツは学校に出て来た。秀春とエリアの前で言った。
「もうやめた、ここしばらくのことはみんな無かったことにする。……取りあえず、今までおろそかにしたことをちゃんとやり、将来を考えて今を行動する。俺は未来に向かって前進を始める」
そして、傍から見たら彼らは今までどおりの仲良し三人組に戻る。実際には多少のギクシャク感はあったのだが。マツは表向きにはそろそろ勉強する、この狭い、せこい町を堂々と出て行けるのは所謂一流大学に受かるのが必須条件だ、と学業優先を宣言し、秀春とエリアの二人と一緒に帰ることはほぼなくなった。三学期には本当にマツの成績はかなり上がって学年でも上位になっていた。一方エリアと秀春は学業に集中出来るはずも無く成績はジリジリと下がっていった。マツは成績の良い人間を集めた一・二組は確実で、秀春とエリアは私立文系に希望を出した。
エリアはもともと成績が良かったので国立を志望するように教師たちから勧められたが、県庁所在地にある田舎の国立なんかイヤと進路を決めた。エリアの親も秀春の親も大学進学に大して興味を持ってなかったので秀春とエリアは三年になると私立文系大学志望者クラスになり、隣同士のクラスであった。今まで授業時間が七時間だったのが六時間になった上に数学や理系の授業がなく、今までの二年間と比較してかなり楽で自由時間が増えた。
その結果、二人で過ごす時間が多くなり、成績も思うように上がらないわけで、小遣いの大半をホテル代につぎ込んでしまった。さすがにこれではいかんとホテルは月一回まで、大学合格のあかつきには泊まりで旅行をしよう、と決め貯金を始める。一方ではマツとの付き合いは続く。やはり、レコードと本の貸し借りが主だが、一緒に勉強するという名目で、部屋で話し込むこともあった。エリアがいることはあまりなかったが、以前のような時間が過ぎていった。マツは東京近辺大学の建築科志望で秀春とエリアは私立文系志望。向こうでは近所に住もう、と話し、東京キッドブラザーズや赤テントや黒テント、横尾忠則、ロックフェス・日本語のロックバンドを語ってはまるで自分達を待っているように高揚していった。
あれだけ荒れた学園闘争、安保デモはなんだったのだろう。世の中の興味は公害になり、連日報道がなされた。七月に東京で、光化学スモッグで高校生が多数倒れる、という事件が起こり、大気汚染、水質汚染が取り沙汰され、こんな別府のような片田舎でも他人事でないような気がしていた。別府湾に見える大分新産都の新日鉄の巨大な煙突はもくもくと巨大な煙を吐いていた。
クリスマスも近いある日、秀春とエリアは一緒に勉強すると言って二人でエリアの部屋に居た。確かに勉強はしていたのだが時折いちゃついたりもしていた。エリアの家族が食事に出てからはついに始めてしまった。
その最中だった。玄関が開く音がしたと思うと、すごい勢いで足音が階段を上る。二人は大急ぎで服を身につけようとしている時、ドアが開いて、エリアの母が飛び込んできた。二人の格好を見ると、いきなり、エリアの頬をはつり、秀春の方を向くと胸倉を掴み壁に押し付けた。ただ予想された憤怒の形相とは違って、悲しみと絶望感が表情にあふれていた。
「おばさん、ごめんなさい、でも、本当に好きなんです。今すぐにでも結婚したいくらいです。嘘じゃありません」
と押し付けられながら天井に向かって秀春は叫んだ。エリアの母は掴んだ手から力が抜け、ヘナヘナと床に崩れ落ちた。手で顔を塞ぎ泣いているのかと思うと、
「秀春君、エリア、ごめんね、許して、……あなた達は結婚出来ないの。子供作ってはいけないの」
そして、何を言っているのか理解出来ない二人に向かって地獄の独白が始まった。
