刀と矛盾
前作『刀と因果』の続編に当たりまする。
しかし、順不同でも読めますのでこれがお気に召しましたら是非に前作も御賞味下さい。
歩けば鳴く音、佇み寂れる木偶の如し
――ギッシ、…ギッシ
――ギッシ、……ギッシ
踏んでも踏み切れないほどの深さに積もる湿った雪。押し退け、踏み潰し、掻き分けていく。雪の上を歩くとはこうも難儀なことであったか。歩を進めると雪が足元で音をあげる。軋むような、耳にしつこく残る音だった。
潮風に煽られた厚ぼったい雪が翻り翻り、横殴りに頬を叩いて止まない。
――囂々と、おごめき淀む海原は霞むほどの雪塵で白く煙った荒野の隅を唯ひたすらに洗っている。
己は、吹雪を纏う台風の目の中にいるようだった。
自然の全てが荒々しく激動している筈なのに、全てが閑散とした静寂に包まれている気がする。近くで――いや、遠くでだろうか。唸りをあげる旋風にも深々とした寂寞を覚える。いつか、寒さから来る震えも忘れていた。
積もる雪は深く一歩踏みしめると足は膝まで雪に埋まってしまう。己は極寒の中で一人、新雪から棒になった足を引き抜いてはまた突き入れるを繰り返すこと5日目にして遂に精魂尽き果てたのだった。
越後国につながる北陸道に、親不知と呼ばれる道がある。その不穏な名の通り、荒波と断崖に挟まれた細く険しい難所中の難所である。旅人はこれを避けて通るに越したことは無いのだが、この地帯で冬においてはそうも言ってはいられない。というのも越後国はそびえる飛騨山脈に遮られており、冬場は吹雪も凄まじく峠の道は雪深くに埋もれてしまう。かといって山脈を回り込むにも道程は遥か遠のくばかり。
そんな時に、だと云う。旅路を推敲する旅人の頭へ、ふと魔が差したように『親不知』という地名が浮かぶのである。何、山の吹雪に比べて見れば冬の潮風なぞ恐るるに足らず、引き潮の時を行けば沿岸の道も楽であろうと。ここで既にその旅人は半分地獄に足を踏み出していると言ってよい。それは何ゆえか?
半分地獄に云々の言葉を例えと受け取ること無かれ。親不知を通ると言い残して旅立った者の殆どについて、その行方は彼らの親でさえ永遠に知り得ることがない。大方この荒波の底で、己が命の軽率な扱いを悔いていることであろう。怨嗟渦巻く死人色の海は、今日も曇天の下に満ち満ちている。
――ギッシ、………ギッシ
――ギッシ、…………ギッシ
己は鼻水も凍りついたままに痛々しい行軍の跡を振り返った。右手に鉛色の海の轟く寂しい沿岸には点々と己の足跡だけが続いている。親不知のあるらしい崖沿いの旅路は一向に見えてこない。乾いてひび割れた唇から、己らしくも無いのだが恨み事が舌の先をつく。まあ、こうも険しい道のりを歩いてきたのだ、世迷言の一つや二つ、どうして口にして悪いことがあろうか。いづれにしても文句は己に帰るのだ、決断に悔いはない。――と、自分の物言いを正当化するために、何度も繰り返し言い聞かせてきた覚悟を頭で反芻すると、いつの間にか目の前の不条理に対するやり場の無さも失せていた。いつだって、こうすれば己は受難に耐えられた、忘れられた。自分はこの世の延長線上に立っているのだと、信じているからこそ。
――どうして己がこんな場所に居るかと云うと、話は暫く前に遡る。
徳川と石田の覇権争いが表面化し、いよいよ緊迫した睨みあいが続くようになった頃、久々に空も晴れ渡った晩秋の昼前であった。例によって己はとある屋敷に召喚され、駆り出された猫のように奥座敷で縮こまっていた。その真向かいには、鶴の様な痩躯を畳に鎮座させた初老の男。
ここに己がこの男に呼び出される理由は一つ。『十剣聖』についての件であろうことは容易に想像がついていた。
――ギッシ、ギッシ
―――ギッシ、ギッシ
木の擦れる音を立てながら歩くのは背丈一寸程の茶坊主である。一畳離れた所から、こちらに向かって来る。両手に抱えた小さな盆の上に載っている湯呑からフワフワ昇る湯気が、茶坊主の白粉で固められた童顔を撫でていた。
「――刮目が過ぎるぞ、阿倉。そう簡単に心を乱すのは剣客として頂けぬな」
「左様で御座います。しかし、この奇妙な人形は?」
「これは南蛮渡来の絡繰の人形ぞ。対馬から貿易品を仕入れてきた商人から買い取ったのだが、なるほど中々面白い代物だろう。盆の上に茶を乗せると歩いて運んで来よるのだ」
「ほおほお、奇妙ですが非常に興味深いものです…。成程これなら絡繰が全部やってくれて、本職の茶坊主の手も要らぬという訳なのですか。すると絡繰のお陰で暇になった茶坊主は、日頃この屋敷で酷使さるる日常を一時だけ忘れ、部屋で茶でも飲んでいられるのですな。――そして茶坊主は台所で茶を煎れながら気付く、『何も変わっていないじゃないか』と」
「…そなたの物言いが少し引っかかるが今回に限ってだけ敢えて無視して、その下らぬ問答に答えて進ぜよう。茶坊主の行為自体は変わらぬが、その目的、つまり儂への奉仕の為か、自身の休息の為かが異なる――、とは一般論であろう。しかし考えてみよ、儂に奉仕するのが茶坊主の仕事であり、仕事をするのは儂に奉仕することで賃金を得られるからである。その賃金は生きる上での『快』に費やされる。では、もう一方はどうであるか。――何ら変わらぬ。それと同様に茶坊主が自身の為に茶を運んで来るのも、生きる上でのささやかな『快』の為であろう。経路が違えど辿りつく本質は変わりない。道具とは、目的の為の近道なのだ」
「成程。所でそれは茶坊主にとっての絡繰の存在意義ではありませぬか? 道具が近道であるならば、貴殿にとっての絡繰とは何の為の近道なのです」