「本当にごめん……あなた達は血が繋がっているの、姉・弟なのよ。エリアのお父さんは邦夫さんなの、秀春君のお父さんなの。知らなかったわ、英邦夫さんが秀春君のお父さんって。養子に行って丸田さんになったんですってね。後を継いでいた奥さんのお兄さんが亡くなって養子になった、途中で姓が変わったこと知らなかった。秀春君ごめんね、お父さんは知らないことなの、私が邦夫さんの子供を生んだことなんか。私は両親を早く亡くして、親戚の家で育てられ、高校出てすぐおたくの取引先の会社に就職してあなたのお父さん、邦夫さんと知り合ってエリアができたの。もう、結婚していたことも知ってのことだった。両親もいないし、どうせまともな結婚も出来ない、と勝手に思いこんで退職して北九州に行ってエリアを産んだの。高校のときの友達がスナックをやっていたので転がり込んで……でも、不幸でも何でもなかった。友達もエリアを可愛がってくれたし、周りの人たちもよく面倒みてくれたの。やがて、うちの人と知り合ったの。エリアのことも可愛がってくれるし、何より私を大事にしてくれた。主人は何も聞かずに話したくなったら話せばいいって、ね、すごく優しいでしょ。邦夫さんのこともすっかり忘れて、まるで無かったことのように結婚した。別府でおじさんの商売を引き継ぐって話があったとき、不安はあった。でも、主人が子供達のために死ぬ気で頑張るって言うんだもの。ごめんね、来なきゃ良かった、本当のことを話して行けないって言うべきだった。同い年の子供がいるなんて、……しかも途中で養子入りしているなんて……英なんて珍しい名字だから、それさえ気をつけておけばいいって油断したんだよ。結婚してからずっと幸せだったからこんな不幸が来るなんて、考えもしなかった。まさか、あなた達が愛し合うことになるなんて。ごめん、本当にごめん、こらえて、辛抱してちょうだい」
と床にうずくまったまま泣きながら話し終えた。
エリアと僕は驚愕に目を見開きお互いを見つめあった。アネ? オトウト? なんだ、それ。三人とも何も喋らなかった。それぞれの頭にカオスがうずまいて、やがて沈黙は破られる。エリアががくっと頭を下げ、足元を見つめながら呟くように、
「なに、勝手言ってるの、自分だけ好きな男の子供産んどいて」
と言ってから、
「こっちは好きな男の子供も産めない上にあきらめろって何なの。こんなに楽しく付き合っているのに、こんなに好きなのに……何でよぉ」
とほぼ叫びながら崩れ落ちた。床に顔つけてしゃべり続ける。
「誰が諦めるもんですか。絶対諦めない。……子供作んなきゃいいんでしょ。そんなもの要らない。秀春がいれば充分だよ、私は」
とすすり泣きながら。
秀春ももう涙がこぼれ嗚咽が洩れ始める。三人が三人とも声を殺して泣いている。
やがて、階下で音がして、エリアの父親と妹たちが帰ってきた。
二階に向かって「ドラゴンのケーキ買ってきたよー」と妹であろう声が。おばさんがいきなりすくっと立ち上がり、「ケーキとお茶持ってくるね」と部屋を出て行った。左手首にロレックスのコンビの腕時計。秀春は気が付いた。母とおんなじだ。父とおそろいだ……、やっぱりそうなんだ。
秀春とエリアは衣服を整え椅子に座る。秀春はこの光景はセックスの最中を見つかった子供達だよな、と思いつつ、さっきのおばさんの言ったこと考えていた。本当かもしれないが受け入れがたかった。
「とにかく帰るわ。何だか一人になって考えたいよ。確かめたいこともあるし」
と秀春が言うと、エリアが刺々しく返す。
「何を確かめるの? あなたのお父さんもお母さんも知らないことなのよ。第一、訊ける?」
「そうだけど……」
「ケーキ食べてからにして。……つまらないこと考えるんじゃないよ。別れないよ」
秀春は頷いたものの、別れる別れない以前に今聞いた話がワケの分からないものでしかない。
「あのさぁ、エリアに玉の輿の話があって、僕らを無理に別れさせようとしているとか、単に僕がおじさんに嫌われていている、くらいで許してくれないだろうか? それなら、駆け落ちでもすれば済む話だけど、法律や生物学の問題というのは……あんまりじゃないか」
と、秀春がボソボソと言う。
「あんたすごいねぇ、こんな時に怒るより現実逃避? 腹立たないの?」
とエリアに呆れられる。やがてクスクスとエリアから笑い声が洩れる、秀春も自分の言ったことながらつられるようにクスクスと笑い始める。二人は流した涙を拭きもせずに肩を震わせて笑っていた。階段を上がる音が聞こえたので、二人は顔を机に伏せ笑いをこらえた。それを見た母親は泣いていると思ったのだろう、机の上に紅茶とケーキの乗った盆を置いて、
「ゴメン、ゴメン、堪忍しておくれ」
と涙声で言って部屋を出て行った。
二人とも何とかこの馬鹿げた笑いを止めたいのだが止まらず、床に転げ落ち、声を出さないようにしながら、腹を押さえてのた打ち回る。あまりの苦しさに、足元を這いずりながら秀春はエリアに腕を伸ばし、助けを求めるように手を握りしめる。やがて顔を上げた二人は止め処なく涙を流しているのに気がつく。秀春はエリアを乱暴に引き寄せ、強引に唇を押し付け口をこじ開け、思い切り舌を入れた。エリアはその舌を力一杯吸い続けた。
当時、大人たちは両家で話しあい、秀春とエリアを包囲した。二人は表向き大学進学の勉強のため、付き合いを休止したことにした。あまりの衝撃にしばし思考停止状態だった二人は従順に従った。
秀春は母親から、もちろん、お父さんが一番悪い。お前は悪いわけじゃないけど、エリアさんの幸せを考えてあげて。父親は何も言えるはずもなく、本当にそうなのかなぁ? などと呟き、母からすごい目で睨みつけられていた。
エリアはお父さんから、お母さんを悲しませないでくれ、もし、君たちが何かしでかしたら、自殺しかねない、と言われる。秀春とエリアは不定期の交換日記をこっそりとやりとりし、情報交換した。交換日記のやりとりのためだけに彼らは学校へ行った。
秀春は受験生の雰囲気をまとい家族との接触を避け、部屋に篭った。
その日も深夜になって共同浴場に行った。この頃の別府は各地区にひとつの共同浴場があり、秀春の住む商業地区では深夜の入浴も可能であった。秀春が誰もいない浴場で湯船に浸かり体を伸ばしていると、引き戸が開き父が入って来た。共同浴場の多くは番台も無く脱衣場と浴場に仕切りもない。秀春の父邦夫は早朝に魚市場に行くためこの時間に起きていることはまずないのだが……。久しぶりにあった父子は会話も弾まない。気まずさに耐えかねた秀春が脱衣場に行き体を拭き始めた。いきなり、邦夫が湯船から上がり、洗い場のタイルの上に正座した。
「すまん、ヒデ。本当に申し訳ない。この年になって昔の悪行の報いを受けてる。しかも、ヒデやエリアさんをこんなに苦しませるなんてなぁ。どうしていいか俺も分からん。今はお前に頭を下げるしかない。本当に申し訳ない」と邦夫が秀春に土下座をした。驚いた秀春は、
「やめてよ、父さん」
「こんな芝居がかったことしか出来んのも情けない。子供の幸せを願うのが親なのにその親がこれだ。しかも、布原の洋子さんや母さんにまで辛い思いさせているよ」
「ねぇ父さん、済んだことはしょうがないよ。こんなことになるなんて誰も想像できないよ。エリアのお母さんもすごく自分を責めていたけど、僕らの出生のことはしようがない。本当は辛いけど諦めなければしようがない、って分かっているよ。だからもう触れないで、このことは」
床のタイルに手をついたまま邦夫が顔をくしゃくしゃにして、その目に涙が一気に溢れだした。帰って寝る、と秀春は大急ぎで風呂場から逃げ出した。