「ふむ、簡単なことだ。茶を運ぶ仕事の無くなった茶坊主はただの坊主に過ぎんではないか。ならばわざわざ賃金を取らせてやる道理がない。暇を出されたくないのならばその分、便所掃除に磨きをかける便所坊主にでもなるがいいのだ。こうして儂の屋敷はさらに清廉となる」
「案外、懐が狭いのですな」
「…言った筈だぞ。そなたの妄言に対して敢えて無視するのは先の一回だけだと」
「御無礼つかまつった」
「気を付けるがよい。命は儚いぞ」
「……。 ――しかし一体、この絡繰の中はどんな仕掛けになっているのです」
話し紛れに茶を運んでトテトテと歩いて来た絡繰人形を引っ手繰ろうと手を伸ばすと、それを遮るように男は言葉を継いだ。ほんの僅か言葉の調子が早いのを見ると、絡繰には余り触れられたくない様子だった。案外この男は小心者なのかも知れない。
「絡繰はもうよい。話し相手にそなたを呼んだのではないのだぞ。――阿倉よ、そなた午莉阿手という男を知っておるな」
蝋燭の火の下、一枚の書状に目を落とした男が低い声で己に問うた。彼の人の名は轆轤 十字、筑前国の小早川 秀秋が右腕とする筆頭格の家臣であった。轆轤は絡繰人形が運んできた茶を手にして湯呑に一度息を吹きかけるが、そのまま飲まずに置いてしまった。
「午莉阿手。無論、存じて居ます。十剣聖の一人でしたか」
己がそう答えると、轆轤は微かに頷いたような仕草を見せた。あるいは刹那の睡魔に負けて頭を垂れただけであろうか、己には判別付かなかった。――が、依然話は続くようだった。
「…この者の居場所が分かった。早々に立つ準備をするがよい。用件は言わずもがな、剣聖の招聘であるぞ」
己は絡繰人形へ伸ばした手を未練がましくも引っ込めた。部屋の空気は収縮するように緊張していく。
――まず、話の折に出てくる『十剣聖』をここで掻い摘んで説明しておく。十剣聖と呼ばれる彼らは、各々たった一人で一国を滅ぼし得る規格外の実力を持った剣客10人のことを指す。そしてその人物たちの名は、先ほどから轆轤の眺めている書状に連ねられていた。
木地 忘年斎
紅達磨 端倪
今帰仁 不如帰
左 室町
恐山 天烈
兎角亭 胡蝶
百笑 不明
午莉阿手
鳥海 双左衛門
病葉 祇園
して、本題。強大な戦力となり得る彼らの一人でも自分の陣営に引き込もうとするのが当然、各国の大名達は血眼になってまで彼らの元へ密使を送り、天下分け目の戦いに向けてその力を充てにしようと目論んでいた。しかれど未だ、どの大名も十剣聖の誰か一人でも召抱えたという話は無い。どころか、送り込んだ密使を死体で返されるのが珍しくもないようであり、始めから乗り気でなかった穏健派、つまり制御しきれぬほど強大な兵力である十剣聖に頼ることを良しとしない者に到っては、これが野にいる虎を金銀で手懐けようとする無謀な試みであると声を大にして憚らなくなっていた。
その中で己が先月、ここ筑前国へ十剣聖が一人の女剣士、左 室町を連れ帰ったのは多くの国に衝撃を与えたようだった。剣聖を抱え込んだという事実の与える反応は凄まじく、徳川は小早川公に三度も密書を送り加勢を催促するほどである。これを『一目置かれる』というには、余りに言葉が軽すぎる。
「して午莉阿手の居場所は?」
「越後国の親不知。何ゆえにあのような地に居るかは分からぬが…」
轆轤は一端言葉を切り、己に蔑むような目を向けて言った。
「――その理由を探るほどの『理由』はない。儂の言わんがすることを分からぬそなたでは無いだろうがな、下らぬ感傷を起こし、ゆめゆめ任を蔑にするでないぞ。例え『理由』があろうともな」
「それはまるで、己が情に流されやすい人間だと仰られているように聞こえますが?」
「事実そうであろう。そなたは父親の仇である下手人が十剣聖のうちの誰であるかを突き止めようと、まさに執念に操られ生きておるのではないか。そなたは普段は冷徹そうにしておるが、その実、平凡な弱さに苛まれておる。弱きものは弱きもの同士で傷を舐め合う。先回の、左 室町の件がそうだろう。違うか?」
「平凡な弱さ、と? 轆轤殿、では問いましょう。貴殿は何ゆえ小早川公にお仕えなさるのです? この世の身の振り方は、己が情と直結するものです。義や忠あれど、それは人の為あらず。忠義に篤く高潔にありたいと自分自身に願う、これも貴殿の云う『弱き情』でありましょう。あれが彼女の決断であった以上、己は何も申し上げることはありませぬ」
「…おぬしの言うももっとも、儂であっても動くのは情だ。しかれど、その情を他人にまで掛け違える愚行だと言っておる。情が幅を利かす範囲は己が身一つ限り。例えそれが親兄弟であろうと、だ」
「無論。だからこそ――
「それは否。そなたは左に情を掛けていないと言うがな、それは断じて否であるぞ」
「…と言いますと」
「気付かぬ振りをするでないぞ。奴の弱き情を尊ぶことそれ自体が、弱き情なのだ。理由に踊らされたか、阿倉 伝奇よ」
「……」
「『情』は共有できぬ。が、『目的』はその範疇ではない。我々は目的を同じくした協力関係にあるのだ。儂はそなたに十剣聖の居場所を教えておるからには、そなたには儂の計画に乗じてもらわねばならん。そして徳川と石田を出し抜いた後には、十剣聖などという『刀』は不要、そなたが仇打ちでもなんでも好きにするがよい。そういう約束であった筈であるぞ」
「…重々承知」
「ならば今は儂の命に従うのだ。理由の如何に因らず、情を挟まずな」
「…しかし、戒めの訓示と云え轆轤殿が感情論を語るとは珍しい」
「感情論だと? それは思い違いというものだ」
そう言って、轆轤殿は骨ばった手で無感情に絡繰人形を愛撫した。しかしその間中は彼の目がジッと己を捕えていた。