秀春は交換日記を広げていた。そこには相手を必死に求める言葉が並んでいた。秀春の本心だった。存在丸ごとでエリアを求めていた。どう考えても辛いが結論は分かっていた。やがて、決心をした。関西の大学に行こう、この町を出よう、一人になろう、東京に行くのはよそう。とにかく、離れなきゃ忘れられない、見えないとこに行こう。秀春特有の思考回路で取りあえず、逃げる、という選択をした。
エリアは本当にいい女だ、東京ならすぐにすげぇいい男と出会えるはず、自分のことなんか忘れるよ、本当の幸せを得るべきだ、エリアにはその権利がある、などと交換日記に書いた。それっきり、日記は戻って来なかった。
学校で会えばひりひりする心を隠し、勉強しているか? 英語は何点だった? とか普通を装った。秀春は勉強時間がもったいないと、バス通学を止め、自転車通学を始めた。バス停がエリアと一緒だった。
当時を振り返ってエリアが言う。
「丸田君のストイックな態度見て、私も忘れよう、って気になった。最初は毎晩泣いてた」
「そうさ、人生で一番真面目な時間だったな。でも、君が男と話しているだけで嫉妬に燃え狂った」
「そういえばあの頃、丸田君もててたよね。流布奈って覚えてる? 胸の大きな可愛い子、あの子が付き合ってないんなら、告白してもいいかって言ってきたの。私どうしたと思う? いいけど胸でかいの嫌いなんだよアイツ。ほら、私なんか胸ないのと一緒だよって言ってやったの。すごく悲しそうな顔して行っちゃったんだよね。惜しいことしたね」
「お前、マツと一緒に京都に来てたずねてきただろ。辛かったなぁ」
「あれね、マツにはひどいことした。丸田君がどうなってるか知りたいばっかりにマツと付き合っちゃたの。あの後、丸田君のマツへの手紙こっそり読んだのがばれてねぇ、それで、マツが怒ってねぇ、それで別れた。でも、その後マツは東京でしおりに偶然会って、少しずつ付き合い始めたの。しおりは素敵な人、そのうえ本当にいい人でマツを心から愛していたと思う」
「そうだね、今日もあまり気丈にふるまうので辛かったぁ、子供達もきれいでしっかりしているねぇ」
「姉弟同士で慰め合っているのを見て、泣けちゃった。……幸せだったよねぇ」
「うん、……結婚式に呼ばれたとき、マツにしおりさん相変わらずいい女だねぇ、て言ったら、朝晩やってます、だもん」二人とも軽く手を合わせマツの冥福を祈る。
「僕はねぇ……、笑うなよ、大学入っても一人でする時はの相手はいつもエリアだったよ」
「はは、……ありがとう、うれしいなぁ」とテーブル越しに顔を寄せてきた。唇と唇がほんの少しだけ触れた。秀春はエリアの手を上から握る。エリアは掌を上に向け僕の手を握り返す。
切なくなってしまい、気持ちを振り払おうと立ち上がり、帰ろうか、と見下ろす。一瞬だが実家に誘おうかと考えた。その時、エリアが携帯を開いて、
「わぁ、ねぇ、もう一時だよ。明日会議でしょ、丸田君。私も妹んとこ泊めてもらうのに遅くなっちゃった」と終わりを告げた。
会計を済ませて店を出ると、人通りの絶えた西法寺通りでエリアは秀春を待っていた。
両手を広げ近づいて来ると、
「今日はありがとう。本当に好きだったよ、私の弟」と秀春を抱きしめた。
秀春も少しだけ力を入れてエリアを抱きしめる。何か言わなきゃと頭が廻り始めた頃、つかの間の抱擁は終わり、エリアは後ずさりして、
「おやすみ、また、明日ね」
秀春に背を向けて走りだした。彼女の背中に向かって、呟く。
「姉さん、いつでも、いつまでも、大好きだよ」
まるで、聞こえたかのようにエリアが手を振った。
エリアは人通りの少なくなった西法寺通りを一度も振り向かずに走り続ける。彼女の姿が駅前通りの角を曲がるまで、秀春は見ていた。