「…では早々に立つ準備を整えて参りまする。任の間、サキのことはお気になさらず。以前のように己がいない間、轆轤殿の屋敷で妹が世話になるのは面目ありませぬ。女中を一人雇いましたので、その者が家事やら妹の面倒を見てくれるでしょう。まだ、彼女らの仲が良くないのが気がかりではありますが…」
「ふん、よもやその女中……いや、よいわ。興味もない。しかし儂の妻や便所坊主もとい茶坊主共はそなたの妹君を大層気に入っていてたようだったゆえ、屋敷に来ないとなれば残念がるやもしれぬな。……まあ兎に角どうであろうと、そなたは任に集中するのだ。そなたの一挙一動に国の命運がかかっていると思え。そして、そなた自身のもな…」
「――ははっ」
ギッシ、ギッシ
ギッシ、ギッシ
――情が人を動かす? 自惚れも甚だしい、人が人自身のものによって動くものか。
――確かに人を動かすのは情やも知れぬ。
――だが、その情に流される『弱さ』を利用し人を動かすのは又、人であるのだ。
ともすれば、皆おぬしと同じよ。
のう、絡繰の茶坊主よ…。
ギッシ、ギッシ
ギッシ、…………
――雪、雪、雪。
吹雪でもはや一歩も動けなくなろうと言うときに、遠くから犬の鳴く声に交じって人の呼ぶ声が微かに聞こえた。次第に闇を濃くしていく吹雪に目を凝らす。そして間もなく、意外な程に己のすぐ近くから、銃を背に笠を被った猟師らしい男が雪塵を破って現れた。
「お、おい、若いの! 大丈夫かあ!? そんな薄着でここいらを彷徨くなんて、あんた気が狂っとるのか!?」
「も、物は持ち歩かない主義でな……」
「あんた何言っとるッ? ほれ。来なせい、凍え死にたいのかい。この先に狩猟小屋がある」
「かたじけない…。で、ではそこで鍋でも囲んで温まっていくとしよう。 ――そうか。有難う」
「まだ何も言うとらんうちに、図々しいやつじゃのう」
「ふむ。…し、鹿の肉か。どうせ…なら鴨の肉が良かったな…」
「見て分からんか。生憎、ほれ、獲れたのは猪じゃ」
「…やや、これは左殿。どうしてこんな所に…? おお、それにサキ、轆轤殿まで。鍋を囲んで、何をつついておるのですか……。な、なんと…! 野菜ばかりで己の分の肉がもう殆ど無いではないですかッ…!?」
「――む。こりゃいかん、ずっと幻覚を見とったのかッ! 起きろ、起きろ! これ、雪を喰うな」
薄い木の板で囲われただけの狩猟小屋。己の意識がはっきりしたのは翌日の明朝の頃、外の吹雪も幾分か鳴りを潜めていた。己は猟師と朝から鍋を囲んでいる。塩漬けの菜っ葉と猪の肉が湯気に隠れて沸々と揺らめいているのを、箸で摘みあげた。
「これ、肉ばかり取らねえで野菜も食いなせえ」
「野菜もちゃんと取っているだろう」
「ほとんど肉じゃねえかい。野菜、肉、野菜、野菜でいけ。ほれ、野菜を取ってやるわい」
「ええい、入れ過ぎだ。自分で取る故に助太刀無用、野菜も食えば良いのだろう。ああ食うとも、無論食うとも。――閑話休題これにて終わり。それで、先の話は本当であるのか」
「疑り深ぇ奴だなぁ。これ以上の肉はもう無えぞ」
「違うわッ。午莉阿手が盗賊と手を組んでいると言うことの方だ」
「なんだ、そっちかい。…その話なら十中八九本当だろうなぁ。村に立ち寄る旅人の何人かから聞いた話だ。親不知の近くを根城にしとる向坂 甚平ちゅうな、甲斐の武田家んところの元忍者が頭領やっとる盗賊共とつるんで、旅人から持ち物全部掻っ攫うんだとさ。しかしの、それでも今は親不知の道は前より安全になったわい」
「む? ほう、何故?」
「盗賊は通行料と称して旅人の有り金を巻き上げるんだが、きちんと親不知を無事に通してくれるんだとよ。だから午莉阿手があそこに現れて以来、親不知で命を落とす旅人が居なくなったって話だ。だから逆に親不知を通る人の数が増えてな、その増えた分の通行料で盗賊の懐も随分と温まったてるんだとよ」
「ふむ。しかし妙だな。いくら金が集まるからといって、剣聖が盗賊如きに手を貸すだろうか…」
「さてなあ、剣聖といえ人の子さね。金に目が眩んだんだろうさ」
「うむむ…」
「おおう、そうじゃった。言い忘れていたがの、今は親不知に行かんほうがええぞ。越後の殿様がな、盗賊共をひっ捕らえるのに、結構な人数をこっちに寄こしたんだと。戦ほどじゃねえかも知れねえが、しばらくは物騒そうだ。俺も昨日それを聞いて、急いで村に戻るとこじゃったんだ」
「越後国か。名目上は盗賊の殲滅だろうが、きっと目当ては午莉阿手であろうな。色々と気になることもあるが、これは急いだ方がよいかも知れぬ。万が一、他国に先を越されたとなると己の身も危ういしな…」
「お前さん、ここまで聞いても親不知に行こうってのかい。悪い事は言わねえ、どんな理由があろうと行かねえほうがええに決まっとる」
「――無論そうだ、とは言い切れん。命を蔑にするつもりはないが、生きる為に命を惜しむなんて己には出来はしないのだ」
「ははあ…。さも勇ましい口ぶりだがな、おめえにも親御さんが居るだろう? 親心ってもんを分かってやろうとは思わんのかい」
「親は、死んだ」
「……だからってお前さんまで死にに行くこたあ無いだろう」
「死にに行く積りは無いのだがな。ま、生きる理由は死ぬ理由にもなるということでは何事も大差ないか。――さて、吹雪も止んできたな。己はそろそろ出るとする。恩になったな」
「ふん。気にするない。俺の息子もお前さんと同じようなこと言って戦場に出てったから気になっただけさ。お前さんを雪原で拾ったのも、そんなような理由さね。生きて戻ったら、村に顔出しな。おいらの息子が武勲を立てたときに呑もうとしてた飛びっきりの酒が丸々残ってらあ」
「……肴は鍋だ。ちゃんと鴨の肉を、肉、肉――
「野菜、野菜、肉、それで野菜の順で喰いな」
そして猟師は顔にサッと影を落とすと、碗にあった鍋の出汁をすすった。
己は目礼して、小屋を出た。これ以上ここでグズグズしていると、己はこの猟師と長く居すぎてしまう。
鉛色の空の下、己は自分を自嘲するように笑っていた。心が痛む、と云うのは言い過ぎだが、確かに轆轤の言うように己は『弱い情』に苛まれているらしい。
雪で顔まで埋まっている地蔵が親不知の道に迫る波飛沫の向こう側、うねる海原を見つめている。
「ここが親不知か。…む、これは――死体か? 胴やら脚やら、粉微塵に散らかっているが……雪に埋もれているのもあるとすれば50や60どころの話ではなさそうだ。この武具と旗印から見て、越後国の堀家のところの兵か」
「ふむふむ、こりゃあ酷いな。ちぇっ、同士討ちかというところか」
「――む。誰だ?」
「ふん。俺に向かって誰だ、とは随分な御挨拶だな。むしろこちらが誰だ、と言いたくもなるがそんな社交性は生憎持ち合わせていない。つまりお前が誰かなんて微塵も興味がないのだが……、お前はあろうことか俺の名を、知らないと言う。ならばならば教えてやろうか、やるまいか。――ふふふ、案ずるな教えてやろう。そう、この俺こそ時代を股に駆ける大盗賊! 深謀遠慮にして大胆不敵の向坂甚平その人なのだッ。驚いただろう。だが俺はもっと驚いている。なんせ暫く留守にしておいたうちに俺が手塩にかけてつくり上げた盗賊団が全滅してたんだからな。はっはっはっはっ!!」
「ぺちゃくちゃと喋ってくれる奴だ。出来れば関わり合いたくないものだが、その饒舌のお陰で話の筋が見えてきたような、見えてこないような…」
「そうかい、だが俺はどこの馬の骨か分からぬお前よりも、もっとずっと話が読めている。俺の盗賊団は越後国の武士共に殺されたが、その武士共はここに横たわっている。さらに、盗賊団の隠れ家に午莉阿手の死体は無かったこと、これほど派手に敵を殺せるのは世界広しと云えど俺か午莉阿手くらいのもの。俺が手を下していないとなれば消去法的に下手人は午莉阿手。ここから分かることはつまり、剣聖 午莉阿手がまだ暴れ回っているということだ。ふ、俺の頭脳を持ってしてこの程度の推察は容易なのだよ」
「頭脳よりも、その台詞量を10秒掛らずに話す口の回りの方が凄いと思うが…。いやそれより問題は、午莉阿手が今どこに居るかだ」
「そんなことは言われずとも分かっている。…にしても、お前は何者だ? お前に興味は雀の涙ほども無いのだが、お前という何者かががここに居る経緯には多少の推察を加えざるを得ない。どうしてこの状況でそんなに落ち着いている? むむ、さては午莉阿手を味方につけて戦で上手く立ち廻ろうとする輩の放った密使か? なるほど、ならば知っているぞ。消去法で絞って絞ってみれば、推察はつく。となれば、屹度お前は筑前の阿倉 伝奇だな。確か妹の名は阿倉 裂記。父は阿倉 原典で、元十剣聖。10年前に父親を何者かに殺され、阿倉伝奇はその下手人を探す為、轆轤十字に協力している。どうだ、驚いたろう。だが、俺の方がもっと驚いている。まさか十剣聖の息子が仇打ちの旅とはな」
「…ぬ。よく知っている。流石は元忍者だな。情報網だけは天下一品らしい。後はそのお喋りな口さえ縫ってしまえば、とうに武田信玄も天下を取っていたろうに」
「いいや、武田信玄を殺したのは俺さ。あの親父、あろうことか俺の口を縫おうとしやがったんだぜッ!? 信じられるか? 信じられんだろうな。だが俺はお前より更に信じられん」
「信じられるかどうか以前に、武田信玄殿の気持ちはよく分かるのだが」
「分かる、だって? 馬鹿だな、気持ちなんて形の無い不明瞭なモノ理解できる筈が無いだろう。形があるから知れるのであって、知られないから形が無いんだよ。だから俺は、何でも知っている。形があるなら、その全てが分かるのさ」
「にしては、あんたの盗賊団が全滅しているじゃないか。全部分かっていたんじゃないのか?」
「分からないことがあるのも分かっていた。越後の上杉が兵を寄こしたのは知っていたが、こっちを全員斬っちまうほどの手練がいたのは意外だったがな。大方それが誰か予想は付くが。ま、午莉阿手を倒せるほどの人間ではないだろうがね。だから別段、盗賊団が壊滅しようと損害という訳でも無し。下っ端の雑兵なら幾らでも集められる」
「…どうして、十剣聖ほどの者が盗賊と手を組んだのだ?」
「理由が必要か? そうだな、教えてやろう。それはな、俺は駒を動かす側の人間だからだ。例えばそう、お前のところの轆轤十字のような、な」
「答えになっていないな」
「答えていないからな。…おや、地響きがするな。これは……ひょっとするとマズイかも知れない。いや、知ってるが」
「ムッ! なんだッ!? ――や、土砂崩れ……いや違う、山が割れた!?」
「全く無茶をするよ! 地形を変える気かね」
土砂や雪と木が根こそぎ、まさに山そのものが崩れ落ちる。己は越後国の方へ、向坂はその逆に避けた。己らが先ほどまで立っていた場所はあっという間に土砂に押しつぶされる。この破壊力が剣聖の規格外の力であることは明白、しかし果たして午莉阿手は誰と戦っているのか。
その答えはすぐに知れた。
土砂や雪の中から、這いあがる者が居たのだ。午莉阿手の一閃を直撃だけは避けたのだろうが、余波を喰らってここまで吹き飛ばされたらしい。手には刃こぼれのした刀を、赤い甲冑は紙きれのようにズタズタに引き裂かれて、もう意味を成していない。そんな恰好の若い武士が、「午莉阿手、流石は剣聖だ。しかし――」と紅い唾を吐き捨てたのだから。
巻き上がった土煙と雪煙りに目を凝らし、己が様子を窺っていると分断された道の向こう側から、向坂の声が聴こえてくる。奴はどうやら己とは逆方向へ回避したらしく、閉ざされた道の外に居た。
「剣聖と一瞬でも渡り合える武人。そして今、越後で動き回れる人間。となれば、俺の推察によればその武士の名は――、冨田 与奪丸 だな。それならば――いや、そうに違いないが、俺の盗賊団が滅ぼされたのも頷けると言うものだ。しかしなあ、あの剣豪 冨田重政の隠しだねが他国の傭兵として使われるとは。同情するぜ。どうだなんなら、俺の部下として使ってやってもよいのだぞ? 父親を超える才能を持ちながら妾の子だからと言って後の世に名前も残せないのはさぞ悔しかろうよ」
すると、冨田与奪丸はあからさまにその言葉がカンに障ったらしく、吐き捨てるように土煙の向こう側にいる向坂に言い返した。
「――どこの誰かは知ぬが、私は貴様のように主君に刃を向けるような真似は死んでもする積りはない。例えこの名が当代で潰えようとな」
「ウンウン、御立派な心構えをお持ちだ。ますます欲しくなったぜ。もし俺が一仕事終えてまたここに帰って来た時、お前さんがまだ生き残っていたら俺の第一の家臣にしてやろう」
「――失せよ」
冨田の言葉通りに、いや言われるよりも前に向坂は自分の言いたい事だけ言うと何処かへ去っていったようだった。冨田は次に、己にチラリと目をやった。
「それで、貴様は何者だ」
「…阿倉 伝奇と申す。無論、向坂の手下ではない」
「左様か。ならひょっとせずとも、お役目は私と同じか」
「――と言うと?」
「回りくどい男だ、貴様も。だが詳しい話は後でだ。私と貴様はしばしの間、共闘関係」
「む。まてまて、己は午莉阿手とは平和的に交渉する積りなのだ。勝手に巻き込まれちゃ――
己が言いかけの所で、言葉を呑み込んだ。
肌が粟立ち、体がカッと熱くなったと思うと一転、急に凍りついた。殺気とは、こういうものを言うのだろう。後ろへ飛ぶ。いや、飛ばなければならない。死が迫っている。直感で己が刹那に飛び退き逃れた空間が爆ぜ土埃があがる。あと一瞬遅れていたなら一帯の雪は己の血で真っ赤に染まっていただろう。
「――ッ!!?」
「ほう、よくあれを見切った。やはりどこかの国の密使だな。かなりの使い手のようだ」
「冗談じゃない。剣聖とやり合うなど、正気の沙汰でないのだぞッ」
「一端退こう。貴様も午莉阿手に狙われたのだ。グズグズしているとあっという間に御釈迦様とご対面だぞ。挽肉になってな」
「む、誰のせいで――!」
「こっちだ。幸い土煙に紛れて逃げ切れるやもしれん」
崖沿いの洞窟。凍てつく空気は湿っぽい。そこに冨田 与奪丸の声が響いた。まだ成人もしていないのか、前髪も残している。寒さからか頬を赤く染めた様子はそこらの女子よりも目をハッとさせられる。きびきびした口調なのだが声変わりがまだなのか、そこに子供が背伸びをしているような、いじらしさが生じてしまう。いかん、いかん、己はそんな趣味は無いのだが。
「不本意ながら、闘いに巻き込んでしまったのを詫びよう。その代わりと言ってはなんだが、私がここまで来て知れたことをお教えしよう」
「なんだ? 実はあんたが女だ、とかか?」
「く、下らぬことを言っている場合かッ、午莉阿手についてのことだ! ――コホン……で、だ。私が知り得たというのはだな、午莉阿手は海の外より来た、紅毛の類なのだということだ。故に言葉が通じん。或る村で捕えた耶蘇教の法師にも通訳させたが、それでも言葉が通じなかった。そうするところ、やつらの中でも言葉の種類は沢山あるらしいな。…要は私が言わんとするのは奴に説得は不可能だということだ。残念だが、貴様の任は諦めた方がよい。そしてもう一つ、奴を飼いならしている向坂という盗賊が、午莉阿手を利用し次の大戦で徳川と石田を討ちとり、一気に天下取り争いに参戦しようとしているということだ」
「――! それはにわかには信じがたい、増長し過ぎた野望だな。しかし、奴のあの情報網といい午莉阿手の力といい、確かに警戒しておいたほうが良いかも知れんな。しかし、向坂は一体どうやって午莉阿手を仲間に引き入れたのだろうか。そもそも午莉阿手は何処から……?」
「午莉阿手が何処から来たかは知らない。しかし今より数年前には既に剣聖として名を馳せていたから、秀吉公が朝鮮に手を伸ばしたあたりの頃に、この地へやって来たのだろうな。そこへ向坂が来て、奴はどうやら午莉阿手の言葉を解し、言葉を交わせるらしい。それで午莉阿手と向坂はなんらかの約束をし、今に到るのだと。そういう話を盗賊団の幹部が洩らした」
「一体、向坂は午莉阿手に何と言って説得したのだ?」
「さあな。かなり強い盟約を交わし向坂に奉公を誓ったようだが、それを聞き出す前に午莉阿手が現れて、敵諸共こちらの手勢は皆やられてしまった。我ら越後国の主も、午莉阿手を手に入れるために兵を送り込んだのだが、説得は不可能。逆に向坂を捕えようにも奴は武田軍の元忍者。そう易々と捕まってくれん」
「…だが、剣聖を討つのは向坂を捕えるのよりも不可能だ」
「一人ではな。だが、貴様と協力すれば不可能ではないかも知れない。自惚れではなく、私は強い」
「いや無理だ。そういう次元じゃない。あんたも奴と向かい合ったなら分かるだろう」
「ええい、やってみる前に無理だの不可能だのッ、それでも男か貴様!」
「生憎だが己は男だ女だなんて下らぬ驕りは持たない。モノは持ち歩かない主義なんでね」
「ふん、侍の風上にも置けぬ奴! よかろう、玉無しの助けなど借りぬ。私一人で見事、午莉阿手を討ちとってみせよう。そうだ貴様とは元より国が違う敵対関係。もし私が午莉阿手に勝って剣聖になっても、貴様の国には絶対に行かぬからなッ」
「ご自由にどうぞ、己とて貴様のような女男は御免だからなッ」
「言わせておけばこの下郎ッ! 今ここでどちらが無能か証明してもよいのだぞッ」
「――ま、待て…!!」
「どうした? 急に怖気づいたか」
「もしかしてあの、向こうの砂浜に立ってこっちを見ているデカイのは午莉阿手か…!?」
「む、もうここまで嗅ぎつけたか…!」
「紅毛は皆あんなにデカイのか」
「いや、流石にあんなに大きな奴なかりではない……だろう」
「腕の長さだけで己の背丈くらいあるぞ…」
「それを言うなら、奴の脚は私の背丈をゆうに超えてる…」
「……」
「…よし、行くぞ。私に続け!」
「な、己は行かぬと言ったろうが」
「私が剣聖になったらお前の国にも加勢してやるから」
「それこそ取らぬ狸の何とやらだ…! ――しまった、午莉阿手に完全に気付かれた! ええい、こうなれば致し方ない、か!!?」
咆哮と、地響きが止んだ。どうやらようやく諦めてくれたらしい。既に夜も更けている。
「ハッ、ハッハッ……。ぐう…阿倉。け、怪我は大丈夫か?」
「フ、フゥ……。う、うむ。直撃は何としてでも避けたから酷くはやられずに済んだ。だが奴の攻撃を避けたときにその風圧で飛ばされて地面に背中を強か打ってな、今日はうつ伏せに寝ないと悶絶死するだろうな。…それと、奴の咆哮で左の耳の鼓膜が破れたらしい。耳から変な液が出てる」
「く、私は正面から斬り掛った時に奴の指にかすって、さっきまで胃の中の物を全部吐き出していたところだ。…ううっ」
「しかしよく小太刀であんな化け物の正面に立てるな。闘っている最中は太刀捌きの妙で小太刀が長物に見えたり、流石としか言いようが無かった。しかもその後、奴の足元に斬り込んだかと思うと一気に顎まで斬り上げたあの技は見事だった。一瞬、いやまさに刹那の神技だ」
「う。そ、それは誉めすぎだ……。ちなみにあの技は顎を断ち切った後にうなじへ小太刀を突き立てる技なのだが、午莉阿手の顎を斬ろうとした時、既に刃が曲がってしまっていたから技を完成させられなかったのだぞっ」
「是非とも完成した技を見てみたいものだ」
「――む。阿倉がそこまで言うならいつか見せてやらんでもないがな…。コホン、いやそれより、阿倉の居合も早かった。目で追うのが精いっぱいだったぞ。それに、三本の刀を使ったあの剣技はなんだ? まるで詰将棋のような技巧が凝られた技だったが」
「いやいや、逆に斬りにいった剣が午莉阿手に尽くへし折られてギョッとしたさ。先の先まで技が見切られていて、力押しだけと思っていたら奴め案外頭も回るらしい」
「だが午莉阿手も午莉阿手だ。今日一日で随分とこの辺りの地形が変わった筈。山が3,4無くなって、平地だった場所が今や渓谷だ。奴は創世代の神か何かか」
「武器を持たないのではなく、午莉阿手の体全てが武器なのだ。武蔵の土地に伝わる或る流派の奥義で『徒手空剣』という、自分の四肢を刀や槍の様に扱ってしまう技があるらしいが、奴のはそれに似ているな。だがあの身体能力は規格外、あんな図体が丸々凶器では迂闊に近づくことも叶わん。奴が戦場に出れば一騎千頭なんて言葉すら生温いだろうよ」
火を囲う薪が、己と冨田の疲れた顔を照らしパチパチと音を立てている。暫しの沈黙があって、冨田が口を開いた。
「く、確かに奴は強い。化け物どころの話では無い。まさか矛盾した存在が、いや言葉通りの『矛盾』がそのままに収まっているとは」
「絶対に突き通す矛と、絶対に突き通されない盾。それらが一つずつ世界に在るならば互いに相容れないだろう。だが、矛と盾が同一のものであるなら、矛盾は生じない。全てを突き通す矛でありながら、全てを突き通さない盾でもある。それが、午莉阿手自身の存在か」
「――勝機は限りなく薄い。奴の体は刀を通さない故、斬り伏せるのは不可能。加えて奴の攻撃はどうあっても防げない。あれを凌ぐには避けるしかないから、どのような状況からでも一撃でこちらが即死する可能性は極めて高い。今日、二人とも死ななかったのも奇跡だ」
「……」
「やはり向坂を捕えるほうが、まだ現実的だろう」
「いや、午莉阿手にも必ず弱点がある筈だ。どんなに強大な者でも、完成した存在なんてありえない! 現に、午莉阿手がいくら必殺の攻撃を繰り出そうと、我々はそれを回避して生き残った。そうだ、奴は自分自身の体が武器なのだから、いつか屹度、体力面でボロが出てくるに違いない。持久戦に持ち込んで、弱らせ動けなくさせれば……!」
「まさか、これから全て今日のように上手くいく、なんて本気で思っているのか? 一発でも当たれば終わりなのだぞ。時間をかければ不利なのはこちらだ。それに持久戦にして、己ら二人の体力が午莉阿手に匹敵すると確実に言えるのか?」
「そ、それは…」
「…いや、今更どうこう言っても遅いか。親不知の道は今日の戦いで土砂に埋もれてしまい、筑前に帰ることも出来ん。と言って、このまま越後のどこぞの国に逃げようと、午莉阿手は追って来てその国ごと滅ぼすだろう」
「…く、ならばここで諦めると言うのかッ!」
「無論、そんなことを言う積りは無い。斬り合いの決闘では勝つのは不可能、こちらが死ぬ確率は常に八割程だから持久戦に持ち込めば、遠からずほぼ確実に負ける。もとより己らに勝てる見込みなどない。しかし持久戦でなければせめてもの引き分けにすら持ち込めない。だから、試せることはすべてやる。毒でも、兵糧攻めでも、なんでもだ。決闘に勝てなくとも、勝負で勝たなくてはならない。いざとなれば策謀を凝らして真冬の海に突き落としてやろう」
「むう、しかしそれは武士として納得しかねる…」
「言うな。ならあんたは昼の間寝て、夜に午莉阿手と戦うことだ。己が昼に、あらゆる手段で午莉阿手と闘い、夜はあんたが夜霧に紛れて正々堂々奴と闘う。交替で絶え間なく攻め続ければ確実に午莉阿手は疲労するし、勝機は高まる」
「う、うむ…」
「しかし、忘れるな。一歩間違えれば――いや、一歩間違えなくとも己らは死ぬかも分からんのだからな」
「む。武士が、死を恐れるものか」
「……ま、あんたがそれなら別にそれでいい。己は寝るぞ。あんたは今夜から夜襲をかけるのか?」
「勿論だ。むしろ今夜中に奴を片付けてしまうかもな」
「……Zzz」
「なっ! も、もう寝てるだと? …ったく、茶々を入れるなら最後まで入れろよな。――ふう、では行くか…! 見ていてください母上。必ずや午莉阿手を討ち、父上に我らを認めて頂きますから…!」
――午莉阿手。
その体、雲に届きし巨岩の如し。脚は大木の幹より太く、剛腕は鞭の如くしなやか。襤褸切れを羽織っただけの全身は光りだしそうな褐色である。落ち窪んだ眼孔に碧眼あり、山脈を思わせる鼻筋は太く高い。その表情は如何なる時にも変わること無く、時折ぐわと開かれる口から獅子も怯える程の咆哮が突如叫ばれ、心臓に悪い。彼の者の頭髪、黒々とうねるこの荒波に似る。
――と、まあこんな所か。
己は崖の上で獲物がおびき出されるのを待っているついでにその者の特徴を思い返した。異邦人らしいが、この男がどこから来たのか、何故この地に行き着いたのか見当もつかない。言葉も通じないので、すべてが謎に包まれたままだ。
闘いが始まって早十日、未だ己と冨田は無謀な挑戦を続けている。己らが毎日昼夜を問わず奇襲しているのだが、午莉阿手の機動は一向に衰えず、逆にこちらの方が疲労困憊の気色は隠しきれないでいた。
「――む。現れたか、午莉阿手」
「――」
「相も変われず、元気そうだ。昨夜は冨田に53太刀入れられたそうだが、傷一つない綺麗な肌だな」
「――」
「どうした、来ないのか。ならばこちらから逝くぞ」
己は刀を抜いて駆ける。吹雪は横殴りに、粉雪は暗い空へ煽られている。
――走りこもうとした所へ、午莉阿手の右手が風すら裂いて振り下ろさた。積りに積もっている雪面が同心円状にせり上がり、凄まじい轟音と共に飛散した。だが無論、ここで潰されて終わるような己でなし。その時己は走った勢いを殺す為に脚を踏ん張って無理やり跳躍し、寸前で午莉阿手の一閃を避けると、そのまま午莉阿手の右手に降り立ち腕の上を駆けあがった。
「――シィッ」
午莉阿手の顔、その目に向かって二段突きを放つ。が、切先は瞼に阻まれた。まるで鋼と鋼が打ち合わされるような堅い音が響き、「やはり無理か」と思うよりも前に視界に午莉阿手の左の拳が己の体へ襲い来るのが見えた。後ろへ目いっぱい飛んで回避するも、受け身をとれる余裕などない。己は雪の中に転がり、前後不覚に立ちあがる。
悪寒。
そして、直ぐ前に、死の拳――
「――ッ!! 否剣『因果点』!」
因果を断つ剣技。十剣聖の一人であった左 室町の神技の、写しだ。彼女ほどの力が無いにしても或る程度の因果関係ならば断ち切れる。
刀で斬られた瞬間、午莉阿手の拳から『撃ち込む』という意思の因果が断たれると、速度が失せその腕は一瞬で静止する。鼻先に指が触れる寸前だった。しかし己の刀もまた、因果を殺す前に午莉阿手の拳を斬ったという前提条件の為に刀身は粉々に砕け散ってしまった。午莉阿手の矛を防ぐことは不可能であるからだ。
午莉阿手は己の放った不可思議な剣技に、一瞬その目に感嘆の色を浮かべたように見えた。しかしそれもつかの間、午莉阿手は次こそ止めをと左の拳を振り上げている。方や己は刀も砕けた無防備。無論、この状態が何時も通りであるといえばそうなのだが。
「――ッうおお!!」
態勢を持ち直して転がる様に後ろへ飛び退き、辛くも追撃を避ける。しかし後退に次ぐ後退で、己は海に差し掛かった絶壁の先端に追い込められていた。もはや逃げ場はない。攻撃を受ける刀も無い。無論、刀などで午莉阿手の攻撃を防げるものではないが。
「進退窮まるってところか…」
己は呟き、すべて作戦通りだと内心でほくそ笑む。
「前も後ろも駄目なら、どこへ行こうか?」
「――」
己の問い掛けに午莉阿手は答えない。まあ言葉が分からないのだから仕方の無いことではある。なので全て己の独り言なのだ。考えて虚しくなったところで、午莉阿手もまた虚しそうな目をしているのに気が付いた。そして奴は腕を振り上げる。己に最後の一撃をくれる為に。
「――では御免。午莉阿手よ、さらば」
己は午莉阿手の攻撃をかわした。何処へ避けたか? 無論、崖から飛び降りてだ。飛び降りる直前に、雪の中に隠しておいた縄を掴むと、崖の先端付近の側面にある楔の役割だった石を蹴りあげる。これが前日から組み立てた作戦の最後の仕事だった。崖はまさに急転直下、海に乗り出した所から一気に崩れだした。午莉阿手は崩壊に巻き込まれて態勢を崩し、恐ろしい叫び声をあげるが後の祭りだ。そのまま冬の荒波に消えてゆく。
――筈だったのだ。
午莉阿手は最早、人外とも言える脚力で持って崩れゆく足場から大きく上へ跳躍した。しかし、無論それでも届かない位置にまで午莉阿手は居た。丘の上には届かないのだ。丘の上には。
だが午莉阿手の、子供一人を握り潰せる程の手は、しかと己の宙ぶらりんの足に届いていた。木に結んだ縄にぶら下がり敵の転落の様を悠々自適に見ていた己は無論、突然のことにであったし午莉阿手の体重を支えきれる筈も無く、荒れ狂う海へ引きずり込まれた。
寒かろうなぁ…。うわ言のように呟く声は我ながら悲観的な色だった。
…………
………
…
――阿倉、阿倉!!
く、体が冷え切ってる…!
早く温めなければ…!!
波間の音が聞こえなくなって暫くして、小さくそんな声がした。気がした。
誰だろうか。裂姫だろうか、左殿であろうか、それとも……
ぼんやりと逡巡していると、溶けだしてしまいそうな位に柔らかい、少しシットリした妙に重量感のある膜のようなものが己の体に被さった。それと共におずおずと、腹や胸、太股辺りが心地よい温かさに包まれる。それ触れ合う場所は次第に熱を増し、じんわりと汗で湿ってくる。
はぁ…、と深い息遣いが耳元に当たった。気がした。
午莉阿手と己らの戦いが始まって三カ月。
十剣聖が一人であり、最強の男は雪の中に屹立していた。そこへ、ひょいひょいと軽やかに歩みよる男があった。
「調子はどうだぁ、午莉阿手よ。あの二人はもう倒したようだな。死体は……まあ残ってはいまいか。なにせお前の一撃は空前絶後、触れる者皆灰燼に帰してしまう最強の矛だからなあ。む? 今日は日頃にも増して随分と無口じゃないか? ――オオ、すまんすまん。ついこの地の言葉で喋りかけていたぜ。それじゃお前も何も言えんよな」
「いいや、午莉阿手はもう喋らない。永遠にな」
「むむ、これはこれは。生きていたならすぐに出てくれば良いものを、人が悪いぜ阿倉 伝奇に冨田 与奪丸」
「――午莉阿手は死んだ。向坂、貴様の野望は潰えたのだ」
「いやいや、これはむしろ手間が省けた。滅多に礼を言わない俺だが、お前たちには特別に労いの言葉をくれてやろう。というのも何だ、実は俺と志同じくする人物があってな、その人の言う所さ野望の為には午莉阿手の存在はそれだけで厄介なんだとよ。他の剣聖と違って特筆すべき剣技も無く、ただ異常な身体能力だけで十剣聖として成り立っている奴だからな。だから俺も泣く泣く、午莉阿手を処分する超劇薬も手に入れてきたんだが、まさかお前ら如きが午莉阿手を倒してしまうとは。いやあ、恐れ入った。いや、恐れてはいなけどな。しかし、どうやって午莉阿手を倒したんだ? 普通の闘いでは例え十剣聖の誰かでも勝てっこない存在なんだが…」
「午莉阿手は凍死だ。死の直前まで己と闘い続け、立ったまま動かなくなったと思ったら、もう死んでいたのだ。恐らく3ヶ月間、この男は飲まず食わず休まずに己と冨田を幾度も死地に追い込んだ。もし昨日、午莉阿手が死ななければあの時己は止めを刺されたいただろう」
「凍死だって? …プッ、ウハハハハハ!! 午莉阿手らしい死様だ、全く! 原動力は最後まで尽きなかったか。惜しいなあ、これほど優れた絡繰人形はいないというのに、奴は一体これの何を恐れると言うのかねぇ」
「この貴様ッ! 午莉阿手は最後まで見事に闘い抜いた、稀代の武人であったぞッ! その死を愚弄するとは何事だ!?」
「冨田、そんな怖い顔していたら勿体ないぜ。それにな、もっと自分自身を客観的に見る事さ。いづれ現実がやってきて、武人が何であるかも知れてくる筈さ。きっと今俺が『仲間になあれ』と誘っても無下にしちまうだろ? でもいつか、お前は俺の軍門に下るぜ。俺は知ってる。形があることは全部分かっているんだ」
「――ほざけッ!!」
「――おっと、危ない! 流石の俺もお前と闘うのは避けたいし、ここは退散するとしようか」
「待て。あんたがさっき言った『志を同じくする人』とは誰だ。午莉阿手すら斬り捨てでも協力関係にありたい人物とは」
「それはいくら口の軽い俺様でも教えられないね。では又な、冨田、それから阿倉」
「待て向坂。『רוצה ללכת הביתה אמא』とはどういう意味だ」
「おいおい、恰好良く別れを告げたのにどうして引き留める。無粋だろうが」
「そんなこと己の知るところじゃない。それより質問に答えてくれるから、わざわざ引き留められたのだよな」
「ふん、お前の態度は腹立たしいが、教えてやろう。若しかしなくとも、それは午莉阿手が言った言葉だよな。ハハハ、そうか。やっぱり奴は最高の駒だった」
「最後にして唯一、言った言葉だ」
「そうさな……それは奴が闘った理由であり、最後まで尽きなかった原動力でもある。しかしそれを知りたいのか? 教えてやらんでもない積りだったが、やはり止めておこう。だが成程、懲りない男だ。気をつけなよ、絡繰は絡繰らしくいることだ。午莉阿手だってこんな例外的なことさえなければ、一生俺の配下で収まったいられた筈だ。奴は純粋な絡繰であったからなあ。ホントどうして午莉阿手が死んでお前が生きているのやら。おっとまた喋り過ぎたぜ。じゃあ、今度こそサヨナラだ」
「く、待てッ!」
「冨田、無駄だ。追いつけまいさ。奴は元忍者だ。それに己たちはもうボロボロだ」
「口惜しいが、仕方ないか…」
「己も早く帰らねばなるまい。3ヶ月も家を留守にしているのだ。裂記らも心配していることだろうなあ」
「ん。裂記とは阿倉の女房か……?」
「いや、妹だが」
「――あ、ああそうか。なら良い。では直ぐに帰るのか?」
「無論だ」
「と、時に阿倉…。お前の国は徳川と石田のどちらに着くのだ…」
「……それは言えん」
暫しの沈黙。そして冨田が、吹雪にかき消される位の声で言う。
「――お前は、戦場で私を斬れるか…?」
「斬りたくは、ない」
己は言った。それは本心からの言葉だった。冨田とは、同じ戦場で戦った友情のようなものが芽生え始めていたのは薄々気付いていたのだ。そしてそれは冨田も同じようだった。
「それは私もだ。……願わくば、同じ陣営の仲でありたいものだな」
「そうだな」
風が、吹いている。
それから、武人らしい実にあっさりとした別れの言葉を告げると、己と冨田は逆方向に踏み出した。互いの脚が雪を踏みしめる音は、次第に遠ざかっていった。
――ギッシ、…ギッシ
――ギッシ、…………